斎藤義龍(さいとう-よしたつ)は、美濃のマムシと称された斎藤道三(斎藤利政)の長男で、1527年に生まれました。
母は側室の三芳野(みよしの)で、はじめ斎藤高政と称しています。
織田信長は1534年生まれですので、斎藤義龍(斎藤高政)のほうが7歳ほど、年上になります。
1554年に父・斎藤道三が隠居したため、斎藤義龍が稲葉山城主となって斎藤家の家督を継いだとされます。
正室は、近江・小谷城主である浅井久政の養女(浅井亮政の娘)で、近江の方と呼ばれていました。
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なお、斎藤義龍の母・深芳野は、もともと美濃守護・土岐頼芸の愛妾であったとされ、1526年に、その時、家臣であった斎藤道三(長井規秀)に譲られた美女であったと言います。
一説では、この時、すでに深芳野は土岐頼芸の子を宿していたともされ、よく時代劇やドラマでは、その子が斎藤義龍であるとされます。
このような話もあるくらい、斎藤義龍と斎藤道三の親子は仲が悪くなり、家中を巻き込む争いとなりました。
弟である斎藤孫四郎(母は小見の方)、斎藤喜平次を、父・斎藤道三が溺愛するようになり、危機感を募らせた斎藤義龍は、ついに動きます。
1555年、斎藤義龍は叔父とされる長井道利と共に、弟の孫四郎・喜平次らを呼び出すと、日根野弘就に命じて殺害しました。
斎藤道三は山深い大桑城へ逃れて兵をまとめ、1556年、長良川にて対峙しました。
しかし、斎藤道三に味方する家臣は少なく、旧土岐氏の家臣らの支持を受けた斎藤義龍が有利に戦い、長良川の戦いにて斎藤道三は討死しました。
このとき、明智光安などは、斎藤道三に味方していたため、攻略されており、明智光秀ら越前に落ち延びたとされます。
また、織田信長は、帰蝶(濃姫)の父・斎藤道三を救援しようと軍勢を出していましたが、間に合いませんでした。
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こうして、宿老制度・貫高制など改革を行った斎藤義龍は足利幕府の相伴衆にも列しました。
しかし、織田信長の侵攻にて押される中、1561年に急死しています。享年35。
家督は、子の斎藤龍興が継ぎましたが、愚案ともされる戦国大名で斎藤家は滅亡します。
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