鎌倉殿の13人

岩殿観音正法寺 ・開基1300年の古刹、源頼朝の庇護の下比企能員が再興し北条政子の守り本尊となる。

岩殿観音正法寺 観音堂



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【岩殿観音正法寺

岩殿観音の呼び名で親しまれる正法寺の
正式な名称は巌殿山正法寺
(いわどのさん しょうぼうじ)です。
埼玉県東松山市にある真言宗智山派の寺院です。
坂東三十三箇所の十番札所です。

岩殿観音 境内見取図

【岩殿観音の歴史】
【始まりは奈良時代】
寺伝では養老2年(718年)に
沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音像を安置し、
傍らに正法庵と号した
草庵を結んだのが始まりとのことです。
岩殿山はもとより神仙の地であり、
諸天薩埵の住まう霊峰であったそうです。
ある時、諸国を巡り修行する高僧であった
沙門逸海がこの岩殿山に立ち寄りました。
山中にて修行していた折に
夢の中に観音菩薩が現れ、
霊告を受けたということです。
この霊告によって諸国行脚の修行を止め、
観音像を安置し傍らの庵で日夜修行に励んだとのことです。

岩殿観音 観音堂の地蔵 石仏

【平安時代・坂上田村麻呂の伝説】
岩殿観音にまつわる伝説に
「田村麻呂の悪竜退治」があります。
平安の始めの頃、
ここ岩殿の山に悪竜が住み着き、
村人はかなり困り果てていました。
そこに蝦夷征伐へと向かう
将軍の坂上田村麻呂が通りかかります。
そして岩殿観音の
千手観音菩薩の霊力を授かることで、
悪竜を見事に討ち果たしたのでした。
この霊験もあり、蝦夷征伐を終え、
都へと戻った坂上田村麻呂が
岩殿観音の利益を伝えたということです。
これに深く感銘を受けた時の天皇である
桓武天皇は、延暦15年(796年)に
勅命によって岩殿観音に
伽藍を建立せしめたということです。

弁天沼(鳴かずの池)

鎌倉時代・源頼朝と比企氏】
倉幕府を開いた源頼朝
大変に観音信仰が厚く、
子供の源実朝とともに
坂東三十三観音霊場を
制定したと推測されています。
岩殿観音が坂東札所の一所となったのは
岩殿観音のある現東松山市と
比企郡一帯を治めた比企氏が関係しています。

岩殿観音 比企氏の紋

源頼朝の乳母であった比企尼は、
平治の乱の後、流罪となった
源頼朝が伊豆に流された際にも
惜しむことなく支援をしていました。
その恩もあり、比企氏を御家人として
重用した源頼朝は、
比企氏が深く帰依した
岩殿観音を庇護することになります。
岩殿観音は源頼朝の庇護のもと、
源頼朝の妻である
北条政子の守り本尊として、
比企能員が復興し、
坂東札所の第十番となっています。
源頼朝の没後の正治2年、
亡き源頼朝の志を継ぎ、
妻である北条政子が堂宇を再建しています。




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【室町時代・庶民の巡礼で賑わう】
坂東札所成立当初は、
鎌倉幕府に関係する上級武士や
僧侶などの限られた者だけが
参拝していましたが、
室町時代に入ると
一般の庶民も巡礼に出るようになりました。
室町末期には西国、秩父と合わせて
百観音札所として巡礼が盛んになり、
岩殿観音門前も
一段と賑わいを増していきます。
戦国時代の後期には
岩殿観音の本坊の他、
六十六の僧坊を有し、
関東や北国にも並びなき大伽藍を構え、
七堂あった伽藍はことごとく
瓦葺きであったと記録に残っているそうです。

【戦火に呑まれた岩殿観音】
このように隆盛を誇った岩殿観音でしたが、
やがて戦国の炎に呑まれることになるのでした。
岩殿観音から10kmほどのところにある
松山城は、武州のほぼ中央に位置し、
北武蔵支配の重要拠点でした。
戦国後期の永禄年間の始めには、
越後上杉氏と小田原北条氏の間で
激しく奪い合いが行われるようになりました。
永禄4年(1561年)、
北条氏康が抑えていた松山城は
太田資正に攻め取られ、
上杉憲勝を城主としました。
これに対して、北条氏康は
岩殿観音隣村の高坂村に陣を敷き、
松山城を激しく攻めたのでした。
けれども松山城は、天然の要害ともいわれる
堅固な守りに加え、籠城の備えも厚かったため、
落城することはありませんでした。
これに業を煮やした北条氏康は、
岩殿観音を始めとする付近の寺社を
ことごとく焼き払ったのでした。
安楽寺(吉見観音)もそうでした。

【岩殿観音の再興】
この松山城合戦で、七堂あった伽藍は灰となりました。
けれどもこの7年後の天正2年(1574年)、
かろうじて戦火を免れた本尊千手観音とともに、
僧の栄俊によって再興されることになりました。
栄俊は 醍醐寺無量寿院の法流である
松橋流の印信と血脈を授かり護摩堂を再興しました。
その後、松山城主であった
上田安独斎の庇護を受け、
天正5年(1577年)には
七堂伽藍をはじめとして
見事に再興を果たしたのでした。

徳川家康より朱印地を賜る】
天正19年(1591年)には
徳川家康により寺領二十五石の朱印地を賜ります。
江戸時代初期の「社寺堂庵明細書」には
脇坊四箇寺として、
般若坊・威徳寺・是心坊・慶雲寺を擁し、
正学院・正存院の修験二院、
門前七軒の屋敷地、八王子権現、
七社権現、愛宕権現、山王天王、
天神、荒神、雷電、弁財天が
山内鎮守として祀られていたことが
記されています。
二十五石の朱印地の他、
山内の薬師堂に対して
除地として税が免除されていました。
寛政6年(1794年)には
出家した皇族が入寺することのできる
永代寳光院室兼帯を許され、
十六菊の紋の掲揚が認められています。
今日でも正法寺に修善院と
寳光院の2つの院号があるのは
このためであるとのことです。
江戸時代期には観音巡礼も盛んであり、
岩殿観音門前町も大いに賑わいをみせたのでした。

【明治維新・寺院の弱体化】
明治維新の後、
日本国は国民教化のため
天皇を頂点とした
国家神道を国教としました。
それまで仏教と神道の間の線引は
曖昧なものでしたが、
それらを無理矢理に分けるとともに、
廃仏毀釈によって寺院を弱体化しました。
この廃仏毀釈の波は
岩殿観音にもおよび、
多くの山内社寺が廃され、
また寺領であり
修験山岳修行の場であった山林を
召し上げられました。
この影響は観音巡礼にもおよび、
参拝者は減少し、
門前町も急激にに衰退していったのでした。

そして今。
平成に入ると表参道の整備がされ、
近年には門前の家々に
かつての屋号が掲げられるなど、
往時の姿を残しつつ現在を迎えています。

(引用元:岩殿観音正法寺公式サイトより)




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【岩殿観音の境内】
岩殿丘陵の最東端に位置し、
物見山のすぐ隣にあるため、
寺は急傾斜地を切り崩したような
場所にあり、山寺のような雰囲気があります。

【観音堂】
養老年間の創建と伝えています。
寛永、天明、明治と3回再建されています。
現在の建物は明治11年(1871年)
の火災により観音堂が焼失。
明治14年に現在の飯能市白子にある
長念寺の観音堂を移築・改築したものです。
長念寺より移築される前の岩殿観音の観音堂は、
大きなお堂であり、石仏の並ぶ崖から
大銀杏のあるところまで
一杯に大屋根が広がっていたそうです。
本尊の千手観音は、室町時代の作と伝えられています。

岩殿観音 観音堂

【観音堂御本尊 千手観音菩薩】
岩殿観音の御本尊は、
千の手と、その手のそれぞれに
千の眼をもつ千手観音です。
全身金色の千手観音は
「前立本尊」であり
奥の厨子に秘仏本尊の
千手観音菩薩坐像が収められています。
秘仏本尊は室町時代作の青銅製であり、
12年に一度午歳のときにのみ、
そのお姿を直接拝むことができます。

岩殿観音 千手観音菩薩

【本堂御本尊 阿弥陀如来】
仁王門横手の本堂のご本尊は
阿弥陀如来です。
室町時代作の木製であり、
平成になってから
泊の押し直しがおこなわれました。
三尺ほどの立像で
脇侍に観音菩薩と勢至菩薩が控えます。

【薬師堂】
慶長19年に徳川家康より
土地の寄進を受けた際に
薬師堂を建立しました。
ですが寛永年間に焼失し、
その後現在の堂宇が再建されました。
また薬師堂には、
明治20年の春に、
信州善光寺三尊阿弥陀如来を分身安置され、
薬師如来と十二神将、
善光寺阿弥陀如来が祀られています。

岩殿観音 薬師堂

<薬師如来・十二神将・善光寺阿弥陀如来>
薬師堂 薬師如来・十二神将・善光寺阿弥陀如来

【仁王門と仁王像】
表参道から石段を少し登った所にある
「巌殿山」の額を掲げた門です。
左右には仁王像があり、
右手に本堂があります。
仁王像は運慶の作といわれていましたが、
平成4年の解体修理のおりに、
棟札がでて、
運慶作のものは江戸時代に焼失し、
現在の仁王像は、
文化年間(1808年⇒18144年)
に再建されたものと判明しました。

岩殿観音 仁王像1

岩殿観音 仁王像2

現在の仁王像は、
平成の解体修理時に
漆を塗りなおされ、
漆の保護のため紫外線カットガラスに
覆われています。

岩殿観音 仁王門

【銅鐘(梵鐘)】
埼玉県指定有形文化財に指定されています。
元亨2年(1322年)に鋳造されたものです。
外面に無数の傷が付いておりますが、
これは天正18年(1590年)に
豊臣秀吉による関東征伐の際に、
山中を引き回した時の傷だと伝えられています。

【鐘楼】
元禄15(1702年)に
比企郡野本村(現在の東松山市野本)の
山田茂兵衛の寄進で
建立されたと伝えられる
草葺き屋根の建物です。
東松山市内では最も古い建造物として、
東松山市有形文化財に指定されています。

【石仏】
境内をかこむ石崖には石仏が安置されています。
百観音(西国、坂東、秩父札所)、
四国八十八ヶ所の写本尊であり、
百観音と四国八十八ヶ所を
参拝したのと同じ御利益が
得られると言われています。

岩殿観音 石仏

【六面幢】
天正10年(1582年)に、
正法寺の僧、道照が建立したもので、
埼玉県史跡に指定されています。
岩殿観音堂の東南、
谷を利用した沼の対岸
山中の平場にあります。
緑泥片岩(青石)の6板の
板石塔婆を組み合わせて、
六角柱をつくり、
上に六角形の笠石をのせたものですが、
1枚欠失しています。
高さは107センチメートル、
板石の大きさは横36・縦101センチメートル、
笠石の直径は128センチメートルです。
笠石の周縁には、飛雲、
裏側には双竜・宝球、獅子、
宝相華が極めて精巧に彫刻されています。




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【大イチョウ】
東松山市指定天然記念物です。
推定樹齢は700年を越えていると云われています。
周囲は11mあり、埼玉県内でも最大級の大きさです。
江戸時代には養老木と呼ばれ、
多くの女性に安産・子育守護の対象として
信仰されました。
紅葉の見頃は11月下旬から12月とのことです。
この時期には夜間のライトアップも行なっています。

岩殿観音 大銀杏

紅葉の写真を拝見しましたが、
かなりの圧巻です。

岩殿観音 大銀杏(遠景)

【御朱印について】
御朱印は、寺院や神社に参拝をし、
読経や写経によって
お経を納めた証として頂くものです。
決してスタンプラリーのような感覚で
御朱印を集めずに、
あくまでもお参りをした証として
御朱印を頂くことを心がけてください。
厳密にはお経を納めることで
御朱印をいただくため、
御朱印所のことを納経所といいます。
仁王門を右に進み、
本堂を右手に進んだ玄関口にて
御朱印を受け付けているとのことです。
(岩殿観音公式サイトより)

【受付時間】
<夏期>
午前8時30分~午後5時
<冬期>
午前8時30分~午後4時

※ホームページでは少々厳しめな文言ですが、
口コミなどによりますと、
とても丁寧に対応してくださったそうです。

【参道】
仁王門から延びる表参道の両脇には
家が建ち並んでおり、かつての岩殿観音正法寺と
門前町の繁栄の面影を残しています。

岩殿観音 参道絵図

かつては六十六の僧坊が並び、
その後は門前町として栄えました。
軒に掲げられた屋号は明治期のものです。
実際に商店の建物のまま残っているのは
丁字屋旅館と
(江戸時代から昭和初期まで営業していた)
向かいのうどん屋のみとのことです。
(2000年頃に丁字屋が運営していた)
寺の裏手には交通量の多い
県道が通っているため、
岩殿観音正法寺への参拝者も
この県道から観音堂へ直接来る人が
ほとんどであるとのことです。

<現在の表参道>
岩殿観音 現在の参道

【鳴かずの池】
「田村麻呂の悪竜退治」で討たれた
悪竜の首を埋めた所です。
悪竜に怯え、蛙は鳴かないということです。
岩殿観音から徒歩10分。
表参道側です。

鳴かずの池 橋

【所在地】
〒355-0065 埼玉県東松山市岩殿1229

<夏期> 
午前8時30分~午後5時
<冬期> 
午前8時30分~午後4時

【電話・FAX】
0493-34-4156

【交通アクセス】
【車】
<表参道>
関越自動車道・「鶴ヶ島」ICまたは「東松山」IC⇒
こども動物自然公園(看板あり)を目指します。
交差点「こども動物自然公園」を右折⇒
約700m先の交差点を左折⇒表参道⇒仁王門脇の駐車場。

※表参道は大型バスの通行ができませんので
裏参道側をご利用ください。

<裏参道>
交差点「こども動物自然公園」を直進⇒
大東文化大学を越えた先に岩殿観音の看板⇒
看板脇の駐車場。
看板下のトンネルを抜けると境内へ入ります。




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【電車・バス】
<表参道>
(駅から約25分~バス7分・徒歩20分)
東武東上線「高坂」駅を下車。
西口ファミリーマート前から、
川越観光バス「鳩山ニュータウン行き」に乗車。
「 物見山登山口」で降車。
道なりに直進し、交差点「こども動物公園」に進む。
交差点を右折し、道なりに進んだ
約700m先の交差点を左折、表参道へ。
表参道を進むと仁王門へ。

<裏参道>
(駅から約12分~バス10分・徒歩3分)
東武東上線「高坂」駅を下車。
西口ファミリーマート前から、
川越観光バス「鳩山ニュータウン行き」に乗車。
「大東文化大学」で下車し(乗車時間約10分程度)、
進行方向に歩くと道路を挟んで
岩殿観音の看板が見えます。
看板下のトンネルをくぐり境内へと進みます。

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比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

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安楽寺(吉見観音)、比企三山の一つで源範頼が身を隠したと伝わる名刹です。

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