鎌倉殿の13人

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

宗悟寺 比企一族顕彰碑



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比企尼

比企尼(ひきのあま、生没年不詳)は、
平安時代末期の女性。
武蔵国比企郡の代官で、
藤原秀郷の流れを汲む一族である
比企掃部允の妻でした。
源頼朝の乳母の一人です。
実名・父母は不明です。
娘に丹後内侍、河越尼、比企尼の三女、
猶子は比企能員です。

【伊豆の源頼朝を支える】
平治元年(1159年)の平治の乱で
源義朝が敗死し、
14歳であった嫡男の源頼朝は
伊豆国に流罪となりました。
源頼朝の乳母であった比企尼は
武蔵国比企郡の代官となった
夫の掃部允と共に京から領地へ下り、
治承4年(1180年)の秋まで
20年間、不遇の源頼朝に仕送りを続けたのでした。
(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。

【比企尼の娘たち】
比企尼には娘が3人おりました。

<長女:丹後内侍>
源範頼の系譜である「吉見系図」によりますと、
嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて
薩摩藩の大名の島津氏の祖となる
島津忠久を産んだとされ(諸説あります)、
その後に関東へ下って安達盛長に再嫁し、
安達盛長は源頼朝の側近となりました。
なお、鹿児島には
島津忠久の産みの母として
丹後内侍を祀った神社があるとの事です。

<次女:河越尼>
次女(河越尼)は武蔵国の有力豪族であった
河越重頼の室となりました。

<三女>
三女は伊豆国の有力豪族である
伊東祐清に嫁ぎ、
死別したのち源氏門葉である
平賀義信の室となっています。

<3人の娘婿>
比企尼は比企郡から源頼朝に米を送り続け、
3人の娘婿(安達盛長・河越重頼・伊東祐清)に
源頼朝への奉仕を命じていたということです。
なお、長女と次女の娘はそれぞれ
源頼朝の異母弟である源範頼と源義経に嫁いでいます。

【猶子:比企能員】
実子には、男子が一人いましたが、
鎌倉幕府ができて
ほどなくなくなってしまいました。
そのため比企氏の家督は
甥の比企能員を比企尼の猶子として
迎えることで跡を継がせています。

後に比企能員が源頼朝の嫡男である
源頼家の乳母父となって権勢を握ったのは、
この比企尼の存在におけるところが
大きかったのでした。
なお、比企尼の次女と三女も
源頼家の乳母となっています。
夫の掃部允は源頼朝の
旗揚げ前に死去しています。

【源頼朝と北条政子を招いての宴会】
文治2年(1186年)6月16日と
文治3年(11877年)9月9日、
源頼朝と北条政子の夫妻が比企尼の屋敷を訪れて、
宿老と共に納涼や観菊の
酒宴を催したりもしています。

【比企尼の死没年など】
その後の尼の動向や死没年は不明ですが、
「吉見系図」では孫娘の婿である
源範頼が謀反の咎で誅殺された際、
源頼朝に曾孫の助命嘆願を行い、
源範頼の男子2人が出家する事で
連座を逃れたとされています。
なお、異説として、
源範頼は吉見や石戸(埼玉県北本市)に
逃れたという説もあります。




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また、比企一族滅亡後も
比企尼と娘の若狭局が、
源頼朝と源頼家の菩提をとむらうために
現在の埼玉県東松山市大谷地区にある
比企尼山のそばに庵を結んだと言われています。
その近くにあった寿昌寺の名の由来は、
源頼家の法号からとったともいわれ、
江戸時代に宗悟寺と名を変えました。

【乳母たちの地位と権力闘争】
ウキペディアによりますと、
冒頭には乳母(うば、めのと)とは、
母親に代わって子育てをする女性のこと、
とありますが、
平安時代~鎌倉時代は、
それだけではなく、
「めのと」と呼ぶ場合には
「うば」よりも範囲は広く、
「養育係」の意味もあったそうです。
また、女性だけではなく
夫婦でそれに当たるケースが多かったそうです。
例えば「奥州後三年記」の
「家衡が乳母千任といふもの」などでは
千任は男性でした。
また、養育係の男性を
「傅(めのと)」とも呼んでいました。

乳母に世話を受ける養い子にとって、
乳母の子供は「乳母子(めのとご)」
「乳兄弟(ちきょうだい)」と呼ばれ、
格別な絆で結ばれる事があったそうです。
軍記物語においても、
主人の傍に乳兄弟が親しく仕え、
腹心として重宝される
情景が少なからず描かれています。

従って、養育してきた若君が
成長した際には、
乳母を出した一族は側近として
大きな権力を持つことが出来たのです。
乳母=権力の把握といっても
過言ではありませんでした。

源頼家の乳母は比企一族で、
弟の源実朝の乳母は北条氏の一族。
これではいつまでたっても、
北条氏は二番手で、今後
源寄頼家の系統が継いでいくことになったら
北条氏の一族は権力を持つどころか
永遠に「家来」のままで、
それこそ家督争いで「危険分子」として
粛清されてしまう可能性もある・・。
そう考えた北条氏一族は、
比企氏廃除に乗り出した・・と
考えられています。
いうなれば乳母を出したそれぞれの一族の
権力を巡るナンバーワン争いであるわけです。

鎌倉幕府創立の功労者】
不遇時代の源頼朝を20年間も支え続けた比企尼。
夫の比企掃部允は早々に亡くなり、
その後は、比企の所領の運営をしながら、
年貢を納め、源頼朝に仕送りをしていました。
挙兵する際にも、
いろいろと援助したことも伝わっています。
一方、北条氏は、違います。
娘の北条政子との結婚を事後承諾するまでは、
距離を置いていました。
ですから源頼朝にとっても、
比企尼は大恩人で、比企尼の存在がなれけば
鎌倉幕府の樹立は成し得なかったかもしれません。
ですから
生まれた嫡男の乳母にするには
それこそ相応しい一族であったことでしょう。
源頼朝は支えられて幕府樹立まで
成し得てきたので、比企一族に
次世代を託したことでしょう。

【その後の源頼朝の死も?】
源頼朝にとっては比企一族があくまでも一番手、
ということになるので、
それに従わなかった北条氏こそ、源頼朝にとっては
「謀反を起こしかねない」と
警戒すべき一族かもしれません。
源頼朝の晩年においては、
源頼朝自身そうした警戒を
抱いていたかもしれません。
そして、源頼朝の死は
不可解なことがあると言われています。
もしかしたら・・・?

【宗悟寺】
社伝によりますと、
鎌倉幕府二代将軍であった源頼家の
妻であった若狭局が追福のため、
比企尼山のそばに建立した寿昌寺が
始まりだとされています。

宗悟寺 山門

また現在、宗悟寺のあるあたりは
比企能員の館の敷地であったと伝わります。
境内には井戸があります。

宗悟寺 井戸

時は流れて、
天正20年(1592年)、
武蔵国比企郡を与えられた森川金右衛門氏俊が
比企尼山の寿昌寺を現在の位置に移して
自身の法名宗悟居士からとって
宗悟寺(そうごじ)と改め、
再興して
代々の菩提寺としたとされています。
なお、寺には若狭局が持参したと伝わる
源頼家の位牌が残されています。

宗悟寺 本堂

<比企一族顕彰碑>
宗悟寺の山門をくぐって、緩い坂道を歩くと
程なく左手に比企一族顕彰碑が見えてきます。

比企一族顕彰碑(宗悟寺)

「平安時代末期から
鎌倉時代初期に亘る約百年の間
郡司として比企地方一帯を支配し、
一族を挙げて源頼朝公を援け
鎌倉武家政権創立の原動力として
大きな役割を果たした比企一族の足跡は
その広さと歴史的意義において
正に私たちの郷土の歴史の原点です。」
(以下省略)
とあります。




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<所在地>
〒355-0008 埼玉県東松山市大谷400
<駐車場>
参拝者用駐車場有

【比企能員の館跡1】
比企能員屋敷跡1

【比企能員の館跡・足利基氏の館跡】
比企能員館跡・足利基氏館跡

【比企尼山】
比企尼山

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
草笛 光子(くさぶえ みつこ)さんが
演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

文覚~元は北面の武士だが恋する女性を殺めて19歳で出家、源頼朝に挙兵を促した型破りな怪僧

冷川(ひえかわ)不動尊~高源寺の不動院と伝わる場所~優しい雰囲気の滝があります。

高源寺~源頼朝が石橋山合戦出陣旗揚げ及び挙兵の密議をしたという場所

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

比企朝宗~比企一族で源頼朝と朝廷に仕えており才色兼備である姫の前の父親です。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

比企掃部允~比企尼の夫、ナゾ多き人物で居住していた三門館跡にもナゾがあります。

丹後局(丹後内侍)~源頼朝の妻妾で比企一族~供養塔が横浜にあります。

1分でわかる姫の前~北条義時の正室、源頼朝お気に入りの女官で絶世の美女だが、比企一族の乱で離縁。

若狭局~比企一族で源頼家の妻で一幡と竹御所の母~大蛇となり比企ヶ谷を護る存在となった。

一幡~一幡之君袖塚~源頼家の長男として誕生するもわずか6歳で人生の幕を閉じる。

竹御所・源媄子(源鞠子)~源頼朝の孫で幕府の権威の象徴だったが赤子と共に散る

郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

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安楽寺(吉見観音)、比企三山の一つで源範頼が身を隠したと伝わる名刹です。

いと~まひろ(紫式部)と弟の惟規の乳母、平安朝の乳母について

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