城跡

栃木城~築城は皆川広照~小勢力ながら譜代大名として生き残りに成功した人物

栃木城址



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【栃木城】


栃木城(とちぎじょう)は、下野国都賀郡栃木、
現在の栃木県栃木市城内町にあった
日本の城(平城)です。

【古城の存在】
現在の城跡以前に古城がありました。
その古城は、応永元年(1394年)に
長沼紀伊守秀光が栃木郷に
城あるいは居館を築いたのが始まりとされています。

【皆川広照の築城】
時代は下って天正19年(1591年)、
現在の場所に新しく
皆川広照が築城し、
栃木町を繁栄させる基盤となりました。
栃木市指定史跡です。

皆川氏の居城を
山城である皆川城から
平城に移す計画自体は
天正年間の初めから始まっていたとされています。
寺社を皆川からこの付近に移
転させていたことからもそれが見られるからです。
けれども、3万5千石の小大名である
皆川氏にとっては、
新しい城を造ることは容易ではありませんでした。
そうした、天正18年(1590年)に
皆川城が豊臣秀吉の軍勢によって落とされました。

<皆川城>
皆川城跡

居城を失ったことにより、
翌年の天正19年(1591年)、
皆川広照によりこの城が築かれるになったのでした。

【城下町の発展】
城は1年ほどで完成し、
皆川広照は城下町の構築を始めました。
当時の栃木は荒れ地でしたが、
皆川広照の政策によって次第に繁栄し、
江戸時代には、
日光例幣使街道の宿場・栃木宿として
巴波川の舟運で栄えるまでに発展したのでした。

【皆川城の廃城】
慶長14年(1609年)、
将軍徳川家康による皆川広照の改易と、
城取り壊し政策により廃城となります。
築城からわずか19年間という短い歴史でした。

【足利藩領となる】
その後、栃木町は支配者の変遷を繰り返したのち、
足利藩領になり、その陣屋は
宝永元年(1704年)栃木城内に設けられました。
それから寛政元年(1789年)に、
現在の薗部山満福寺南側から
栃木簡易裁判所にかけての場所に移されました。

【現在の城跡】
城跡の一部は1972年(昭和47年)8月28日に
市指定史跡となりました。
翌年からの整備事業で
児童公園の栃木城址公園に生まれ変わりました。

城の名残としては、
L字型の堀と小高い築山が残っています。

<栃木城址公園>
栃木城址公園

【所在地】
〒328-0033 栃木県栃木市城内町1丁目9

【駐車場】
小型車1~2台分のスペース

【交通アクセス】
JR両毛線・東武日光線
「栃木」駅より(北口)徒歩15分程度

【近隣の施設】
岩下の新生姜ミュージアム

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【皆川広照】


皆川 広照(みながわ ひろてる)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
下野皆川城主。
下野栃木城主、
下野皆川藩主、
信濃飯山藩主、
常陸府中藩初代藩主。

【概要】
皆川俊宗の次男です。
水谷正村は伯父にあたります。
処世術に優れ、小勢力ながらも
上杉、北条、織田、徳川などの
ときの権力者を渡り歩き、
江戸時代の譜代大名として生き残りに
成功した人物です。

山上宗二が関東へ下っていた際に
秘伝書である「山上宗二記」
を託された1人でありました。
皆川領内で狂言を催したことから
茶道をはじめ、
文化的にも造詣が深かった人物と推測されています。

【生い立ち】
天文17年(1548年)、
下野皆川城主・皆川俊宗の次男として誕生しました。

幼い頃に皆川城の鬼門を守る、
皆川持明院で修行をしたといわれています。

【上杉VS小田原北条の利権争いの渦中】
当時、北関東は越後国の上杉氏
相模国の小田原北条氏ら二大勢力の
利権争いの渦中にありました。
北関東に跋扈する小勢力は
生き残りを図るために
従属、離反を繰り返していたのです。
皆川家も例外ではなく、
永禄4年(1561年)、
皆川俊宗は皆川家の支城である
太平山城に立ち寄った
上杉謙信を接待するために、
皆川広照を接待役に任命しています。




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【父と共に行動し愛情を受ける】
皆川俊宗は長男である皆川広勝よりも
次男である皆川広照に愛情を注いだとされています。
皆川広照は皆川俊宗と共に
永禄6年(1563年)の川連城攻略、
永禄7年(1564年)の榎本城攻略に参陣しました。
また、皆川俊宗が元亀3年(1572年)正月、
北条氏政、那須資胤と連携し、
主家である宇都宮氏の居城・宇都宮城を占領した際、
宇都宮広綱の幽閉を皆川広照に命じています。

【父親の死】
皆川俊宗が天正元年(1573年)、
北条氏政と戦い関宿で
上杉方として討死しました。
なお、上杉謙信と戦い北条方として
討死した説もあります。

そして兄である皆川広勝が当主となりました。
天正3年(1575年)、
皆川広照は北条方として
佐野氏の家臣である
平野久国の守る粟野城を
家臣の斎藤秀隆に命じて攻め落としました。

【家督継承】
天正4年(1576年)に
兄の皆川広勝が29歳で急死したことから
家督を継ぐことになりました。

天正5年(1577年)、
宇都宮方であった皆川家に
北条氏が大軍を持って攻めたてましたが、
これを防いでいます。
同年、粟野城主であった
平野久国の軍勢が
皆川城の支城である
川連城に夜討ちを仕掛けました。
この奇襲で川連城は炎上し、
城主であった川連仲重は討死。
一時城は陥落しましたが、
皆川家が奪回しています。
この川連城の戦いで命を失った
川連仲重の娘の悲話「七ひろ蛙」が、
今もなお語り継がれています。

【七ひろ蛙】
川連城が敵の夜討にあって
落城した時のことです。
城主の川連仲重は敵を防ぎながら、
かわいい一人娘を
焼け落ちる城から逃がしました。
娘には、城を良く知っている
腰元が付き添いました。
この腰元は、
城を取り巻く深い濠の中に、
たった一カ所だけ浅瀬があることを、
城主から教わっていたのでした。
二人は闇にまぎれ、
ようやく濠のほとりにたどり着きました。
濠は思いの他深そうですが、
夜の闇と同化してよくは見えませんでした。

「帯で測ってみましょう。」
腰元は素早く自分の帯を解くと、両手を広げて、
「一尋、二尋、三尋・・・」
と、測りながら帯を濠にたらしたのでした。

七尋目(ななひろめ)まではかった時、
敵が後ろから迫って来たのでした。
そしてもう、逃れることはできなかったのです。
矢が二人めがけて放たれ、
その直後にふたりは、
濠に飛び込むように沈んでいったのでした。
波立った水の面が、
やがて静まりかえりました。
そして、ふたりが浮かんでくることは
なかったのでした。
こうしてふたりは、
この濠に住む蛙になったということです。
そうして毎晩、水に沈んだ時刻になると、
「一尋、二尋、三尋・・・」
と数えながら鳴き、七尋目までくると、
「ぎゃーっ」
と、不気味な悲鳴を上げるのでした。
それは耳をふさぎたくなる様な
嫌なような声ですが、
それでいてどこか
悲しみのある声でもありました。
川連の人々は、この声を聞くと
良くないことが起きると言い、
蛙の鳴く夏の夜になると、
「そろそろ、七尋がえるが鳴くころだ」

といって戸を閉め、
その声を聞かない様にしていたとのことです・・・。

【北関東連合】
天正6年(1578年)、
上杉謙信が没すると
佐竹氏を中心に北関東の領主が
連合を結び皆川広照もこれに加入したのでした。

【北関東の混乱の終息】
天正7年(1579年)に北条氏が
佐竹氏、宇都宮氏、那須氏、結城氏連合軍と
下総国小川の原で対陣すると、
皆川広照は北条方として参陣しました。
両軍の対陣は2ヶ月にも及びましたが、
決着が付くことはなく、両軍は退陣しました。
この戦い以後、北条氏の北関東攻略は
停滞することとなり
北関東の混乱は終息していったのでした。




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【栃木城の築城】
この頃、皆川広照は
皆川城の東の支城である
栃木城の拡張に着手しました。
川連城下にあった
圓通寺、常願寺などの寺社を
相次いで移築させています。

織田信長・徳川家康との繋がり】
皆川広照は乱世を生き残るために当時、
勢力を拡大しつつある織田信長への接近を模索。
天正8年(1580年)、
徳川家臣の中川忠保と親交を深め
徳川家康への接近を試みました。

天正9年(1581年)10月、
中央政権と関わることの多い
紀州根来寺で修行していた
叔父の玄宥を道案内とし、
家臣の関口石見守を安土城へ遣わしました。
取り次ぎは織田家臣である堀秀政が行い、
念願叶って織田信長に
黒脚毛の馬を含む名馬三頭を送って
誼を通じたのでした。
馬好きでもある織田信長は大変喜び、
「天下布武」の朱印状と
縮羅百端・紅緒五十結・虎革五枚など
馬七頭分を贈答したとのことです。
また堀秀政の副状が添付されました。
当時の畿内では皆川氏の知名度は低く、
織田信長らが広照に出した書状は
長沼や常陸国蜷川などと名前を間違えています。
織田信長は関口石見守の帰還における安全担当として、
家臣の滝川一益に命じ、
東海道の安全を保障したとのことです。

また、関口石見守は帰還の折、
浜松城で徳川家康と面会し、
徳川家康は皆川広照が
織田信長に近づいたことを祝福して
皆川広照との今後の交流も約束したとのことです。
土産として宇治茶も贈ったとのことです。

【滝川一益に仕える】
翌年の天正10年(1582年)、
織田家の甲州征伐後に
関東に赴任した滝川一益に仕えました。
上野厩橋城を拠点とした
滝川一益に皆川広照をはじめ、
宇都宮国綱、佐竹義重などの
関東の反北条方領主は
従属の姿勢を見せましたが、
織田家は北条氏とも
友好関係であったために
複雑な外交を求められたのでした。

天正壬午の乱
織田信長の死後、
小田原北条氏は突如織田に反旗を翻し、
滝川一益と神流川で対陣し、
滝川一益を撃ち破ったのでした。
このとき皆川広照は佐野房綱
従兄弟の水谷勝俊らと共に
滝川一益に同行し、徳川家康と合流。
武田氏遺領の信濃国、甲斐国をめぐって
北条、徳川、上杉らが争った
天正壬午の乱では、
徳川方として同陣し、
若神子の戦いで北条氏直と戦ったのでした。

こののち、徳川と小田原北条が和議を結びます。
これにより小田原北条氏の敵は
北関東のみとなりました。
真田領を除いて上野国をほぼ手中に治めた
小田原北条氏による北関東侵攻は
以前に比べて激化することとなっていくのです。




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【沼尻の戦い】
天正12年(1584年)、
北条氏直が大軍を率いて
皆川広照、宇都宮国綱、佐野宗綱
佐竹義重、結城晴朝ら反北条連合と
下野国沼尻で対陣となりました。
(現在の栃木県栃木市藤岡町)
双方の対陣は実に110日にも及び、
小競り合いはありましたが、
決戦には至らなかったとのことです。
けれども、反北条連合の陣営では
鉄砲が大量に用意されるなど、
一触即発の状態であったそうです。

小牧・長久手の戦いとの関係】
なお、この戦いは同時期に行われた
徳川家康と羽柴秀吉による
小牧・長久手の戦いと関連しているとされ、
小田原北条は徳川と、
反北条方領主連合は羽柴と関係を結び、
戦況次第では互いに
援軍に向かおうとしていたという説があります。
この時期、皆川広照は反北条方にも関わらず、
徳川家康は小牧長久手の合戦に関する事、
惣無事に関する事等、
何通か書状(皆川文書)を送っており、
皆川広照から徳川家康へ馬も献上されているため
友好関係は絶えていなかったと見ることができます。
この戦いは約三ヶ月間にも及びました。

【和解で終戦】
皆川広照は宇都宮方の退却口である
岩舟山を北条方に落とされたために、
宇都宮方は劣勢にたたされ同時に連合している
佐竹方も北条方の調略によって混乱していました。
けれども、小牧・長久手の戦いが
羽柴秀吉勝利の形で終結したため、
徳川と関係を持つ北条方も劣勢となり、
双方は和解となって終戦となったのでした。

【小田原北条に包囲される】
この後、頼みの綱である羽柴秀吉が
関東に軍をさしむけず、
九州征伐に乗り出すと、
北条方の北関東攻略は激化していきました。
その為、皆川城は小山城
北条氏照
唐沢山城北条氏忠
壬生城、鹿沼城の義兄である壬生義雄など、
北条方の勢力に包囲される形となってしまいました。

【小田原北条氏との戦闘】
天正13年(1585年)、
皆川広照を討伐すべく、
北条氏照が大軍を率いて藤岡城に入城します。
皆川勢は佐竹義重の援軍と共に
支城の太平山城に陣を敷いて迎撃の構えを見せます。
皆川方は峻険な太平連山で
ゲリラ戦に持ち込もうとしましたが
北条方は太平連山に突入し、
太平山城の皆川広照の陣を大軍で包囲し、
太平山を炎上させのでした。
これには以下の逸話があります。

【霊峰太平山の怒りを買った北条氏】
北条方の放った火矢が
太平山神社の本殿に燃え移ると、
神鏡がとてつもない光を放ち、
隣の山へ飛んで行ったという。
この状況に双方は驚きあきれたのでした。
それ以来、北条が
霊峰太平山の神々の怒りを買ったために
やがては滅んだということです。

この火災で太平山神社をはじめ、
多数の神社仏閣が焼け落ちました。
皆川広照は軍を後退させ、
太平山の北の山である
草倉山に陣を移すと抵抗の構えを見せ、
実に100日に及ぶ抵抗をしたのでした。
太平山を占領した北条勢は
草倉山の皆川方面へ降りていき、
ゲリラ戦が繰り広げられました。
草倉山は太平連山の中で、
最も皆川城に近い山であり、
皆川勢にとっては背水の陣であったのでした。
またもや以下の逸話があります。

【戦場にかかる霧】
この時、
皆川城の麓にある
観音堂の霊験である「霧」が
戦場に立ち込め、
それは皆川勢の助けになったのでした。

【劣勢に追い込まれていく皆川勢】
初めは天然の山岳要害を上手く使い、
優勢に戦った皆川勢でしたが、
数で勝る北条の大軍を前に
皆川家臣が討ち死にを遂げていき、
皆川広照自身も自害を覚悟するほど
劣勢に追い込まれていくのでした。
合戦の情勢を見かねた徳川家康、
佐竹義宣の使者が皆川広照の元に訪れ、
北条に降伏することを薦めました。

【小田原北条への降伏】
この降伏は徳川による
関東惣無事令の一環であるとの説があります。
この草倉山の戦いで
皆川家臣の大半が討ち死、
それらの死者を葬った千人塚が
現在も激戦の地、草倉山に残っているそうです。
北条氏は降った小大名たちに
二度と寝返らせないために
北条の女性を嫁がせたのでした。
皆川広照には既に妻である鶴子がいましたが、
北条氏政の養女(中御門信綱の娘)と
結婚することになったのでした。




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【粟野城の落城】
こうした北条氏との戦いの最中、
皆川城の支城である粟野城が
佐野方の平野氏に攻められ、落城しました。

粟野城(遠景)

皆川氏が北条に従ったことで、
反北条方の宇都宮氏、佐竹氏にとって脅威となりました。

【宇都宮氏との戦闘】
天正13年(1585年)、
北条氏直が大軍で宇都宮を攻めました。
このとき皆川氏は北条方先陣をつとめ、
城下を焼き払っています。
その年、皆川広照は
西方綱吉の守る西方城を落とし、
西方周辺にも勢力を延ばしていました。

<西方城への道>
西方城への道

<西方城(遠景)>
西方城(遠景)

天正16年(1588年)、
宇都宮国綱が佐竹義重の援軍を受け、
1万5千の軍勢で皆川領に来襲しました。
皆川軍は清瀬川に着陣。
連合軍は磯城、西方城に着陣したのでした。
この合戦で皆川軍は後退し、
諏訪山城に入城しました。

<諏訪山城(遠景)>
諏訪山城(遠景)

<無量寿院>
無量寿院
※諏訪山城の麓にあります。

<諏訪山城の登城口>
諏訪山城への登城口

【皆川勢の死闘】
連合軍が諏訪山城を3月16日に落とし、
続いて真名子城、
神楽岡城が落城しました。
皆川家臣の日向野民部が、
討死覚悟の皆川広照に手勢を付けて
密かに布袋が岡城に逃げさせました。
皆川広照は宇都宮軍の芳賀伊賀守、
逆面周防守に追い回され、
山伝いに落ち延び入城したのでした。
3月17日、
連合軍は布袋が岡城に攻め寄せ、
皆川広照は自ら指揮を執り、
大量の弓鉄砲で応戦します。
運尽きて叶わぬときは討死は武士の本意、
と討死覚悟で籠城したのでした。
連合軍は城の大手・搦手を二重囲みましたが、
皆川軍の奮戦により、
一騎も城門に入ることは
出来なかったといわれています。
そのとき、急に空が曇り、激しい雷雨となりました。
連合軍が怯んだすきに、
皆川軍は城門を開けて総攻撃を繰り出し、
乱戦となったのでした。
敵味方の死者の血が雨と共に流れ、
川が血に染まり、
その川が赤血川(赤津川)と
呼ばれるようになったと伝えられています。

【激闘と連合軍の引き上げ】
連合軍は火矢を放ち、
城中から火災が発生。
落城寸前となり、
皆川広照は城を抜け出しました。
連合軍が追撃するものの、
山中に引き込まれていることに気づいて停止。
さらに壬生義雄が
宇都宮に進軍中という知らせが入り、
連合軍は軍を引き上げていきました。
布袋が岡城は、
それ以降廃城になったとされています。




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【粟野城での激闘】
天正16年(1588年)12月、
前年に佐野方の平野氏に奪われていた
粟野城を奪回すべく皆川広照は
家臣の斎藤秀隆に命じて粟野に出陣し、
大激戦の末、斎藤秀隆が討死を遂げながらも
16日に攻略。
落合徳雲入道を城代に置きました。
この戦いで城が焼け野原となり、
死体が山をつくり、
死臭が原因で里人の往来も消えたということです。

【傑岑寺での弔い行事】
またこの年、皆川広照は
父親である俊宗が皆川城の
西側の谷津山に創建した
傑岑寺を森山に移転しました。
四世の宗寅が今川氏の出身で
徳川家康と旧知の仲だったために
徳川家康が移転建立費を出したのでした。
それ以来、北条氏との草倉山での
戦闘で討死した兵を弔い続けています。

小田原征伐
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原征伐の時、
皆川広照は北条氏照に属して
小田原城竹浦口を守備していました。
けれども同年4月8日の夜に密かに城を出て、
以前より繋がりを持っていた
徳川家康に投降して所領を安堵されています。
皆川広照不在の皆川城は上杉景勝らに攻められ、
家臣の抵抗むなしく落城したと伝えられています。
けれどもしかし、実際にはその後の発掘調査や
史実との兼ね合いから落城ではなく
戦はせずに開城したと見られています。
このとき正室や子息は
皆川家臣・関口但馬の側近・晃石太郎と共に
元皆川家臣で西山田の
白石正義の屋敷に匿われていました。
晃石太郎はその後、
敵に見つかり大中寺で果てています。
また皆川城内にあった金の鹿が
太平山に埋められたという伝説も残っています。

【栃木城と城下町の整備】
本領を安堵された皆川広照は
居城を皆川城から栃木城に移し、
西側を流れる巴波川を外堀に城下町を整備しました。
これまで皆川氏は栃木町に
神明宮、満福寺、近龍寺など
数々の寺社を移転させており、
父親の皆川俊宗の時代から
栃木町整備は始まっていたとされています。
また皆川広照は積極的に近江商人を誘致し、
野州麻を基盤に商業の発展に尽力しました。
これが現在に残る蔵の街の原型となります。

朝鮮出兵が始まると、
徳川家康に従い名護屋城に着陣しました。

関ヶ原以後】
慶長5年(1600年)の会津征伐の際には
徳川秀忠に同行して宇都宮に行き、
また下野大田原城を
水谷勝俊、大田原晴清らと共に守っています。
その後、鍋掛に陣を敷き、
上杉氏の南下を防ぎました。
この時、子である皆川隆庸は
徳川秀忠に属して信濃国上田城を攻めています。
慶長6年(1601年)正月、
従四位下に叙位されています。




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松平忠輝の養育の失敗と改易】
慶長8年(1603年)、
幼少期より養育していた
徳川家康の六男である
松平忠輝の御附家老となりました。
松平忠輝が信濃川中島藩主となると、
信濃国内で4万石を加増されて
飯山城を賜い、
旧知と合わせて7万5000石を領しました。
けれども、松平忠輝は幼い時から粗暴であり、
皆川広照らは諫言をたびたび行いましたが、
松平忠輝の態度は改まることはありませんでした。
そのため慶長14年(1609年)9月、
皆川広照は伝役の山田重辰、松平清直と共に
松平忠輝の行状を駿府の徳川家康に訴えます。
それを聞いた松平忠輝も駿府に駆けつけ、
逆に皆川広照らの老臣が
政務を牛耳っていると訴えたのでした。
徳川家康は松平忠輝の言葉を聞き入れ、
皆川広照らが家老として
不適格ということになり、
10月27日に改易されてしまったのでした。
改易後は京都の智積院にて謹慎。
その後、剃髪して老圃斎と号しました。

【晩年と大阪の陣】
大坂夏の陣では
嫡男の皆川隆庸と共に徳川方に参戦。
元和9年(1623年)5月に赦免されて
徳川家光に附けられた後、
12月28日に常陸国新治郡府中で
1万石を与えられました。
寛永2年(1625年)4月、
嫡男の皆川隆庸に家督を譲って隠居しました。
仰せによって御咄衆(御伽衆)として
登城することもあったそうですが、
2年後の寛永4年(1627年)10月22日、
80歳で戦国時代を駆け抜けた
波乱万丈の生涯を閉じたのでした。

皆川城~皆川氏の本拠地として鎌倉時代頃から戦国時代末期まで存在した城

宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町

下野・藤沢城~下野の島津氏~佐野氏家臣、鍋山衆としての小曾戸氏

関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

西方城~宇都宮一族の西方氏~皆川氏との激戦が繰り広げられた城

鹿沼城~宇都宮家臣の壬生氏が支配を任された場所

根古谷台遺跡~縄文時代前期の集落遺跡~うつのみや遺跡の広場として

SL大樹に乗車しました!2020年7月4日より運行再開!!動画あり。

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