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上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

上杉謙信像




上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、
戦国時代の越後国の大名。
関東管領(1561年 – 1578年)。
山内上杉家16代当主。
戦国時代でも屈指の戦上手とされ、
その神懸った戦績から後世、軍神や、
「越後の龍」などと称されていました。

【生まれ】
享禄3年(1530年)1月21日、
越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男
(または次男、三男との説有り)虎千代として
春日山城に生まれました。
母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。
幼名の虎千代は
庚寅年生まれのために名づけられたとあります。
主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり
「娘婿の弟」にあたります。
当時の越後国は内乱が激しく、
下剋上の時代にあって
父親の長尾為景は戦を繰り返していました。

<春日山城址>
春日山城址

【越後長尾家と上田長尾家の抗争】
虎千代誕生直後の享禄3年(1530年)10月、
上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、
長尾為景に反旗を翻します。
この兵乱に、同族の長尾一族である
上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応しました。
越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し
府内に居住した三条(府内)長尾家、
古志郡を根拠地とする古志長尾家、
魚沼郡上田庄を地盤とする
上田長尾家の三家に分かれて
守護代の地位を争っていました。
けれどもやがて三条長尾家が守護代職を独占します。
上田長尾房長はそれに不満を抱いて、
上杉定憲の兵乱に味方したのでした。
長尾為景は三分一原の戦いで勝利しましたが、
上田長尾家との抗争は以後も続き、
次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や
御館の乱へと発展していくのでした。

【父の隠居、兄の家督相続】
天文5年(1536年)8月、
長尾為景は隠居し、
虎千代の兄である長尾晴景が家督を継ぎました。
虎千代は城下の林泉寺に入門し、
住職の天室光育の教えを受けたとされています。
実父に疎んじられていたため、
長尾為景から避けられる形で寺に入れられたと見られています。

<林泉寺>
林泉寺

【父の死去と国政の状況】
天文11年(1542年)12月、
長尾為景は病没しましたが、
敵対勢力が春日山城に迫ったため、
虎千代は甲冑を着け、
剣を持って亡父の柩を護送したとされています。
兄である長尾晴景に越後国をまとめる才覚はなく、
守護・上杉定実が復権し、
上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって
国政を牛耳る勢いでした。

【元服して長尾景虎となる】
天文12年(1543年)8月15日、
虎千代は元服して長尾景虎と名乗り、
9月には兄の晴景の命を受け、
古志郡司として春日山城を出立して三条城、
次いで栃尾城に入ったとされています。

当時、越後では守護・上杉定実が
伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を
婿養子に迎える件で内乱が起こっており、
越後の国人衆も養子縁組に
賛成派と反対派に二分されていました。
けれども兄の長尾晴景は病弱なこともあって
内紛を治めることはできなかったのでした。





【景虎の初陣・栃尾城の戦い】
景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、
長尾晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こしました。
15歳の長尾景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は
栃尾城に攻めよせました。
けれども長尾景虎は少数の城兵を二手に分け、
一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させたのでした。
混乱する敵軍に対し、
さらに城内から本隊を突撃させることで
壊滅させることに成功したのでした。
このように謀反を鎮圧することで初陣を飾ったのでした。

【家督相続と越後統一】
【黒滝城の戦い】
天文14年(1545年)10月、
守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が
長尾氏に対して謀反を起こしました。
黒田秀忠は守護代である長尾晴景の居城である
春日山城にまで攻め込み、
景虎の兄である長尾景康らを殺害し、
その後黒滝城に立て籠もりました。
長尾景虎は、兄に代わって
上杉定実から討伐を命じられ、
総大将として軍の指揮を執り、
黒田秀忠を降伏させました。

【兄との関係の険悪化】
けれども、翌年の天文15年(1546年)2月、
黒田秀忠が再び挙兵し、攻め寄せて攻撃を加えたので、
二度は許さず黒田氏を滅ぼしました。
するとかねてから長尾晴景に不満をもっていた
越後の国人の一部は
長尾景虎を擁立し
長尾晴景に退陣を迫るようになり、
長尾晴景と長尾景虎との関係は
険悪なものとなりました。

【景虎派VS晴景派】
天文17年(1548年)、
長尾晴景に代わって長尾景虎を
守護代に擁立しようとの動きが盛んになります。
その中心的役割を担ったのは
揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、
北信濃の豪族で長尾景虎の叔父でもある
中野城主・高梨政頼でした。
さらに栃尾城にあって長尾景虎を補佐する本庄実乃、
長尾景虎の母・虎御前の実家である
栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、
与板城主・直江実綱、
三条城主・山吉行盛らが協調し、
長尾景虎派を形成しました。
これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や
蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは
長尾晴景についたのでした。

【長尾景虎、守護代になる】
同年12月30日、
守護・上杉定実の調停のもと、
長尾晴景は長尾景虎を養子とした上で
家督を譲って隠退し、
長尾景虎は春日山城に入り、
19歳で家督を相続し、守護代となりました。

【越後国主となる】
天文19年(1550年)2月、
上杉定実が後継者を遺さずに死去したため、
長尾景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から
越後守護を代行することを命じられ、
越後国主としての地位を認められたのでした。

【22歳で越後統一へ】
同年12月、
一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が
長尾景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こしました。

天文20年(1551年)1月、
長尾景虎は長尾政景方の
発智長芳(ほっち ながよし)の居城である板木城を攻撃し、
これに勝利します。
さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、
これを鎮圧しました。
降伏した長尾政景は
長尾景虎の姉である
仙桃院の夫であったこと等から助命され、
以降は長尾景虎の重臣として重きをなしていきます。
長尾政景の反乱を鎮圧したことで
越後国の内乱は一応収まり、
長尾景虎は22歳で越後統一を成し遂げたのでした。

一方で上田長尾家と
古志長尾家の敵対関係は根深く残り、
後の御館の乱において、
上田長尾家は長尾政景の実子である上杉景勝に、
古志長尾家は上杉景虎に加担したのでした。
その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至ったのでした。





【第一次〜第三次川中島の戦い】
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、
甲斐国の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と
上杉謙信(長尾景虎)との間で、
北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいいます。
なお、最大の激戦となった第四次の戦いが
千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である
川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、
その他の場所で行われた戦いも
総称として川中島の戦いと呼ばれています。

【第一次合戦】
天文22年(1553年)
【第二次合戦】
天文24年(1555年)
【第三次合戦】
弘治3年(1557年)

小田原城の戦い】
【上洛し、足利義輝に拝謁す】
永禄2年(1559年)5月、
再度上洛して正親町天皇や
将軍である足利義輝に拝謁します。
このとき、足利義輝から
管領並の待遇を与えられました。

なお、この年には長尾景虎だけではなく、
織田信長斎藤義龍も急遽上洛しています。

長尾景虎と足利義輝との関係は
親密なものではあったようですが、
足利義輝が幕府の重臣である
大舘晴光を派遣して
長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し
三好長慶の勢力を駆逐するために
協力するよう説得した際には、
三者の考え方の違いが大きく実現しなかったのでした。

【ついに関東へ出陣す】
永禄3年(1560年)5月、
桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つであった
今川家が崩れた機会に乗じ、
ついに長尾景虎は北条氏康を討伐するため
越後国から関東へ向けて出陣し、三国峠を越えます。
上野国に入った長尾景虎は、
長野業正らの支援を受けながら
小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・
白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を攻略しました。
厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年しています。
この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、
檄を飛ばして参陣を求めています。
長尾景虎の攻勢を見た関東諸将は、
長尾景虎のもとへ結集、兵の数は増大したのでした。

【景虎、相模国へ迫る!】
長尾景虎は、年が明けると自ら軍の指揮を執り
上野国から武蔵国へ進撃します。
深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、
さらに北条氏康の居城である小田原城を目指し
相模国にまで侵攻し、2月には鎌倉を落としました。
北条氏康は、総大将が武略に優れる長尾景虎であるため、
野戦は不利と判断しました。
相模の小田原城や玉縄城
武蔵の滝山城河越城などへ退却し、篭城策をとります。

【小田原城の戦い】
永禄4年(1561年)3月、
長尾景虎は関東管領・上杉憲政を擁して、
宇都宮広綱佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、
小田氏治、那須資胤、太田資正三田綱秀
成田長泰ら旧上杉家家臣団を
中心とする10万余の軍で、
小田原城をはじめとする諸城を包囲し、
攻撃を開始したのでした。
小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、
籠城する北条氏康を追い込んだのでした。





古河御所の制圧】
また小田原へ向かう途上には、
関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた
古河御所を制圧し、
北条氏に擁された足利義氏を
放逐のうえ足利藤氏を替りに
古河御所内に迎え入れのでした。

【武田信玄の動き】
小田原城を包囲はしたものの、
北条氏康と同盟を結ぶ武田信玄が
川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、
長尾景虎の背後を牽制します。
長尾景虎が関東で北条氏康と戦っている間に、
川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、
信濃善光寺平における勢力圏を拡大させたのでした。

【小田原城、落城できず】
こうした情勢の中、
長期に亘る出兵を維持できない
佐竹義昭らが撤兵を要求し、
無断で陣を引き払っていきました。
このため長尾景虎は、
北条氏の本拠地である
小田原城にまで攻め入りながら、
これを落城させることは出来ず、
1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に兵を引いたのでした。

【松山城の戦い】
この後、越後へ帰還途上の4月、
武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、
北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けますが、
これを落城させました。
松山城には城将として上杉憲勝を残し、
厩橋城には城代に義弟である
長尾謙忠をおいて帰国しました。

【鶴岡八幡宮にて関東管領就任】
長尾景虎は、上杉憲政の要請もあって
鎌倉府の鶴岡八幡宮において
永禄4年(1561年)閏3月16日、
山内上杉家の家督と関東管領職を相続、
名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めました。
もともと上杉家は足利宗家の外戚として
名門の地位にあり、
関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職でした。
長尾家は上杉家の家臣筋であり、
上杉家の本姓が藤原氏、
長尾家は桓武平氏でした。
就任の許可は13代将軍足利義輝から
直々に貰い関東管領職の就任式の際には、
柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ちを務めたとのことです。

【第四次川中島の戦いと北条の反撃】
【第四次合戦】
永禄4年(1561年)
このころ武田勢は北信へ侵攻していました。
永禄4年(1561年)8月、上杉政虎は
1万8000の兵を率いて川中島へ出陣します。
荷駄隊と兵5000を善光寺に残し、
1万3000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、
妻女山に布陣しました。
このとき武田軍と大決戦に及び、
武田信繁山本勘助・両角虎定・
初鹿野源五郎・三枝守直ら
多くの敵将を討ち取り
総大将の武田信玄をも負傷させ、
武田軍に大打撃を与えたのでした。

第四次川中島を機に、
北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、
永禄後年には武田・上杉間をはじめ
東国や畿内の外交情勢は
大きく変動していくことになります。

【生野山の戦い】
同年11月に武田氏は西上野侵攻を開始し、
北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始。
武蔵松山城を奪還すべく攻撃したのでした。
このため上杉政虎は再び関東へ出陣、
武蔵国北部において北条氏康と戦いました。
生野山の戦いには敗れましたが、
松山城を攻撃する北条軍を撤退させたのでした。





【武蔵国の上杉氏や成田、佐野氏の寝返り】
近衛氏書状によりますと、
その後、古河御所付近から一時撤退したのでした。
その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、
武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまいました。
上杉政虎は寝返った佐野昌綱を再び服従させるため
下野唐沢山城を攻撃しましたが、
関東一の山城と謳われる
難攻不落のこの城の攻略には苦戦したそうです。

【唐沢山城の攻防】
これ以降、上杉政虎は唐沢山城の支配権を得るため
佐野昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げていきます。
12月、将軍足利義輝の一字を賜り、
諱を輝虎(てるとら)と改めました。
上杉輝虎は越後へ帰国せず、
上野厩橋城で越年しました。

【北条・武田との戦い】
関東の戦線は当初、
大軍で小田原城を攻囲するなど上杉輝虎が優勢でした。
けれども、武田・北条両軍に相次いで
攻撃されるに及び劣勢を強いられたのでした。
永禄4年、それまで武田信玄の上野国への侵攻に
徹底抗戦していた箕輪城主・長野業正が病死。
この機を逃さず武田信玄は上野国へ攻勢をかけます。
同時に北条氏康が反撃に転じ、
松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばしていきます。

【関東の諸諸将の恭順と寝返り】
これに対し関東の諸将は、
上杉輝虎が関東へ出兵してくれば
上杉方に恭順・降伏し、
上杉輝虎が越後国へ引き上げれば
北条方へ寝返ることを繰り返したのでした。

武田信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす
北条氏康に対し、上杉輝虎は
安房国の里見義堯・義弘父子と
同盟を結ぶことで対抗したのでした。

【関東出兵】
永禄5年(1562年)、
上野館林城主の赤井氏を滅ぼしましたが、
佐野昌綱が籠城する
唐沢山城の落城には至りませんでした。
この後7月には越中国に出陣し、
椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させました。
其の後再び神保長職が挙兵したため、
9月に再び越中国へ取って返し、神保長職を降伏させました。

【松山城の落城】
関東を空けている間に、
武蔵国における上杉方の拠点である松山城が再度、
北条方の攻撃を受けたのでした。
武田信玄からの援軍を加え、
5万を超える北条・武田連合軍に対し、
松山城を守る上杉軍は寡兵であった。
既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は
雪に閉ざされていましたが、
上杉輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行します。
12月には上野国の沼田城に入りました。
兵を募って救援に向かいましたが、
永禄6年(1563年)2月、松山城は落城したのでした。

【上杉輝虎の電光石火のような反撃】
上杉輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、
小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、
小田朝興の兄である
武蔵忍城主・成田長泰を降伏させました。
次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻め
佐野昌綱を降伏させ、
小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。
さらに下総国にまで進出し、
小山秀綱の弟である
結城城城主・結城晴朝を降伏させ、
関東の諸城を攻略したのでした。

なおこの年、武田・北条連合軍により
上野・厩橋城を奪われましたがすぐに奪回し、
北条高広を城代に据えています。
閏12月に上野和田城を攻めた後、
この年も厩橋城で越年しました。
永禄7年(1564年)1月、
北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため
常陸国へ攻め入り、
28日に山王堂の戦いで小田氏治を破り、
その居城である小田城を攻略しました。





【最大の唐沢山城の戦い】
同年2月、
三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、
下野国へ出陣し唐沢山城に攻めます。
この時、実に10回に及ぶ
唐沢山城での攻防戦の中でも
最大の激戦となったのでした。
上杉輝虎は総攻撃をかけましたが、
佐野昌綱は徹底抗戦したのでした。
けれども佐野昌綱は
佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。
上杉輝虎は佐竹義昭や宇都宮広綱に
佐野昌綱の助命を嘆願され、
これを受け入れたのでした。
3月、上野国の和田城を攻めましたが
武田軍が信濃国で動きを見せたため、
越後国へ帰国したのでした。

【第五次川中島の戦い】
【第五次合戦】
永禄7年(1564年)
同年4月、武田信玄と手を結んで
越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。
その間に武田信玄に
信濃国水内郡の野尻城を攻略されましたが奪還し、
8月には上杉輝虎は武田信玄と
川中島で再び対峙しました。
けれども武田信玄が本陣を塩崎城に置いて
上杉輝虎との決戦を避けたため、
60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、
決着は着きませんでした。
これ以降、
上杉輝虎と武田信玄が
川中島で合戦することはありませんでした。

<野尻湖>
野尻湖

【関東の上杉方諸将の離反】
永禄8年(1565年)3月、
関東の中原をおさえる要衝・関宿城
北条氏康の軍勢に攻撃されました。
北条氏康は岩付城や江戸城を拠点に、
利根川水系など関東における水運の要となる
この城の奪取に傾注していました。
上杉輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため
下総国へ侵攻し、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も
関宿城へ援軍を送ります。
このため北条氏康は攻城を中断し、
上杉輝虎と戦わずして撤退しました。

6月、武田信玄が西上野へ攻勢をかけ、
上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略しました。

<倉賀野城跡>
倉賀野城跡

【永禄の変が起きた年】
9月、上杉輝虎は武田信玄の攻勢を食い止めようと、
大軍を指揮して武田軍の上野における拠点である
和田城を攻めたが成功しませんでした。
なおこの年、2月に越前守護・朝倉義景
一向一揆との戦いで苦戦していたため、
上杉輝虎に救援を要請しています。
さらに5月には、13代将軍である足利義輝が
三好三人衆の謀反により殺害されました。

永禄9年(1566年)、
上杉輝虎は常陸国へ出兵して、
再び小田城に入った小田氏治を降伏させました。
また上杉輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が
北条氏に追い詰められていたため、
これを救援すべく下総国にまで侵出し、
3月20日に北条氏に従う
千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せました。
上杉方が有利でしたが、敗北してしまいます。

臼井城攻めに失敗したことにより、
上杉輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが
次々と北条氏方に寝返ります。
9月には上野金山城主・由良成繁が上杉輝虎に背きます。
さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が
武田信玄の攻撃を受けて落城します。
城主である長野業盛は自刃し、
西上野全域に武田の勢力が伸びていきます。
関東において、北条氏康・武田信玄の両者と
同時に戦う状況となり守勢に回ることになりました。
さらに上杉輝虎は関東進出を目指す
常陸の佐竹氏とも対立するようになりました。

<金山城跡>
金山城跡 山頂への入り口

永禄10年(1567年)、
上杉輝虎は再び背いた
佐野昌綱を降伏させるため
唐沢山城を攻撃し、
一度は撃退されましたが攻め寄せ、
3月には佐野昌綱を降伏させました。
けれども厩橋城代を務める
上杉の直臣である北条高広までもが
北条に通じて謀反を起こします。
4月、北条高広を破り、厩橋城を奪還します。
上野における上杉方の拠点を再び手中にして
劣勢の挽回を図ります。
上杉輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総
などで転戦しましたが、
関東における領土は主に東上野でした。

【越中への進出】
永禄11年(1568年)、
15代将軍である足利義昭からも
関東管領に任命されました。
この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなります。
一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束していきます。

永禄11年(1568年)3月、
越中国の一向一揆と椎名康胤が
武田信玄と通じたため、
越中国を制圧するために
一向一揆と戦いましたが決着は付きませんでした。
7月、武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、
支城を陥落させる等、
越後国を脅かしましたが、
上杉方の守備隊がこれを撃退しました。
さらに上杉輝虎から離反した
椎名康胤を討つべく越中国へ入り、
堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃しました。





本庄繁長の乱】
ところが時を同じくして、5月に
武田信玄と通じた上杉家重臣で
揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、
越後国への帰国を余儀なくされたのでした。
反乱を鎮めるため上杉輝虎はまず、
本庄繁長と手を組む
出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、
本庄繁長を孤立させました。
その上で11月に本庄繁長の居城・本庄城に攻撃を加え、
謀反を鎮圧したのでした。

一方、甲斐武田氏と駿河今川氏は関係が悪化。
同年11月25日に今川氏真
武田氏の当敵である上杉氏に和平をもちかけ
信濃への牽制を要請しましたが、
上杉輝虎はこれを退けています。

永禄12年(1569年)には
蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、
本庄繁長から嫡男・本庄顕長を
人質として差し出させることで、
本庄繁長の帰参を許しました。
また本庄繁長と手を結んでいた
大宝寺義増の降伏により、
出羽庄内地方を手にしました。

【越相同盟】
永禄11年(1568年)12月、
北条氏康は甲相駿三国同盟を破って
駿河国へ侵攻していた武田信玄と断交し、
長年敵対してきた上杉輝虎との和睦を探るようになります。
永禄12年(1569年)1月、
北条氏康は上杉輝虎に和を請います。
上杉輝虎は当初、
この和睦に積極的ではありませんでした。
けれども、度重なる関東出兵で
国内の不満が高まっており、
また上杉方の関宿城が
北条氏照の攻撃に晒されており、
これを救うためにも
北条氏との和議を模索し始めたのでした。
3月、武田信玄への牽制の意図もあって、
北条氏との講和を受諾し、
宿敵ともいえる北条氏康と同盟を結びました。

【同盟締結の光と影】
この同盟に基づき、
北条氏照は関宿城の包囲を解除、
上野国の北条方の豪族は上杉輝虎に降りました。
北条高広も帰参が許されました。
上杉輝虎は北条氏に関東管領職を認めさせた上、
上野国を確保したため、
これより本格的に
北陸諸国の平定を目指すことになりました。

しかし一方で、
北条氏の擁する足利義氏を古河公方として
認めることにもなり、
越相同盟により上杉方の関東諸将は
上杉輝虎に対して不信感を抱く結果となりました。
長年に亘り北条氏と敵対してきた里見義弘は
上杉輝虎との同盟を破棄し、
武田信玄と同盟を結ぶなど
北条氏と敵対する姿勢を崩しませんでした。
なお上杉輝虎はこの年の閏5月、
足利義昭の入洛を祝し、
織田信長に鷹を贈っています。

【松倉城の戦い】
永禄12年(1569年)8月、
再び越中へ出兵し、
椎名康胤を討つため大軍を率いて
松倉城を百日間に亘り攻囲しました。
支城の金山城を攻め落としたものの、
武田信玄が上野国へ侵攻したため
松倉城の攻城途中で帰国し、
上野国の沼田城に入城しました。





【元亀元年の活動】
元亀元年(1570年)1月、
下野において再び佐野昌綱が背いたため
唐沢山城を攻撃しましたが、
攻め落とすことは出来ませんでした。
10月、北条氏康から支援要請を受けたため
上野へ出陣し、武田軍と交戦した後、年内に帰国しました。

同年4月、
北条氏康の七男(異説あり)を
養子として迎えた上杉輝虎は、
大いに気に入って景虎という
自身の初名を与えるとともに、
一族衆として厚遇したということでした。

【上杉謙信となる】
12月には法号「不識庵謙信」を称しています。

【越中大乱】
元亀2年(1571年)2月、
2万8千の兵を率いて再び越中国へ出陣しました。
椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ、
松倉城や新庄城・守山城などを攻撃しました。
椎名康胤の激しい抗戦を受けましたが、
これらを落城させました。
けれども椎名康胤は落ち延びて
越中一向一揆と手を組み、
協同して上杉謙信への抵抗を続けたのでした。
その後、幾度となく富山城を奪い合うことになり、
越中支配をかけた上杉謙信と
越中一向一揆の戦いは
熾烈を極めていくことになっていきます。

【北条からの支援要請】
11月には北条氏政から
支援要請があったため関東へ出兵します。
佐竹義重が武田信玄に通じて小田氏治を攻めたため、
上杉謙信は上野総社城に出陣して
小田氏治を援助しました。
なおこの年の2月、
上杉謙信と共に武田信玄と敵対している徳川家康は、
新春を祝して上杉謙信に太刀を贈っています。

【越中一向一揆・北条との戦い】
元亀2年(1571年)10月、北条氏康が死去。
元亀3年(1572年)1月、
北条氏の後を継いだ北条氏政は
上杉との同盟を破棄し、
武田信玄と再び和睦したため、
上杉謙信は再び北条氏と敵対します。
また上洛の途につく武田信玄は、
上杉謙信に背後を突かれないため
調略により越中一向一揆を煽動しました。
これにより上杉謙信は主戦場を
関東から越中国へ移すことになっていきます。

【第一次利根川の対陣】
元亀3年(1572年)1月、
利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する
武田方の付城・石倉城を攻略しました。
相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と
利根川を挟み対峙しました。

【越中一向一揆との激突】
5月、武田信玄に通じて
加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が
日宮城・白鳥城・富山城など上杉方の諸城を攻略、
一向一揆の攻勢は頂点に達しました。
8月、上杉謙信は越中へ出陣し、
一向一揆の大軍と戦い激戦となりました。
上杉謙信は新庄城に本陣を置き
一揆軍の立て籠もる富山城を攻めましたが、
抵抗が激しく一度は兵を引いたのでした。
けれども9月に双方が城を出るに至り、
野戦での決戦となったのでした。
上杉謙信は尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝します。
その結果、苦戦の末に富山城・滝山城を陥落させ、
年末にこれを制圧したのでした。

【織田信長との同盟締結】
11月には大規模に動員した武田信玄と
交戦状態に入った織田信長から、
同盟の申し出を受け、
上杉謙信は小田信長と同盟を締結します。

翌年の元亀4年(1573年)3月、
武田信玄の画策により再起した
越中一向一揆によって再度、富山城を奪われました。
このため越中国から越後国への帰路についていた
上杉謙信はすかさず兵を返し、
未だ抵抗を続ける
椎名康胤の守る富山城を再度攻め落としました。





【越中を自国領にする方針】
4月、宿敵であった武田信玄が病没し、
武田氏の影響力が薄らぎます。
8月、上杉謙信は越中国へ出陣して
増山城・守山城など諸城を攻略しました。
さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、
一向一揆が立て籠もる
加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、
これにより越中の過半を制圧したのでした。
一向一揆は上杉謙信が越中から
軍を引き上げる度に蜂起するため、
業を煮やした上杉謙信は、
ついに越中を自国領にする方針を決めます。
さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばしました。
12月、足利義昭に足利家再興を依頼されます。

【北条氏政との戦い】
天正元年(1573年)8月、
上杉謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、
北条氏政が上野国に侵攻してきました。
上洛を目指す上杉謙信の主戦場は
既に関東でなく越中国でした。

【金山城の戦い】
しかしながら、
後顧の憂いを無くすため天正2年(1574年)、
関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃し、
3月には膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を
立て続けに攻め落とし戦果をあげたのでした。
けれども由良成繁の居城である
要害堅固な金山城を陥落させるに至りませんでした。

<山上城>
山上城 本丸跡

【第二次利根川の対陣】
さらに武蔵における上杉方最後の拠点である
羽生城を救援するため4月、
北条氏政と再び利根川を挟んで相対しました。
しかしながら、
増水していた利根川を渡ることは出来ず、
5月に越後国へ帰国します。
そののち、羽生城は閏11月に自落させました。

【第三次関宿城合戦】
天正2年(1574年)、
北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃すると、
10月に上杉謙信は関東へ出陣、
武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙いました。
上杉謙信は越中平定に集中していましたが、
救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣しました。
上杉軍は騎西城・忍城・鉢形城菖蒲城など
諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制しましたが、
佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、
北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来ませんでした。
このため関宿城は結局降伏することになりました。

閏11月に上杉謙信は
北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めましたが、
既に関東では上杉派の勢力は大きく低下していました。

【謙信、剃髪する】
12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられます。
なおこの年の3月、
織田信長から狩野永徳筆の
「洛中洛外図屏風」を贈られました。

天正3年(1575年)1月11日、
養子の喜平次顕景の名を
景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲りました。

【本願寺との講和・織田信長との戦い】
天正4年(1576年)2月以降、
毛利輝元の庇護の受けていた足利義昭が
反織田信長勢力を糾合し、
同年5月頃からは足利義昭の仲介で
甲斐武田氏・相模後北条氏との
甲相越一和が試みられました。

同年4月、上杉謙信は織田信長との戦いで
苦境に立たされていた
石山本願寺の顕如と和睦交渉を開始し、
5月中旬に講和を承諾し、成立させました。
本願寺との交渉にあたったのは、
上杉側の山崎秀仙だったとのことです。

<石山本願寺 推定地>
石山本願寺 推定地

上杉謙信が本願寺と講和した背景には、
足利義昭が毛利氏の庇護下で鞆に落ち着き、
足利義昭自身が上杉謙信に幕府再興の援助を
求めたからだとされています。

上杉謙信が本願寺や
毛利輝元との同盟を決めたことで、
上杉謙信と織田信長との同盟は破綻し、
上杉氏と織田氏は以後敵対し続けたのでした。





【越中平定】
天正4年(1576年)9月、
名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中国に侵攻して、
一向一揆支配下の富山城・栂尾城・
増山城・守山城・湯山城を次々に
攻め落としていきました。
次いで椎名康胤(越中守護代)の
蓮沼城を陥落させ椎名康胤を討ち取り、
ついに騒乱の越中を平定したのでした。

【能登国の平定へ】
上洛を急ぐ上杉謙信の次の狙いは、
能登国の平定でした。
特に能登国の拠点・七尾城を抑えることは、
軍勢を越後国から京へ進める際、
兵站線を確保する上で非常に重要でした。
当時の七尾城主は戦国大名畠山氏の
幼い当主・畠山春王丸でした。
けれども実権は重臣の
長続連・綱連父子が握っていました。
城内では織田信長に付こうとする長父子と
上杉謙信に頼ろうとする遊佐続光が、
主導権争いをしており、
激しい内部対立がありました。
上杉謙信は平和裏に
七尾城を接収しようとしたとのことですが、
畠山勢は評議の結果、
徹底抗戦を決したのでした。
これにより能登国の覇権を懸けた七尾城の戦いが勃発します。

【七尾城の戦い】
【第一次七尾城の戦い】
天正4年(1576年)11月、
上杉謙信は能登国に進み、
熊木城・穴水城・甲山城(かぶとやまじょう)・
正院川尻城(しょういんかわしりじょう)・
富来城(とぎじょう)など
能登国の諸城を次々に攻略した後、
七尾城を包囲しました。
けれども、七尾城は
石動山系の北端・松尾山山上に築かれた
難攻不落の巨城であり、力攻めは困難でした。
付城として石動山城を築きましたが、
攻めきれずに越年したのでした。

天正5年(1577年)、
関東での北条氏政の進軍もあり、
春日山に一時撤退しました。
その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた
能登の諸城は次々に落とされていきました。
関東諸将から救援要請を受けていた上杉謙信のもとに、
能登国での戦況悪化に加え、
足利義昭や毛利輝元から
早期の上洛を促す密書が届いたのでした。

【第二次七尾城の戦い】
これに至り上杉謙信は反転を決意し、
同年閏7月、再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、
七尾城を再び包囲しました。
このとき城内で疫病が流行し、
傀儡国主である畠山春王丸も病没。
よって厭戦気分が蔓延していたのでした。
けれども、守将の長続連は、
織田信長の援軍に望みをつないで
降伏しようとはしませんでした。
このため、上杉謙信は
力攻めは困難とみて調略を試みます。

【七尾城の落城と能登国の掌握】
そして9月15日、
遊佐続光らが上杉謙信と通じて反乱を起こしました。
織田信長と通じていた長続連らは殺され、
ついに七尾城は落城したのでした。
この2日後の17日には
加賀国との国境に近い能登末森城を攻略。
こうして能登国は全て上杉謙信の支配下に入ったのでした。

手取川の戦い
上杉謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、
長続連の援軍要請を受けていた織田信長は、
七尾城を救援する軍勢の派遣を決定し、
上杉謙信との戦いに踏み切ります。
柴田勝家を総大将とする、
羽柴秀吉滝川一益丹羽長秀前田利家佐々成政
3万余の大軍は、
8月に越前北ノ庄城に結集します。
同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、
加賀国へ入って一向一揆勢と
交戦しつつ進軍していました。
けれども途中で羽柴秀吉が、
総大将の柴田勝家と意見が合わずに
自軍を引き上げてしまうなど、
足並みの乱れが生じていました。
9月18日、柴田勝家率いる織田軍は
手取川を渡河し、水島に陣を張りました。
この時、既に七尾城が陥落していることなど
認知していなかったとのことでした。

織田軍が手取川を越えて
加賀北部へ侵入したことを知ると、
上杉謙信はこれを迎え撃つため
数万の大軍を率いて一気に南下したのでした。
加賀国へ入って河北郡・石川郡をすぐに制圧し、
松任城にまで進出しました。
9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知ります。
さらに上杉謙信率いる上杉軍が
目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、
形勢不利を悟った柴田勝家は撤退を開始します。
それに対して上杉謙信率いる上杉軍本隊の8千は23日夜、
手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したのでした。

<手取川>
手取川

【最期】
天正5年(1577年)12月18日、
上杉謙信は春日山城に帰還し、
12月23日には次なる
遠征に向けての大動員令を発しました。
天正6年(1578年)3月15日に
遠征を開始する予定だったそうです。
けれどもその6日前である3月9日、
遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、
3月13日の未の刻(午後2時)に急死しました。
享年は49歳でした。

<春日山神社への階段>
春日山神社への階段

【謙信亡き後の内乱】
養子とした景勝・景虎のどちらを
後継にするかを決めていなかったため、
上杉謙信の死後、
上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発し、
勝利した景勝が、
謙信の後継者として上杉家の当主となり、
米沢藩の初代藩主となりました。
しかしながら血で血を洗う内乱によって
上杉家の勢力は大きく衰えることとなったのでした。





【上杉謙信の人となり】
【血液型はAB型】
誓文の血判から判定された血液型はAB型でした。
戦国武将には珍しい血液型といえますね。
現在でしたら、スポーツ、芸能界、伝統芸能は
AB型の人が大活躍しています。

全くの個人的な見解になりますが、
明智光秀もどことなくAB型だったのでは?
と思っています。
身内や知り合いに何人かAB型の人がいますが
どことなく共通点が見受けられますし・・・。

【毘沙門天を崇拝】
上杉謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、
本陣の旗印にも「毘」の文字を使っていた程でした。

青年期までは曹洞宗の古刹、
林泉寺で師の天室光育から禅を学び、
上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し
「宗心」という法名を受け、
晩年には真言宗に傾倒し、
高野山金剛峯寺法印で
無量光院住職であった清胤から
伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けています。

【公家との盛んな交流】
戦略家・戦術家としてだけではなく、
和歌に通じ達筆でもありました。
近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、
公家との交流も深い文化人でもありました。
特に源氏物語を始めとする
恋愛物を好んで読んでおり、
上洛した際に開催した歌会でも
見事な雅歌(恋歌)を読み、
参加者全員を驚かせたとのことです。
琵琶を奏でる趣味もありました。

【性格など】
【織田信長とは真逆】
主君である上杉謙信に対して2度も謀反を起こした
家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させています。
また上杉謙信に対し何十回も反乱を起こした
佐野昌綱に対しても、
降伏さえすれば命を奪うことはしませんでした。
更に家臣である本庄繁長が挙兵した際も、
反乱を鎮圧した後に本庄繁長の帰参を許しています。
もし織田信長ならば・・・
一族もろとも「許すまじ!!」ですね。

一方で規律を守るため、
厳しい処置を行ったという伝承も
存在しているとのことです。

【部下への配慮】
天正元年(1573年)8月、
一向一揆による鉄砲の乱射を受けて
上杉謙信は一時撤退を命じます。
けれども吉江景資の子・与次だけは
弾が飛び交う中で奮戦して
撤退しようとはしませんでした。
そこで上杉謙信は与次を陣内に拘禁します。
驚いた周辺は与次を許すように申し入れましたが、
上杉謙信は
「ここで与次を戦死させたら、
越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」
とこれを拒んで、
事情を吉江家に伝えています。
与次は間もなく許されて、
急死した中条景資の婿養子となって
中条景泰と改名しました。

【出家騒動、高野山を目指す】
家臣団の内部抗争・国人層の離反・
信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に
嫌気がさした謙信(長尾景虎)は
毘沙門天堂に篭ることが多くなり、
次第に信仰の世界に入っていくようになります。
弘治2年(1556年)3月23日、
家臣団に出家の意向を伝え、
6月28日には春日山城を出奔し、
高野山を目指したとされています。
けれども8月17日、
大和国の葛城山山麓、葛上郡吐田郷村で
家臣が追いつき必死に懇願した結果、
上杉謙信は出家を思いとどまったとのことです。

家臣団が上杉謙信に
「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」
との誓紙を差し出したことで
騒動は治まっていることから、
人心掌握を目的とした
計画的な行動だったとも推測されているとの事です。

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