朝廷

三条西実澄~明智光秀と正親町天皇の縁を結んだ人物で細川幽斎の師匠。孫の三条公広は春日局を養育。

天橋立 ブルー



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【三条西 実枝】

三条西実枝(さんじょうにし さねき)は、
戦国時代から安土桃山時代のにかけての
公卿・歌人及び古典学者です。
右大臣・三条西公条の子です。
官位は正二位・内大臣。

【生誕】
永正8年8月4日(1511年8月27日)
【死没】
天正7年1月24日(1579年2月19日)
【改名】
実世(初名)⇒実澄⇒実枝
【別名】
豪空⇒玄覚(法名)⇒三光院(号)
【官位】
正二位、内大臣
【主君】
後奈良天皇⇒正親町天皇
【氏族】
三条西家
【父】三条西公条
【母】甘露寺元長の娘
【兄弟】
実枝、水無瀬兼成、中院通為室、大久保忠員正室
【妻】
吉田兼満の娘、正親町三条公兄の娘
【子】
公世、公国、三条実綱、稲葉良通正室、高倉永孝室
【経歴】
天文13年(1544年)には
長男である公世と妻を相次いで失っています。
「甲信紀行の歌」によりますと、
天文16年(1547年)には甲斐国へ下向し、
武田一族の武田信繁
大井信常らと歌会を行っています。
天文21年(1552年)以降は京都を離れ、
駿河国へ移っています。
永禄12年(1569年)に帰洛した後は、
精力的に古典の講釈を行い、
三条西家に伝わる「源氏物語」の学を
集大成した「山下水」を著しました。

天正7年(1577年)には
織田信長の推挙により大納言に任じられました。
なお、この時代には
権大納言のみが任じられて
正官の大納言は空席とされる慣習でしたが、
三条西実枝は慣習を破り、
実に23年ぶりに任命されたのでした。

三条西家に代々伝わる古今伝授は
一子相伝の秘事でした。
けれども息子である三條西公国が幼かったため、
やむなく弟子の
細川藤孝(幽斎玄旨)に初学一葉を与え、
「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、
絶対に他人には伝授しないこと、
三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、
責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、
古今伝授を行ったとされています。
後にこれは現実のものとなり、
三條西公国が早世すると、
細川幽斎は三條西実枝の孫である
三條西実条に古今伝授を伝えたとされています。




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家集に「三光院集」があります。

【三條実綱】

三条実綱(さんじょう さねつな)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。
初名は三条公宣。内大臣・三条西実枝の子。
官位は正三位・権中納言、贈右大臣。
主に正親町天皇(106代)の代に
朝廷に仕えていました。
本家筋の三条家当主の公頼が
周防国へ下向していた際に
大寧寺の変に巻き込まれて殺され、
嗣子もなかったため、三条家を相続しました。
天正8年(1580年)までには
正三位・権中納言となっていましたが、
その翌年に死去しました。
享年は20歳でした。
早世を惜しまれて
死後に右大臣を追贈されました。
兄公国の次男である三条公広が三条家を相続しました。

【三条公広】

三条公広(さんじょう きんひろ)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。
権中納言・三条実綱の養子です。
官位は正二位・権大納言。
三条家19代当主。
主に後陽成天皇(107代)
後水尾天皇(108代)の二代に亘り仕えました。

【経歴】
内大臣である三条西公国の次男として誕生。
母は左大臣・西園寺公朝の娘。
初名は公盛(きんもり)。
叔父である三条実綱の養子となって
三条家の家督を相続しました。
天正9年(1581年)1月叙爵。
以降累進して慶長2年(1597年)1月、
従三位に昇り公卿に列します。
慶長4年(1599年)6月に公広と改名します。
慶長9年(1604)8月正三位、
慶長11年(1606年)1月権中納言。
慶長14年(1609)1月従二位。
慶長17年(1612年)12月権大納言に叙任しました。。

慶長19年(1614年)1月には
正二位へと昇進しましたが、
大臣になる前の寛永3年(1626年)10月、薨去。
享年は50歳でした。
惜しまれて死後に内大臣を追贈されています。

春日局(おふく)を養育】
明智光秀の重臣であった斎藤利光の娘である春日局
春日局(おふく)の外祖父は稲葉良通(一鉄)であり、
稲葉良通の妻は三条西公条の娘でした。
そのため三条西家は母方の祖母の実家にあたります。
その縁で春日局は、母方の親戚に当たる
三条西公国に養育されていたと言われています。
これによって、公家の素養である
書道・歌道・香道等の教養を
身につけることができたのでした。

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では
石橋蓮司(いしばしれんじ)さんが演じられます。

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