明智家臣

猪飼昇貞(猪飼野昇貞)~明智家臣で堅田水軍棟梁~琵琶湖の自治都市・堅田を任される

堅田 猪飼昇貞



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猪飼昇貞

猪飼 昇貞(いかいのぶさだ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
別名に定尚、正勝が伝わりますが、
署名によって確かめられるのは昇貞とのことです。
姓は猪飼野とも伝わっています。

【生い立ち】
「猪飼家系譜之図」
(高島幸次「近江竪田の土豪猪飼氏について」所収)
によると猪飼野佐渡守宣尚の子として
誕生したとあるそうです。

近江国志賀郡堅田水軍の棟梁の家柄でした。
はじめ六角氏に仕え、
のちに浅井氏に仕えていたとあります。
永禄12年(1569年)に、
父親である猪飼野佐渡守宣尚が、
織田信長より志賀群の木場を安堵された
旨の記録がありことから、
織田信長の上洛の際には、
これに通じたものと見なされています。
けれども、立場は微妙なものであったそうです。

その立場がはっきりとしたものになったのは、
元亀元年(1570年)の志賀の陣終結以後でした。

同じ堅田衆である居初又次郎及び馬場孫次郎
と共に織田信長に降伏して仕えました。
そして織田信長は、
配下の武将である坂井尚政を
堅田に入れたとの事です。
それからは、
浅井氏への警戒に当たったとされています。
同年11月25日、
織田家から派遣された坂井政尚らと共に
物流を押さえるために堅田を守備しましたが、
前波景当率いる朝倉軍の攻撃を受けて坂井政尚は戦死、
猪飼(猪飼野)昇貞らは船に乗ってかろうじて、
織田信長の陣所に逃れたとのことです、

その後、
織田信長に志賀郡を与えられた
明智光秀の指揮下に置かれて
志賀郡の一職支配を任せられます。
元々の基盤であった
琵琶湖の水運・漁業を統轄するなど、
独立した権限を持っていたとのことです。
更に、高島七頭である朽木元綱らと共に
高島郡の織田信長蔵入地の代官も務めていたそうです。
元亀3年(1572年)7月には、
明智勢として浅井方の沿岸拠点へ向けて
放火・銃撃を行っています。




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天正10年(1582)4月22日付の
昇定下代による伊崎立場の
猟場米請取状以降は消息を絶ち、
史料などにも掲載されてはいません。
従って現在では、
本能寺の変に際し明智方に加担し、
戦死したものと推測されているそうです。

【猪飼秀貞】

猪飼(猪飼野)秀貞(いかい(いかいの)ひでさだ)。
子である猪飼(猪飼野)秀貞も光秀に仕え、
明智半左衛門秀貞という名を賜ったとあります。
弘治元年(1555年)に生まれたとされています。
名前は他にも「政俊」や「政利」がありますが、
「大徳寺文書」によりますと「秀貞」となるそうです。

天正8年(1580年)2月4日、
津田宗久の茶会に出席しています。
「宗久記」によりますと、
「明智半左衛門秀貞」との
記載があるそうですが、
「片田之いかい事也」と
傍記されているとのことです。
また同年の12月10日、
明智掃部(あけちかもん)らと共に、
津田宗久の茶会に出席しています。
猪飼秀貞自身も茶会を堅田にで催し、
津田宗久をらを招いていたとのことです。

【明智掃部(あけちかもん)】
明智光秀の家臣である並河易家(なみかわやすいえ)
と同一人物とも推測されています。

本能寺の変に際しては、
明智方に属したと思われる
父・猪飼昇貞とは袂を分かち、
近江に潜伏中だった斎藤利三を捕縛しました。
その後は丹羽長秀の家臣を経て徳川家康に仕え、
遠江国・駿河国にて490石の知行を与えられたそうです。
文禄5年(1596年)6月21日に死去し、
享年は42歳であったと伝わっています。

【堅田】

堅田(かたた)は、滋賀県大津市北部の地名です。
広義には真野や仰木などの周辺地区も含む
琵琶湖の西岸に面し、中世には水運の拠点として栄えました。
現在も大津市北部の拠点であり、
JR西日本湖西線開業以降、
住宅地としての発展をし続けています。
湖畔には満月寺浮御堂と出島灯台があり、
浮御堂の「堅田の落雁」は
近江八景の一つとして有名であるそうです。

【近江八景】
石山秋月(いしやま のしゅうげつ)⇒石山寺(大津市)
勢多(瀬田)夕照 (せたのせきしょう)⇒ 瀬田の唐橋(大津市)
粟津晴嵐(あわづのせいらん)⇒ 粟津原(大津市)
矢橋帰帆(やばせのきはん)⇒ 矢橋(草津市)
三井晩鐘(みいのばんしょう)⇒ 三井寺(園城寺)(大津市)
唐崎夜雨(からさきのやう)⇒ 唐崎神社(大津市)
堅田落雁(かたたのらくがん)⇒ 浮御堂(大津市)
比良暮雪(ひらの ぼせつ)⇒ 比良山系

<堅田>
猪飼昇貞 堅田

【堅田の歴史】
堅田は琵琶湖の狭窄部に位置しており、
背後に堅田丘陵があります。
水運が主体であった時代には湖上交通の要衝として栄え、
琵琶湖沿岸で最大の自治都市が築かれていました。




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【古代】
古代には近江国滋賀郡でした。
11世紀後半には堅田の漁師達が
下鴨社の支配下に入り(堅田御厨)、
続いて堅田とその周辺地域に
比叡山延暦寺の荘園(堅田荘)が成立しました。

鎌倉時代】
承久の乱後、佐々木信綱が現地の地頭に任じられました。
けれども、延暦寺・下鴨社ともに対抗していました。

【延暦寺VS下賀茂神社VS佐々木一族】
延暦寺は堅田に湖上関を設置して他所の船を排斥し、
下鴨社は堅田の漁民・船主に、
漁業権・航行権(水上通行権)を保障する事で
堅田の経国在民的・交通的特権を保証していました。
以後、彼らと近江守護に任ぜられた佐々木氏(信綱の一族)は、
堅田とその漁業権・航行権を巡って激しく争うことになりました。

<比叡山延暦寺>
延暦寺

【堅田水軍】
中世以後堅田荘には
「堅田三方」
(後に1つ増加して「堅田四方」)の惣組織が形成され、
殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる
「堅田衆」による自治が行われるようになりました。
「堅田衆」は「堅田湖族」とも呼ばれていました。
殿原衆は堅田の水上交通に従事しており、
堅田船と呼ばれる船団を保有して、
時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、
堅田衆の指導的な地位を確保していたとのことです。
一方、全人衆の中には、
商工業によって富を得るものも多く、
殿原衆との共存関係を築いてきたとのことです。

【堅田門徒】
室町時代、殿原衆は延暦寺から堅田関の運営を委任されて、
堅田以外の船より海賊行為を行わない代償として
上乗(うわのり)と呼ばれる
一種の通行税を徴収する権利を獲得するようになりました。

また、この頃堅田に臨済宗が広まっており、
武士階層が多い殿原衆の間で
広く支持されるようになって
祥瑞寺が創建されました。
なおこの寺は、
青年期の一休宗純が修行した寺としても
知られているそうです。




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一方同じ頃、浄土真宗の本福寺が
やはり堅田に創建されています。
その後一時期臨済宗に改まりますが、
3代目にあたる法住(1397年⇒1480年)及び
明顕(4代目、1445年⇒1509年)父子が、
浄土真宗に復帰して本願寺に属すると、
本願寺8世蓮如からの厚い信任を受けるようになります。
やがて、蓮如が寛正の法難によって、
大谷本願寺を延暦寺によって破壊されると、
堅田に逃亡する事になります。
蓮如は全人衆からの強い支持を受けて、
後に「堅田門徒」と称せられるほどの勢力を
この地に築くことになったということです。

【延暦寺VS殿原(地侍)衆】
けれども、
領主である延暦寺が「仏敵」とした蓮如を
堅田が匿っているという事実は
延暦寺を刺激することになりました。
更に延暦寺はかねてより、
殿原衆が勝手に上乗を請求していることに対しても
不満を抱いていたとのことです。
そんな最中の1468年、
室町幕府御蔵奉行が花の御所再建のために、
調達した木材を運搬する船団が上乗を払わないことを理由に
堅田衆が積荷を差し押さえを決行しました。
これに激怒した室町幕府8代将軍足利義政は、
領主である延暦寺に堅田の処分を要求しました。

同年4月16日、
延暦寺は堅田に対して焼き討ちを行ったそうです。
これによって延暦寺を支持していた地域を含めて
堅田の町のほぼ全域が焼失して
住民は沖島に逃れたと伝えらえています。
これを堅田大責(かたたおおぜめ)、
と言われている出来事、とのことです。

【全人衆の台頭】
けれども2年後に、
今度は延暦寺と堅田の南にある坂本との衝突が起きると、
延暦寺側が譲歩して、
延暦寺に多額の礼金を上納することを条件に
堅田の再興が許されることになったそうです。
この戦いで対延暦寺戦で大敗を喫した殿原衆は、
権力を失墜させて逆に全人衆は、
彼らと対等な発言力を獲得することになったとのことです。

その結果、
人口の多数を占める
全人衆の多数が組織していた
堅田門徒の発言力が高まり、
堅田衆の指導的地位を
獲得するようになったそうです。
ところが、
5代目住持明宗の代で戦国時代に入ると、
堅田門徒の指導的地位を得ていた本福寺は、
大津の門徒を率いていた
本願寺10世証如の後見人である
蓮淳(蓮如の6男で証如の外祖父)の讒言によって、
3度にわたる破門を受けて、
門徒の指導権も所領・財産も残らずすべて、
蓮淳傘下の称徳寺(後の慈敬寺)
に奪われてしまいました。
その結果、慈敬寺が
指導的地位に立つことになりました。

讒言(ざんげん)

他人をおとしいれるため、
ありもしない事を目上の人に告げ、
その人を悪く言うこと。

【織田信長が堅田水軍を掌握す】
戦国時代には湖上水運によって栄え、
「甚だ富裕なる町」とルイス・フロイスに評された堅田でした。
が、織田信長の上洛後に起きた
信長包囲網の蜂起に際しては、
本願寺や延暦寺及び
交易相手であった朝倉氏との関係から、
反織田信長側の立場をとっていました。
それに対して織田信長は
朝倉義景浅井長政・本願寺に包囲された
志賀の陣において、1571年1月1日に、
堅田水軍である
猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎らが、
織田信長方に内通したのを受けて、
坂井政尚を派遣して堅田を攻撃しましたが、
朝倉義景の家臣前波景当に攻撃されてしまい、
坂井政尚は戦死し、
猪飼昇貞らも逃亡して堅田占領は失敗に終わります。
ところが、間もなく織田信長は方針を転換して、
全人衆主導の自治に不満を抱く殿原衆を切り崩して
支配下に置いて堅田船の船団の支配権を
手に入れることに成功します。
次いで1572年には殿原衆と結んで
全人衆と真宗寺院を攻撃して、
これを屈服させたとあります。
その後、織田信長配下はもちろんの事、
豊臣政権・江戸幕府も、
いずれも堅田における特権に関しては、
基本的には大津代官従属のもとで
以前のものを承認し続けたそうです。




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【堅田の戦い】
元亀元年(1570年)9月16日から
12月17日にかけて発生した
織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦い、
後年「志賀の陣」と呼ばれる戦いの中で
唯一の衝突となった戦いです。

10月25日になって、
堅田水軍の棟梁である猪飼昇貞と
居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に内通しました。
織田信長は坂井政尚・安藤右衛門佐・桑原平兵衛ら
1000の兵を堅田の砦に侵入させ、
防備を固めることで西近江の物流の差し押さえを狙いました。
けれども、朝倉軍も素早く坂井の堅田入りを察知したのでした。

翌10月26日には、
朝倉景鏡・前波景当や一向宗門徒らが
比叡山より下って堅田に攻め寄せました。
堅田の地侍たちも真っ二つに分かれて、
激戦となったそうです。
坂井政尚の軍は堅田を囲まれ孤立してしまい、
前波景当を返り討ちにするなどしたものの、
結局は織田軍は壊滅し坂井政尚らは戦死してしまいました。
猪飼昇貞らは堅田を捨てて船で琵琶湖を渡って
織田陣営へ逃走し、織田方の敗北に終わりました。
「言継卿記」によりますと、
戦死者の数は、織田方が500、
朝倉方が800と記されているそうです。

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コメント

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  • コメント (2)

  1. 広島市南区元宇品の歴史を研究する者です。
    宇品島の最初の住人は、戦国時代に戦乱により居住地を追われた武系家族が1560年頃に住み始め,次いで明智光秀の敗戦で,明智領を追われた有力者の数家族が、1582年に琵琶湖から淀川を下り、瀬戸内海を渡りこの島にたどり着き、先住者に迎えられ定住したと言われている。

    4家族と言われ,その後落ちてきた身分を隠すため出身地である坂本を姓にしたり,近江屋(大宮姓)と屋号を称した。

    光秀の子を坂本から逃したか?
    船はどうした操船は?
    そこで,特に気になる人物を発見しました猪飼昇貞です。
    近江国志賀郡堅田水軍の棟梁であり,琵琶湖の水運・漁業を統轄するなど、独立した権限を持っていた有力者。
    天正10年(1582年)4月22日付の昇定下代による伊崎立場の猟場米請取状以降は消息を絶ち、史料などにも掲載されていない。

    光秀の子を猪飼が大阪から四国,九州へ逃したという話は聞いたことがありませんか?

    • 宇野薫子
    • 2019年 11月 28日

    この度はお問合せ頂きありがとうございます。
    猪飼昇貞の晩年は謎が多く、
    明らかにはなっておらず、
    あえて意図的にぼかした形跡すら見受けられます。
    私も猪飼昇貞の足跡について興味はありますが、
    現段階では残念ながらわかりません。
    今後、もし何かしら判明しましたら
    その時はコメントなどで追記など
    させていただきます。

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