城跡

由木城跡(柚木城跡)~大石氏館跡・大石定久公の像とお墓~永林寺にて 

由木城跡




由木城

由木城は、由木氏館などとも呼ばれていました。
平安末~鎌倉初期には
横山党の一族由木氏が住んでいたと言われており、
平安時代から鎌倉・室町時代に掛けて
武蔵国の一大勢力であった
武蔵七党のひとつ、
横山党の城郭であったとされています。
なお、南北朝期には
多摩郡船木田荘のうち
由木郷の名も見えるとのことです。

其の後、
関東管領であった
山内上杉氏の重臣である
大石定久の領地となりました。
家督を相続してのちに
滝山城へ居城を移していますが、
その際に叔父である
一種長純大和尚にこの地を譲り、
天文元年(1532年)に
永鱗寺が創建されたとのことです。

<永林寺 由来>
永林寺

大石定久は北条氏照を養子に迎えて
家督を譲りましたが、天正18年(1590年)の
小田原征伐」により北条氏が滅亡すると、
大石定久の実子である大石定仲と
養子である定勝はともに
徳川家康に仕えたとのことです。
その後、関東に入封した徳川家康が
寺を訪問して
「名にしよう、永き林なり」と賞賛し、
寺名を永林寺に改めたと伝わっています。
現在城址は永林寺の境内となっており
遺構は現在、ほぼ確認することはできませんが、
永林寺の墓地の高台、
お墓の奥の階段を上ると城址碑があります。
更にその少し奥には大石定久の石像があります。
また墓地には大石定久の墓が残っています。

【所在地】
〒192-0372 東京都八王子市下柚木4(永林寺)

【駐車場】
専用の駐車場があります。
総門前に駐車場があります。

【交通アクセス】
京王・相模原線「南大沢」駅よりバスがあるとのことです。

<場所>
青印は参拝者用の駐車場入り口付近です。

<永林寺 境内案内板>
永林寺 境内案内板

<永林寺・総門>
永林寺 総門

<三門>
三門

<三門 説明板>
三門 説明板

<中雀門>
永林寺 中雀門

<本堂>
永林寺 本堂

<永林寺 境内絵図>
永林寺 境内絵図

<三重塔>
永林寺 三重塔

<由木城入り口>
由木城入り口

<大石定久公の墓>
大石定久公の墓

<由木城跡>
由木城跡

<大石定久公の像>
大石定久公の像

【大石定久】

大石 定久(おおいし さだひさ)は、
戦国時代の武将。
山内上杉家及び小田原北条氏の家臣。
武蔵国守護代で滝山城主でした。

大石氏は代々関東管領・上杉氏重臣として
武蔵守護代を任されていました。





延徳3年(1491年)、
高月城のち滝山城主であった
大石定重の子として誕生しました。
大石定久も父の後を継いでいましたが、
天文15年(1546年)、
上杉氏が北条氏康河越城の戦いで大敗し没落すると、
主君の上杉憲政を見限って
小田原北条氏に臣従しました。

その後、北条氏康の三男である
北条氏照を娘・比左の婿養子として
迎え入れて滝山城と武蔵守護代の座を譲り、
入道して心月斎道俊と号し、
多摩郡五日市の戸倉城に隠居したとのことです。

けれども、
隠居後も快く従属したわけではなく、
上杉謙信や隣接する青梅の勝沼城一帯を領する
三田綱秀らと誼を通じていたそうです。
上杉謙信との軍事・外交は
養子の北条氏照が重要な働きをしていました。
程なく、三田領は北条氏照によって
併呑されることになりました。

天文18年(1549年)に死去したとのことです。

【大石氏】

大石氏(おおいしし)は、日本の氏族。
清和源氏義仲流(血統は藤原北家秀郷流とも)
と称した信濃国佐久郡大石郷の大石氏は
室町時代に関東地方で活躍し、
戦国時代には武蔵国の守護代となりました。

【出自】
信濃国佐久郡発祥の氏族とされています。
関東管領上杉氏のもと、
四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)
の一人に数えられ、
代々武蔵国の守護代を務めていたとされています。

【何故「大石」さん?】
藤原秀郷の後裔(沼田氏と同族とも)といい、
信濃国佐久郡大石郷に住んでいたことから、
大石氏を名乗ったといわれているそうです。

【関東管領の宿老】
室町時代初期、
大石為重は初代関東管領の上杉憲顕に仕えました。
しかし彼には男子がなく、
正慶3年(1334年)に、
縁戚関係にある
木曾義仲の後裔と称した
大石信重(木曽家教の三男、家村の弟)
を婿養子として迎え、
実際の藤姓木曾氏の庶家となったということです。

大石信重は観応2年(1351年)、
挙兵した南朝方の新田義宗との
笛吹峠の合戦で先陣を勤めたそうです。
その戦功として、
延文元年(1356年)
武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、
二宮(現・あきる野市)に館を構えたとされています。
また、「武蔵国目代職」にも任じられたとのことです。
至徳元年(1384年)、
大石信重は浄福寺城
(現・八王子市下恩方町)を築城しました。
応永年間には叔父(養叔父)の
大石能重(為重の弟)が
武蔵・上野・伊豆各国守護である
上杉能憲に仕えて守護代を務めたていたとのことです。

【高月城へ】
長禄2年(1458年)、
大石顕重(大石信重の玄孫)が
高月城(現・八王子市高月町)を築城し、
二宮から本拠を移しました。

【滝山城へ】
15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、
漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、
武蔵国守護の家臣に、
木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、
武蔵国20余郡を掌握しているとの記述があるそうです。
大永元年(1521年)、
大石定重は高月城の北東1.5kmに
滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し
本拠を滝山城に移転したのでした。

【上杉家と共に】
天文15年(1546年)、
関東に進出した北条氏康が河越夜戦で大勝します。
その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、
関東管領山内上杉氏は
関東から追われ、
越後国の長尾景虎を頼ることになりました。

大石綱元は、上杉憲政に従い越後国に入り、
その後は長尾氏(上杉氏)家臣となりました。
上杉景勝が会津120万石に移封されると
保原城を任されたのでした。
大石氏は代々上杉家の要職を務め、
子孫には米沢藩で名奉行と言われた
大石綱豊などがいます。





【小田原北条氏から徳川へ】
小田原北条氏により
両上杉氏が関東から消滅すると、
大石定久は北条氏康の
三男である氏照を
娘・比佐の婿に迎えて、
自らは戸倉に隠居しました。
氏照が北条氏に復すると、
大石定久の実子である
大石定仲が家督を継ぎました。

小田原征伐により
小田原北条氏が没落すると、
大石定仲と義弟(定久の養子)である
大石定勝の子孫は徳川氏に仕えたそうです。
旗本や八王子千人同心
陪臣(一橋家の近習番衆)になった者もあり
明治に至りました。

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