城跡

大蔵ヶ崎城(喜連川城)~平安時代の末期に塩谷氏が築城し400年統治後は足利氏の後裔である喜連川氏の居城。

大蔵ヶ崎城(喜連川城)



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【大蔵ヶ崎城(喜連川城)】

大蔵ヶ崎城(おおくらがさきじょう)
または喜連川城(きつれがわじょう)は、
現在の栃木県さくら市喜連川にあった
日本の城です。
蔵ヶ崎城(倉ヶ崎城)とも称します。

【別名】
蔵ヶ崎城、倉ヶ崎城

【城郭構造】
山城

【築城主】
塩谷惟広

【築城年】
文治2年(1186年)

【主な城主】
塩谷氏足利氏

【廃城年】
明治3年(1870年)

【遺構】
郭、土塁、空堀

【指定文化財】
市指定史跡

【概要】
喜連川丘陵の小高い山(お丸山)の
頂上に建つ連郭式の山城でした。
現在は堀や郭跡が残っています。
大蔵ケ崎城 喜連川

【歴史】
【築城は塩谷氏】
平安時代末期、
塩谷五郎惟広により
築城されました。

塩谷惟広は源平合戦(治承・寿永の乱)
において源氏側で参戦し、
元暦元年(1184年)2月の
一ノ谷の戦いや文治元年(1185年)2月の
屋島の戦いで戦功があります。
塩谷氏の所領であった塩谷荘のうち
現在の喜連川付近(当時は来連川)に
相当する三千町の領地を与えられました。
大蔵ヶ崎城(喜連川城)

【喜連川塩谷氏】
文治2年(1186年)に塩谷惟広は
大蔵ヶ崎城を築き、
また土地の名を喜連川に改めました。
これをもって塩谷惟広は
喜連川塩谷氏の始祖とされました。

【塩谷氏は17代400年】
喜連川塩谷氏の血筋は
4代で絶えてしまいましたが、
同族の藤姓塩谷氏から
養子を迎え入れ、
塩谷氏の支配は
合計17代400年に及びました。
大蔵ヶ崎城(喜連川城)

【塩谷氏の改易】
戦国時代に入ると、
塩谷氏は同族の宇都宮氏から
離反と帰参を繰り返し、
また一族の内紛などもあり
衰退しました。
そして17代である塩谷惟久が、
豊臣秀吉による小田原征伐の際に
遅参したとして改易されてしまいます。
なお豊臣秀吉の怒りを恐れた
塩谷惟久が出奔したとする伝承もあり、
城址に立つ案内板には
その旨が記載されています。




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【足利氏の後裔】
小田原征伐後には
関東公方系足利氏の後裔が
入封することとなりました。
関東足利氏は戦国期には
古河公方家と小弓公方家に分裂。
既に衰退していましたが、
名族である足利氏の断絶を惜しんだ
豊臣秀吉が、男子の絶えた
古河公方家の足利氏姫
小弓公方足利頼純の子である
足利国朝に娶わせます。
なお元城主である塩谷惟久の
正室でのち豊臣秀吉の側室となる
嶋子(島子)が足利国朝の姉であり、
嶋子がこれを取り成したとされています。
そして喜連川3500石が与えられました。

【喜連川家と喜連川藩】
その後、文禄の役従軍中に急死した
足利国朝から家督を継いだ
頼氏が氏姫と再婚して喜連川姓を称し、
関ヶ原の戦い後に徳川家康から
1000石を加増され
喜連川藩を立藩しました。
合計4500石程度に
過ぎなかった喜連川家が
大名とされること自体が破格でしたが、
足利氏後裔という家柄が
徳川家にも重んじられ、
10万石格の格式が与えられたほか、
参勤交代義務の免除など
様々な特権がありました。
この頼氏の代に城下が整備され、
山城である喜連川城に代わって、
現在のさくら市喜連川庁舎付近に
喜連川陣屋が建てられ、
以後はこちらを藩庁としました。

【明治維新】
喜連川家の支配は280年間、
幕末まで続きました。
明治時代の明治3年頃に、
廃藩置県に先立って
喜連川藩は封土を新政府に奉還、
喜連川城も廃城となりました。
お丸山公園(喜連川城)

【所在地】
〒329-1412 栃木県さくら市喜連川4604

【お丸山公園】
廃城後の城跡は
喜連川町(当時)によって
お丸山公園として整備され、
喜連川地区のシンボルとして
観光拠点となっていました。
城の遺構としては
一の堀、二の堀、三の堀、四の堀の空堀や
土塁などが残されていました。
お丸山公園
公園の敷地や斜面には300本の桜、
フィールドアスレチック、文学の道があり、
春は花見の名所となっていました。
山頂には高さ49.5mの
喜連川スカイタワーがあり、
栃木県北部の山々などの景観を
見渡すことができました。
タワーは公園のシンボルでもあり、
気象条件によっては
富士山を見ることもできたほどでした。
城址周辺の一帯は
喜連川温泉となっており、
お丸山の山頂にも温泉施設
「老人福祉センター 喜連川城」がありました。
市街地から山頂へのアクセス手段としては、
日本初を公称する、
延長168.5メートルの
大型斜行エレベーター「シャトルエレベーター」
が設置されていました。

2011年3月11日に起きた
東日本大震災による被災で
敷地内に700mにわたる
大規模な亀裂が生じたほか、
公園内の各種施設が損壊したため、
周辺への避難勧告が出され、
お丸山公園への立ち入りも
禁止されました。
復旧の完了が2年後の2013年3月の
見込みであるとされる中、
震災から半年後の2011年9月22日には
平成23年台風第15号による風雨で
土塁が幅70m、長さ約140mの
土砂崩れが発生し、
民家を巻き込む被害が生じました。
こうした中で公園自体の存廃も
議論の争点となったのでした。

【所在地】
〒329-1412 栃木県さくら市喜連川4604

【お丸山公園・所在地】
〒329-1412 栃木県さくら市喜連川5481-1

【交通アクセス】
(電車)
JR宇都宮線「氏家」駅から
氏家駅・馬頭高校・馬頭車庫 行
関東自動車バスに乗り「喜連川本町」バス停下車、
徒歩約4分




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(車)
東北自動車道「矢板」ICから約15分

【駐車場】
さくら市喜連川庁舎駐車場(無料)

宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町

喜連川足利氏館~足利氏後裔の喜連川頼氏が築いた陣屋で喜連川藩の政庁として幕末まで利用されました。

下野・川崎城~藤姓塩谷氏の塩谷朝業が鎌倉時代初期に本拠地として築城、塩谷(しおのや)氏とは?

玉生城~塩谷朝業の曾孫の玉生忠景(忠昌)が鎌倉時代に築城、慶長2年まで玉生氏の城でした。

大宮城(塩谷町)~千葉常胤の子孫である大宮胤景が築城、その後は城主が変遷したと考えられています。

古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。

足利氏館跡~日本百名城~鑁阿寺について

寒竹囲いの家~喜連川ならではの城下町の佇まいを伝えている寒竹の生垣です。

早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。

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