朝廷

正親町天皇とは?どん底の朝廷を立て直し、天皇家の権威を復活させた天皇。本能寺の変の関与説も。

法隆寺 建屋内部



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正親町天皇(おおぎまちてんのう】
正親町天皇(おおぎまちてんのう、
永正14年5月29日(1517年6月18日)⇒
文禄2年1月5日(1593年2月6日)は、
日本の第106代天皇
(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日⇒
〈天正14年11月7日(1586年12月17日)。
諱は方仁(みちひと)。

【生涯】
永正14年(1517年)5月29日、
後奈良天皇の第一皇子として生まれました。

【天皇の地位を受け継ぐも即位できず】
弘治3年(1557年)、
後奈良天皇の崩御に伴って、
天皇の位を受け継ぎました。
当時、天皇や公家達は貧窮しており、
正親町天皇も即位後約2年もの間、
即位の礼を挙げることができませんでした。
永禄2年(1559年)春、
安芸国の戦国大名である毛利元就から
即位料・御服費用の献納を受けたことにより、
永禄3年(1560年)1月27日に
即位の礼を挙げることが出来たのでした。

【本願寺の権威が増す】
さらに、本願寺法主・顕如も
莫大な献金を行っており、
天皇から門跡の称号を与えられています。
これ以後、本願寺の権勢が増していきます。
永禄8年(1565年)には、
キリスト教宣教師の京都追放を命じたのです。

織田信長との関係】
朝廷の財政は逼迫し、
権威も地に落ちかけていました。
永禄11年(1568年)、
織田信長は、正親町天皇を保護するという
大義名分により、京都を制圧したのでした。
この上洛によって、
皇室の危機的状況に変化が訪れました。
織田信長は、逼迫していた朝廷の財政を
様々な政策や自身の援助により回復させたのです。
一方で、天皇の権威を用い、
織田信長の敵対勢力に対する度重なる
講和の勅命を実現させたのでした。
元亀元年(1570年)の
朝倉義景浅井長政との戦い、
天正元年(1573年)の
足利義昭との戦い、
天正8年(1580年)の
石山本願寺との戦いにおける講和は、
いずれも正親町天皇の勅命によるものです。
ただし、本願寺との和議は
本願寺側からの依頼という説もあるとのことです。
その間の天正2年(1574)には、
織田信長に蘭奢待の切り取りを許可し、
天正5年(1577年)には
織田信長の生前の極官となる
右大臣を宣下したのでした。

イエズス会の宣教師は、
日本には正親町天皇と織田信長の
2人の統治者がいると報告書に記述しています。




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豊臣秀吉の時代】
豊臣氏へ政権が移った後も、
豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、
正親町天皇を政権の後ろ楯としました。
当時、豊臣秀吉は中国・朝鮮や
東南アジアへの進出という
野望を抱いていました。
明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、
その後の「日本帝位の儀」をはじめとした
朝廷人事についても
構想していたとされています。
この計画は頓挫したものの、
その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、
結果的に皇室の権威は高まったのでした。

天正14年(1586年)、
孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して
仙洞御所に隠退しました。
文禄2年(1593年)1月5日に崩御しました。
宝算(聖寿)77でした。

【正親町天皇の譲位問題】
【1】
【織田信長が譲位を要求したとする説】
正親町天皇は天正元年(1573年)頃から
織田信長にその存在を疎まれるようになります。
そして、たびたび譲位を要求されるようになったのでした。
また、2年後には譲位後に居住する
仙洞御所の予定地を探していたともされています。
織田信長としては、
儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、
より朝廷の権威を利用しやすいものにするという
思惑があったとも考えられています。
けれども、天皇はそれを最後まで拒んだのでした。
このような事情によって、
本能寺の変に関する一説として
朝廷関与説が浮上しています。

【2】
【織田信長が譲位に反対したとする説】
上記の説とは異なり、
正親町天皇が譲位を希望して
織田信長がこれに反対していたという
説もあるそうです。
朝廷の内部資料である
(清涼殿に仕える女官の日誌)
「お湯殿の上の日記」によりますと、
天正9年(1581年)、
織田信長が京都で
大規模な馬揃えを行った直後の3月9日に、
正親町天皇から退位の意向が
織田信長に伝えられました。
同年3月24日に譲位が
いったん朝議で決定されて、
この事を「めでたいめでたい」
とまで記されているとのことです。

それにもかかわらず、
「兼見卿記」4月1日の条に、
一転して中止になったと記されています。
当時は仙洞御所が無く、
天皇あるいは織田信長のどちらかが
譲位を希望したとしても、
「退位後の生活場所」という
現実的な問題から何らかの形式で
仙洞御所を用意できない限りは
譲位は困難であったとのことです。
後年の正親町天皇の譲位においては、
それに先立って豊臣秀吉が
仙洞御所を造営しています。

けれども、譲位に関する諸儀式や
退位後の上皇の御所の造営などにかかる
莫大な経費を捻出できる
唯一の権力者である織田信長が、
譲位に同意しなかったからとするのが
妥当と見なされています。
ちなみに、
戦国時代に在位した3代の天皇が
全て譲位をすることなく
崩御しているのは、
譲位のための費用が
朝廷にはなかったからでした。

天正元年の時点で、
正親町天皇は57歳(同9年には65歳)、
誠仁親王は22歳(同30歳)でした。
天正9年の時点では、
天皇の病気の記事が頻出するようになります。
よって、譲位を行う好機に
さしかかっていたのでした。
それにもかかわらず、
織田信長が譲位に関して
積極的な行動を取らなかったのは、
むしろ譲位に消極的だったからではないか?
という見解があります。

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう)さんが演じられます。

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