明智家臣

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

興禅寺



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興禅寺

興禅寺(こうぜんじ)は
兵庫県丹波市にある仏教寺院。
山号は大梅山、曹洞宗別格地、
本尊は釈迦如来(仏師春日作)。
国の史跡に指定されています。
春日局生誕地としても有名です。

【所在地】
〒669-4141
兵庫県丹波市春日町黒井2263 (興禅寺)

【駐車場・トイレ】
あり。下記の写真参照

<丹波市春日町黒井マップ>
黒井城・興禅寺マップ

【交通アクセス】
【電車】
JR知山線「黒井」駅⇒徒歩約10分程度
【車】
舞鶴若狭自動車道 春日IC⇒ 国道175号⇒興禅寺

【興禅寺とは?】
戦国時代の山城である黒井城の下館でした。
其の後、明智光秀の丹波平定後、
重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)が
居住した館の跡に創建されました。

現在も、楼門前には水を湛えた七間堀と
高い野面積みの石垣と
白ねり塀が聳えるという城砦のような
戦国時代の構えをとどめています。
山上の黒井城とともに
「黒井城跡」として国の史跡に指定されています。

【境内】
【七間堀と高石垣】
長さは約80メートルの水濠は
「七間堀」と呼ばれています。
石垣の高さは約5m程度で、
黒井城と同様の「野づら積み」です。
部分的に切込みハギが使われている部分は、
後世の改修の手が入ったと考えられています。

興禅寺の石垣と堀

【野づら積みの石垣と鐘楼と水堀】
鐘楼は赤井直正の子である
赤井直義(赤井悪右衛門直義)が
先祖供養のために寛永年間に建てられたと
伝わっているそうです。
なお、現在の鐘楼は大正2年に改築されたそうです。
2階建ての異風な形をしていますが、
この形は、創建当時の形を
そのまま忠実に再現したものであるそうです。
興禅寺・石垣と鐘楼と堀

【野づら積み】
自然石をそのまま積み上げる方法です。
加工せずに積み上げただけなので
石の形に統一性がなく、
石同士がかみ合っていません。
そのため隙間や出っ張りができ、
敵に登られやすいという欠点がありました。
けれども、排水性に優れており頑丈です。
技術的には初期の石積法に分類されます。
鎌倉時代末期には登場し、
本格的に用いられたのは
16世紀に入った戦国時代からでした。

なお、野づら積み(野面積み)の一種として、
穴太積み(あのうづみ)がありますが、
穴太積みは穴太衆が手掛けた石垣であり、
特に野づら積みの一種ではないとのことです。
穴太積みという呼称は、
穴太衆の技術の高さを誇示する為に、
江戸後期以降に用いられたとのことです。




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【切込み接ぎ(きりこみはぎ)】
方形に整形した石材を密着させ、
積み上げる方法です。
慶長5年(1600年)以降、
隅石の加工から徐々に
平石にまでわたるようになり、
江戸時代初期(元和期)以降に
多用されるようになった方法です。
石材同士が密着しているため、
排水ができないので排水口が設けられます。

【楼門】
冒頭の写真です。
宮津市にある智源寺からの移築門で、
創建年代は不明ですが、
元禄年間改修の記録が残っているそうです。

【お福腰かけ石】
お福が腰をかけて遊んだと伝わる石です。
楼門をくぐって左手方向にあります。

【お福産湯の井戸】
深さ1.7メートルで、
お福が初湯に使ったと伝わる井戸です。
興禅寺・お福産湯の井戸

【歴史】
この寺の前身は
「杖林山誓願寺」というそうです。
現在の位置から、
150メートル程
下った場所にあったそうです。
当時の実質的な八木城主とされていた
松永長頼(内藤宗勝)が
黒井城を攻城した時に
誓願寺も戦火にあい
焼失してしまったそうです。
当時の誓願寺があった場所は
「寺屋敷」と呼ばれ、
9つの寺が立ち並んでいて、
黒井城の寺町を形成していたそうです。
この時、寺の復興に努力したのが
黒井城主荻野直正(赤井直正)で、
堂宇を建立などして
再建につとめたと伝わっています。

現在の場所に移転したのは、
黒井城の落城50年近く経過した
寛永3年(1626年)のことでした。
黒井城の下館跡に、本堂等を移転し、
山号を「杖林山」から「大梅山」、
宗派を真言宗から曹洞宗に、
寺号を「誓願寺」から「興禅寺」に、
そして開基を荻野直正としたとあります。

興禅寺の高石垣と水濠は、
下館をそのまま再利用したのではないかと
見られています。

【庭園】
興禅寺・庭園

斎藤利三とその娘・福】
明智光秀が黒井城を落城させ、丹波平定をした後、
明智光秀の重臣である斎藤利三が
黒井城と下館を中心にこの地を治めていました。
天正7年(1579年)から
天正9年(1581年)の3年間、
亀山城 (丹波国)この地を
往来していたと推測されています。
その天正7年(1579年)に、
お福が生まれ3歳まで暮らしていました。
このお福こそ、後の徳川家光の乳母であり、
大奥の礎を築き統括した春日局なのです。




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<黒井駅前にあるお福の像>
黒井駅前のお福像

【春日局】

春日局(かすが の つぼね)、
斎藤福(さいとう ふく、
天正7年(1579年)⇒
寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、
安土桃山時代から江戸時代前期の女性。
江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。
「春日局」とは朝廷から賜った称号です。

【出目】
父は美濃国の名族で美濃守護代であった
斎藤氏一族で、
明智光秀の重臣であった斎藤利三です。
母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、
又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)でした。
養父は稲葉重通です。
稲葉正成の妻で、
稲葉正勝、稲葉正定、稲葉正利の母。
養子に堀田正俊がいます。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、
松平信綱、柳生宗矩と共に
家光を支えた「鼎の脚」
の一人に数えられています。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、
近世初期における女性政治家として
随一の存在であり、
徳川政権の安定化に大きく寄与した人物です。

<興禅寺にある春日局のイラスト>
興禅寺にある春日局イラスト

【生涯】
【美濃の守護代斎藤氏】
実家である斎藤氏は、
美濃守護代を代々務めた武家の名門でした。
齋藤福の実家の斎藤家も、この一族です。
守護代の斎藤氏が滅びると、
一門であった斎藤家は稲葉氏に仕えたのちに、
明智氏に仕官しました。
齋藤福は、父・斎藤利三の所領のあった
丹波国の黒井城下館(興禅寺)で生まれています。
丹波は明智光秀の所領であり、
斎藤利三は家臣として、
1万石を与えられて丹波黒井城主となり、
氷上郡統治にあたっていました。

【幸せな幼少期】
齋藤福は黒井城の平常時の住居である
下館(今の興禅寺)で生まれたとされています。
「稲葉家・御家系典」によりますと、
以下の記述が見られる、とのことです。

春日局を御乳母となし、
局頭と称して春日局と号す。
これすなわち、
丹波国氷川郡春日井庄の生所をもって
この名をなすという。

以上であり、このことから
下館が生誕の地ではないかと
推定されているということです。

齋藤福は城主の姫として、
この自然豊かな土地で、両親や兄弟たち
そして城下の人人々に囲まれ、
「斎藤屋敷のお福様」と呼ばれるほど
愛されてすくすくと育っていったのでした。

【父、処刑される】
その後、父である斎藤利三は明智光秀に従い、
ともに本能寺の変織田信長を討つも、
羽柴秀吉山崎の戦いで敗戦し、
帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑。
他の兄弟は落ち武者となって
各地を流浪したり、
すぐ上の兄である斎藤利宗は、
剃髪し降伏して、そののち還俗を許されています。

【稲葉氏に引き取られる】
齋藤福は母方の実家である稲葉家に引取られ、
美濃の清水城で過ごしたとみられます。
しかし、豊臣秀吉の追手が迫ってきました。




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【様々な学問を身に着ける才女】
その後、母方の親戚に当たる
三条西公国に養育されています。
これによって、公家の素養である
書道・歌道・香道等の教養を
身につけることができたのでした。
けれども、またしても
豊臣秀吉に目を付けられたのでした。
今度は叔母の嫁ぎ先であった四国の
長宗我部家を頼りました。
父である斎藤利三の妹で、
齋藤福の叔母にあたる女性が、
長宗我部元親に嫁いでいたのでした。
ここで福は今度は武士の法律や学問、
知識、教養を身に着けることが出来ました。
更に、そののち、三条西家を継ぎ、
お福と年齢が近く話が合うなどして
気心の知れていた
三条西実条を頼って京を訪れ、
ここで歌、文学、学問などさらに
教養を身に着けたそうです。

このようにあらゆる教養を身に着けた
齋藤福は賢く、それでいて何処へ行っても好かれる
評判の良い娘に成長していったとされています。

【福の結婚】
その後、
伯父の稲葉重通(稲葉葉一鉄の庶長子)
の養女となり、
稲葉氏の娘婿で小早川秀秋の家臣である
稲葉正成の後妻となりました。
稲葉重通は自分の娘を稲葉正則に
嫁がせていましたが、
若くして亡くなってしまいました。
そこで、斎藤福を継室として嫁がせたのでした。

ちなみに稲葉重通は庶子ではあったため、
稲葉家の本家は継ぐことはできませんでしたが、
美濃の清水城12000石を知行し
大名になっていました。

稲葉重通及び稲葉正成は、
当初は豊臣秀吉の家臣でしたが、
朝鮮出兵の折、苦戦を強いられ、
豊臣秀吉から叱責を受けていました。
それを救ったのが、徳川家康で、
そののち、稲葉正成と徳川家康の
絆が強くなっていったとされています。

稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて、
平岡頼勝と共に主君・小早川秀秋を説得して
小早川軍を東軍に寝返らせ、
徳川家康を勝利に導いた
功労者であったのでした。

【将来の将軍である家光の乳母へ】
齋藤福は、将軍家の乳母へあがるため、
夫の稲葉正成と離婚する形をとりました。
慶長9年(1604年)に
2代将軍である徳川秀忠の嫡子である
竹千代(後の家光)の乳母に
正式に任命されています。
このとき選考にあたり、
齋藤福の家柄及び公家の教養と、
夫である稲葉正成の戦功が
評価されたといわれていますが、
果たしてこれだけであったのか、
今なお、謎として現代まで
語られている処です。

息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、
元和9年(1623年)に老中に就任、
寛永9年(1632年)には
相模国小田原藩主となりました。




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【将軍様御局】
家光の将軍就任に伴い、
「将軍様御局」として大御台所・江の下で
大奥の公務を取り仕切るようになりました。
寛永3年(1626年)の江の没後からは、
徳川家光の側室探しに尽力し、
伊勢慶光院の院主であった万や、
楽、夏などの女性たちを
次々と奥入りさせました。
また将軍の権威を背景に、
老中をも上回る
実質的な権力を握っていきます。

ちなみに楽は後の4代将軍となる
徳川家綱を産んでいます。
また、夏は徳川綱重を産んでいます。
万の世話係として、斎藤福が探してきた玉も
やがて、のちの5代将軍となる
徳川綱吉を産んでいます。

【「春日局」を下賜】
寛永6年(1626年)には、
徳川家光の疱瘡治癒祈願のため
伊勢神宮に参拝し、
そのまま10月には上洛して
御所への昇殿を図ります。
上洛の理由は、
徳川家光の命によるものであったとも
言われているそうです。
徳川家光の妹である和子(まさこ)が
後水尾天皇に嫁いだのですが、
様子が心配になり、
齋藤福を伊勢神宮参拝のついでに
将軍の名代ということで
上洛させたというものでした。

しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは
御所に昇殿するための資格を欠くため、
血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、
縁があったその息子である
三条西実条と猶妹(仮の妹)の縁組をし、
公卿三条西家(藤原氏)の娘となり、
参内する資格を得て、
「三条西 藤原福子」として
同年10月10日、
後水尾天皇や中宮和子に拝謁、
従三位の位階と「春日局」の名号、
及び天酌御盃をも賜りました。

その後、寛永9年(1632年)7月20日の
再上洛の際に従二位に昇叙し、
緋袴着用の許しを得て、
再度天酌御盃も賜わりました。
よって二位局とも称され、
同じ従二位の平時子や北条政子
比肩する位階となったのでした。

狩野探幽筆の肖像画の服の姿が、
緋袴着用なので、正にこの時ですね。
この肖像画は麟祥院に所蔵されているそうです。

【子供に先立たれる】
寛永11年(1634年)に
息子である稲葉正勝に先立たれ、
幼少であったその孫の稲葉正則を養育し、
後に、還俗していた兄の斎藤利宗が後見人を務めました。
寛永12年(1635年)には徳川家光の上意で
義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えています。

【最期】
寛永20年(1643年)9月14日に死去、
享年は64歳でした。
辞世の句は
「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」

法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。
墓所は東京都文京区の麟祥院、
(住所地が文京区春日)
神奈川県小田原市の紹太寺、
京都市の金戒光明寺。

【斎藤福の人となり】
【世継ぎは家光なりと直訴】
徳川家光死後に成立した
「春日局略譜」によりますと、
徳川家光は、
両親が実弟である
国松徳川忠長)ばかりを
溺愛している様子にひどく落胆し、
自害しようとしたとされています。
齋藤福は、徳川家光を諌め、
駿府にいた大御所・徳川家康に
竹千代の世継を確定させるように
直訴したとされています。
この直訴はその時は失敗に終わりました。
しかし、後に徳川家康が
江戸城を訪れた時に、
江の国松への溺愛ぶりを見て考え直した、
という説があるそうです。

【江との対立は創作?】
●江に対抗意識を燃やして徳川家康に訴えたこと。
●夫の浮気に怒って相手を殺して家を飛び出したこと。
●後水尾天皇に譲位を迫った。

以上は、後の世の創作であるとされています。

【福の本質】
2012年、西本願寺で
斎藤福(春日局)の直筆の手紙が見つかりました。
その内容ですが、
自分の奉公人の母が西本願寺にいると知り、
自ら筆を執り良如に
「(部下を)母親に会わせ、
西本願寺で奉公させてもらえたら大変ありがたい」
と頼んでいる内容でした。
斎藤福(春日局)のような身分の高い人物が、
奉公人のために手紙を書くことは異例で、
斎藤福の優しさや母性が垣間見える
貴重な史料とされています。




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【斎藤福によって福が舞い込み出世した方々】
縁故によって出世した方々ですが、
その名の通り、斎藤福によっての出世です。
文字通り福は「福の神」でありました。

【三条西実条】
朝廷から武家伝奏に任じられ、
最終的には右大臣になりました。
子孫の三條西玄長は、
幕府に高家肝煎として迎えられました。
その際、
縁のあった武家名字「前田」を名乗りました。

【六条家】
春日局が強く望んで大奥入りしたお万の方は、
三条西家の同僚の和歌の家である家の娘です。
彼女の弟である六条氏豊も幕府から高家として迎えられ、
その際に縁のあった武家名字「戸田」を名乗りました。

【稲葉家】
浪人していた元夫の稲葉正成は
松平忠昌の家老として召し出され、
のち大名に取り立てられました。
徳川家光の小姓から
老中に出世した者は多いですが、
特に実子である稲葉正勝と
義理の孫に当たる堀田正盛が著名です。

【祖心尼(そしんに)と町野幸和(まちのゆきかず)】
姪の祖心尼とその夫である町野幸和が
蒲生氏改易に伴い浪人した際には、
祖心尼を自分の補佐として出仕させ、
また祖心尼の外孫・お振を
大奥に入れています。
お振は徳川家光の側室となり
千代姫を産んでいます。
夫の町野幸和も
幕府直参旗本として取り立てられました。

【海北友雪(かいほうゆうせつ)】
海北友雪の父である海北友松は、
斎藤福(春日局)の父親である斎藤利三が
山崎の戦いで敗死後、その遺体を
公衆の面前に晒されていた時、
その遺体を奪還し、手厚く葬った人物です。
また、齋藤利三一家を
厚く庇護していたのでした。
そのことより斎藤福(春日局)の推挙で
徳川家光に召し出され、
その御用を仰せ付けられました。

【斎藤利宗(さいとうとしむね)】
春日局の実兄です。
父や兄と共に山崎の戦いでは奮戦しました。
明智家滅亡後は、一度剃髪した後、還俗して
加藤清正に仕えていましたが、
後に徳川家光に5千石の旗本として、
取り立てられました。

【「火宅」から解放された福】
斎藤福の辞世の
の句に「火宅」という言葉があります。
【火宅】とは仏教用語で、
人々が、実際はこの世が苦しみの世界であるのに、
それを悟らないで
享楽にふけっていることを、
焼けつつある家屋 (火宅) の中で、
子供が喜び戯れているのにたとえた言葉。

とのことです。
斎藤福の人生は激動でした。
けれども、幼少期、
人々のあたたかい思いに囲まれて
すくすくと育ったことが
後の福自身を支えたことでしょう。

福は、父親の処刑された様を
見ているともいいます。
そこからの人生が第一の「火宅」だったことでしょう。

それから秀吉からの追手を
退けながら教養を身に着け、
嫁ぎ、母となり、そして時期将軍の乳母となります。
そこからの人生は第二層の「火宅」。
そして更にいくつもの「火宅」が
重なっていったことでしょう。

けれども斎藤福は、
父である斎藤利三、
その父の上司である明智光秀、
そして上司の娘のガラシャが成しえなかった事を
見事になすことが出来たのです。
そして、全てのことから解放され、
多重の層であった全ての「火宅」からも
逃れ、自由になった福の魂は、
両親や兄弟が揃っていた
あの遠い穏やかな日々の中に
還っていったのかもしれません。

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