北条家

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

小田原城址 天守閣




北条氏康

北条氏康(ほうじょう うじやす)は、
戦国時代の武将で相模国の戦国大名
小田原北条氏第2代当主である
北条氏綱の嫡男として生まれました。
小田原北条氏第3代目当主です。
母は北条氏綱の正室の養珠院です。

関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、
外征に実績を残すと共に、
武田氏・今川氏との間に
甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、
上杉謙信を退け、
後世につながる民政制度を充実させました。
優れた政治的手腕を発揮し、善政をしき、
小田原北条氏当主として19年間、
隠居後も後継者である
第4代当主北条氏政との
共同統治を12年間続け、
30年以上にわたって
小田原北条氏を率いたのでした。

【生誕】
永正12年(1515年)

【死没】
元亀2年10月3日(1571年10月21日)

【改名】
伊豆千代丸(幼名)⇒ 氏康

【別名】
通称:新九郎、号:太清軒
渾名:相模の獅子、相模の虎

【墓所】
神奈川県箱根町の早雲寺

【官位】
従五位上、相模守、左京大夫
【氏族】
伊勢氏⇒ 北条氏(桓武平氏)

【父】北条氏綱
【母】養珠院宗栄
【兄弟】
氏康、為昌、氏尭、大頂院殿、
浄心院、高源院、芳春院、ちよ、
蒔田殿(吉良頼康室)
北条(福島)綱成(義弟)
< strong>【妻】
正室:瑞渓院(今川氏親の娘)ほか

【子】
新九郎、氏政、七曲殿、氏照、
尾崎殿、氏規、長林院殿、
蔵春院殿、氏邦、
上杉景虎、浄光院殿、桂林院殿

【誕生】
小田原北条初代として扱われる
伊勢盛時(北条早雲)が存命中の
永正12年(1515年)、
第2代当主である北条氏綱(当時は伊勢氏綱)
の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれました。
4歳の時に祖父である伊勢盛時(北条早雲)が死去。
7歳の頃から父である伊勢(北条)綱は
北条氏を名乗るようになりました。
元服は北条氏綱の左京大夫任官と
同時期の享禄2年(1529年)年末の
15歳の頃と見られています。

【初陣は大勝】
享禄3年(1530年)、
小沢原の戦いにおける初陣にて
扇谷上杉朝興と戦い、
これに大勝したと伝承されております。
当時代の史料の面からも
事実に近いとされています。

【戦での連勝】
天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、
天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに
出陣して戦功を重ね、
天文7年(1538年)の
第一次国府台の戦いでは
父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、
敵の総大将である小弓公方の
足利義明を討ち取って勝利を収めました。

【鶴岡八幡宮、将軍からの贈呈】
天文6年(1537年)7月には
父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、
天文8年(1539年)6月には
第12代将軍である足利義晴から
巣鷂(鷹の雛)を贈られています。

【北条氏綱の死去と家督相続】
天文10年(1541年)に
北条氏綱が死去したため、
家督を継いで第3代当主となりました。
北条氏綱は死の直前、
五ヶ条の訓戒状を残しています。
一説では天文7年(1538年)に
北条氏綱が隠居して北条氏康に家督を譲り、
後見していたとされています。
また、北条氏綱は天文10年の初夏には
体調を崩して五ヶ条の訓戒状を残していることから、
北条氏綱の隠居は
死の直前であったとする説もあるとのことです。





【河東一乱】
天文14年(1545年)、
駿河の今川義元は、関東管領・山内上杉憲政
扇谷上杉朝定(朝興の子)等と連携し、
北条氏康に対し挙兵しました。
今川義元は、北条氏綱に奪われていた
東駿河を奪還すべく攻勢をかけたのでした。
これを第2次河東一乱というそうです。
北条氏康は駿河に急行するものの、
北条勢は今川軍に押され、
吉原城・長久保城を自落させるなど、
状況は不利であったそうです。
その在陣中、関東では
山内・扇谷の両上杉氏が
大軍を擁して義弟である
北条綱成が守る河越城を包囲したという
知らせが届き、東西から挟み撃ちにあった
北条氏康は絶体絶命の危機に陥ったのでした。
この窮状の中まずは片方を収めるべく、
北条氏康は武田晴信の斡旋により、
今川義元との和睦を模索します。
結果、東駿河の河東地域を
今川義元に割譲することで和睦となりました。
後の武田氏を交えた
甲相駿三国同盟の締結までは
緊張が続きましたが、
その後は同盟関係を堅持し、
駿河侵出はなかったのでした。

河越夜戦河越城の戦い)】
関東では今川義元と手を結び、
態勢を立て直した両上杉氏(山内・扇谷)に加え、
北条氏康の義兄弟(妹婿)であり、
これまでは北条と協調してきた
古河公方・足利晴氏までもが
連合軍と密約を結び、
河越城の包囲に加わりました。
その数およそ8万の連合軍に
包囲された河越城は約半年に渡って
籠城戦に耐えたのですが、
今川との戦いを収め関東に転戦した
北条氏康の北条本軍は1万未満しかなく、
数では圧倒的に劣勢だったのでした。
北条氏康は両上杉・足利陣に
「これまで奪った領土はお返しする」
との手紙を送り、
長期の対陣で油断を誘いました。
そして翌年の天文15年(1546年)、
北条氏康は城内の北条綱成と連携して、
連合軍に対して夜襲をかけます。
この夜襲で上杉朝定は戦死し、
扇谷上杉氏は滅亡しました。
また、上杉憲政は上野国平井に、
足利晴氏は下総国に遁走しました。

【河越夜戦についての史料】
「河越城の戦い」の内容に関しては、
同時代史料が乏しく、
研究の余地の大きい合戦ではあります。
また、夜戦ではなかった、とする説もあります。
けれども、夜戦でなければ、
奇襲は成功しなかったとも考えられています。
ちなみに、軍勢ですが、
足利及び両上杉軍は8万と言われています。
ただし、実際には3万程度だったとみる説もあります。
これに対して北条氏康側は8000程度、
河越城では3000程度だったとのこと。
その中の6000程度の数で、
子の刻に(真夜中)に扇谷上杉軍の本陣に
急襲したとのことです。
その時の扇谷上杉本陣は
3000程度であったともされています。

【河越夜戦での勝利後】
この戦いで北条氏側が勝利したことにより、
北条氏康は関東における抗争の主導権を確保したのでした。

【領地経営も大危機】
大危機は軍事面だけではなかったのでした。
河越夜戦の後しばらくの間の
領地経営は手間取り遅滞したそうです。

【天文18年の大地震】
特に天文18年(1549年)に
関東で発生した大地震では
被災した領民への対応が後手に回り、
領国全域で農民が村や田畑を放棄しての
逃亡が大規模に起こる
「国中諸郡退転」という
深刻な状況に陥ってしまったのでした。

【公事赦免令の発令】
そのため天文19年(1550年)4月付けで
公事赦免令を発令したのでした。
これは伊豆から武蔵南部にまたがる領域に、
直轄領・給人領の別なく朱印状を発給し、
それまで雑多な徴収をされていた
賦税課税の手順や対象や課税率を
単純化・軽減化して税制改革すると共に、
特定の賦役の廃止や免除、
過去設定されていた諸税を撤廃、
指定の債務を破棄するというものでした。
この発布により事態を収拾することができました。
これは北条氏が全領国規模で行った
初めての徳政でした。

【公事赦免令は農民の直訴もOK】
この「公事赦免令」は、目安制によって、
中間管理者に対する農民の直訴をも認め、
徴税や徴発の統一化による
中間搾取の回避と共に、
中間管理者に当たる領内の中小規模の
旧支配層の権限を縮小することにより、
関東の地付きではない
北条氏の支配権の強化につながっていったのでした。

【河越夜戦後の関東攻防】
天文19年(1550年)7月6日に
足利義輝の命を受けて、
里見義堯との仲介の労を取るために
関東に下向した彦部雅楽頭に
取り成しに満足した旨の手紙を送っています。

【上杉憲政を追い詰める】
天文19年(1550年)に、
上杉憲政の居城である平井城を攻めましたが、
このときの攻略はならず、
翌年の天文20年(1551年)に
平井城を落とすことに成功。
上杉憲政を厩橋城、さらに白井城へと追い詰め、
天文21年(1552年)正月に、
上杉憲政は越後守護代である
長尾景虎(後の上杉謙信)の元に
身を寄せることになったのでした。





【上杉謙信の支援を受けて】
けれども、翌年の天文21年(1552年)7月に
長尾景虎の支援を得た上杉憲政が
武蔵北部まで入り、
同調した諸氏に対し
味方の赤井氏救援のため
北条氏康が報復する事態まで起きました。
結局この後、永禄3年(1560年)まで
上杉憲政の関東侵入はならず、
山内上杉氏与力の由良氏や
佐野氏や長野氏や横瀬氏等の抵抗がありましたが、
弘治元年(1555年)頃には北条に属すことで、
上杉連合軍に全域を奪われていた上野は、
一旦は北条氏の勢力下に治まったのでした。

【常陸・下野の状況】
上野や武蔵以外にも常陸の佐竹氏、
下野の宇都宮氏などの関東諸侯との
敵対状況は続いていました。
天文22年(1553年)4月には、
真里谷武田氏を攻略していた
里見氏を攻め始め、
その中で内房正木氏が北条に下っています。
天文23年(1554年)には古河城へ侵攻、
2年前に公方の位を小田原北条氏の血を引く
息子(北条氏康の甥)の足利義氏に譲った
足利晴氏を秦野に幽閉します。
さらに大石氏には北条氏照
藤田氏には北条氏邦と息子を養子に送り、
時間をかけながら、
実質的に一門に組み入れたのでした。

【関東管領に匹敵する権力を知らしめる】
弘治3年(1557年)には
宇都宮家臣である芳賀高定の
宇都宮城奪還に協力し、
古河公方及び佐竹氏や那須氏など
周辺の大名らに宇都宮氏への
援軍要請を出しています。
さらに宇都宮城奪還時に
壬生氏当主の壬生綱雄に対して
旧宇都宮領を宇都宮氏に
すべて返還するよう命令を出しています。
これらの行いは北条氏康の権力が
関東管領に匹敵することを
関東諸将に知らしめさせるという
思惑があったために行ったということです。

【甲相駿三国同盟】
先の河東一乱後の和睦には至りましたが、
今川氏との関係は依然として
緊迫した状況でありました。
天文17年(1548年)3月、
北条氏康が織田信秀に宛てた返書があり、
(古証文写)その内容は、
「一和がなったというのに、
彼国(義元)からの疑心が止まないので
迷惑している」ということです。

天文23年(1554年)7月、
今川氏の重臣である太原雪斎
仲介などもあって、
娘である早川殿を今川義元の嫡男である
今川氏真に嫁がせ、12月には、
前年に婚約の成立していた
武田信玄の娘である黄梅院を
嫡男である北条氏政の正室に迎えることで、
武田・今川と同盟関係を結ぶに至りました。
さらに北条氏康は実子の北条氏規
実質的に人質として、
北条氏規にとっては
外祖母にあたる寿桂尼に預けました。
なお、この時に北条氏規は、
松平竹千代、後の徳川家康
親交を結んだとされています。
これにより背後の駿河が固まったことになり、
主に武田氏と軍事的連携を強化し、
関東での戦いに専念することになったのでした。

【家督を譲り「御両殿」体制へ】
永禄2年(1559年)、
北条氏康は次男で
長嫡子の北条氏政に家督を譲って隠居しました。
「永禄の飢饉」という
大飢饉が発生していたため、
その責を取るという形で
代替わりによる徳政令の実施を
目的としていました。
けれども隠居後も
小田原城本丸に留まって
「御本城様」として
政治・軍事の実権を掌握しながら、
北条氏政を後見するという、
「ニ御屋形」「御両殿」
と称される形体に移行したのでした。

【上野国の領国化】
この頃、上野国内の上杉方
(横瀬(由良)氏・上野斎藤氏・沼田氏など)
をほぼ降伏させ、この時点では
上野国の領国化に成功していました。
越後に対しては越後から
上野への出入口である沼田に
北条康元を置いて対抗しました。

【今川義元、討たれる】
永禄3年(1560年)5月、
今川義元が桶狭間の戦いにおいて
織田信長に討たれたため、
今川氏の勢力が衰退します。

【上杉謙信が動く!】
同年、上杉謙信が
「永禄の飢饉」の中の関東へ侵攻し、
小田原城の戦いとなりました。
上杉憲政を奉じ、8000の軍勢を率いて
三国峠を越えた上杉謙信は、
各地で略奪を繰り広げながら、
厩橋城・沼田城・岩下城・那波城など
上野国の北条方の諸城を次々と攻略し、
関東一円の大名や豪族、
さらには一部の奥州南部の豪族に
動員をかけるのでした。
これに対し、上総国の里見義堯の本拠地である
久留里城を囲んでいた北条氏康は、
包囲を解いて9月に河越に出陣し、
10月には松山城に入ります。
ここで主要な城へ籠城指示を出し、
その後、本拠地の小田原城に入城し、
籠城の構えをとったのでした。





【上杉連合軍】
上杉連合軍には、上野国の白井長尾氏、
総社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、
岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。
下野国の足利長尾氏、小山氏、
宇都宮氏、佐野氏。
下総の簗田氏、小金高城氏。
武蔵国の忍成田氏、
羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、
岩付太田氏、勝沼三田氏。
常陸国では、小田氏、真壁氏、
下妻多賀谷氏、下館水谷氏。
安房国の里見氏。
上総国の東金酒井氏、
飯櫃城山室氏といった
「関東幕注文」の面々に加え、
遅れて佐竹氏が参陣したのでした。

【北条軍】
これに対し、北条氏には
上野国の館林赤井氏、
武蔵国の松山上田氏。
下野国の那須氏。
下総の結城氏、下総守護千葉氏、臼井原氏。
上総国の土気酒井氏。
常陸国の大掾氏が組みし、
玉縄城には北条氏繁
滝山城、河越城に北条氏堯、
江戸城小机城、由井城に北条氏照、
三崎城に北条綱成、
津久井城の内藤康行で対抗したのでした。

【上杉謙信がやってきた!】
12月初旬、上杉謙信は下総古河御所などを包囲。
上野廓橋城にて越年し、
永禄4年(1561年)2月に
松山城、鎌倉を攻略しています。
最終的には10万余りの連合軍を率い、
北条氏康の本国である
相模にまで押し寄せてきました。
連合軍先陣は3月3日までには当麻に着陣。
上杉方は14日に中郡大槻にて
北条方・大藤氏と交戦しました。
上杉謙信勢も3月下旬ころまでに
酒匂川付近に迫り、
居城である小田原城を包囲しました。
「関八州古戦録」等の軍伝に於いては
上杉軍の太田資正隊が
小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、
対する北条軍は各地で兵站に打撃を与えて抗戦、
この間、包囲は一ヶ月に及んだとも
伝えられていますが、
同時代史料では
上杉軍による城下への放火等は記されていますが、
詳細は明らかではなく、
前後の上杉軍や上杉謙信の動きから
包囲自体は1週間から10日間
ほどであったということです。
小田原城の防衛は堅く、
当時関東では飢饉の続発していたため、
長期にわたる出兵を維持できなかったことから、
佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、
一部の豪族においては、
勝手に陣を引き払う事態となっていたのでした。

武田信玄が牽制】
さらに北条氏康と同盟を結ぶ
武田信玄が信濃国川中島に
海津城を完成させ、
信濃北部での支配域を広げることで、
上杉謙信を牽制します。

【鎌倉にて関東管領に就任】
これらにより、
上杉謙信は小田原城から撤退し、
鎌倉に兵を引き上げ、
閏3月に鶴岡八幡宮にて
関東管領に就任しました。
この後、上杉謙信は足利藤氏(義氏の庶兄)を
公方として擁立します。
ただし、古河公方の歴代には数えられてはいません。

【上杉憲政・近衛前久を古河へ】
更に上杉謙信は上杉憲政を
関白である近衛前久と共に古河に入れると、
武田氏に扇動された一向一揆が
越中国で蜂起したこともあり、
このときの小田原城の攻略を断念。

【再攻略・放火・略奪しながら謙信帰る】
早くも上杉軍から離反した
上田朝直の松山城を再攻略し、
各地で略奪・放火を行いながら、
6月に越後国へ帰国したのでした。
他にも、関宿城等の城が
北条氏から離脱しましたが、
玉縄城、滝山城、河越城、江戸城、
小机城、由井城、三崎城、津久井城等は
攻勢を耐え切ったのでした。

【繰り返す上杉謙信の侵攻と荒廃】
以降の永禄年間、上杉謙信は、
作物の収穫後にあたる
農業の端境期である
冬になると関東に侵攻し、
北条氏康は北条氏と上杉氏の間で
離脱従属を繰り返す国衆と、
戦乱と敵軍の略奪による
領国内の荒廃といった、
その対応に追われることになったのでした。

【奪われた勢力域の再攻略】
永禄4年の上杉謙信帰国の直後には、
関東管領就任式時に
北条下から離脱していた
下総国の千葉氏・高城氏が再帰参しましたが、
北条氏康は上杉謙信の帰陣前の6月から、
既に上杉氏に奪われた
勢力域の再攻略を試みました。
9月には武蔵国の三田氏を攻め滅ぼし、
その領国は北条氏照に与えられました。
次に北条氏邦が家督を継いでいた
藤田氏の領国のうち、
敵に応じていた秩父日尾城、
天神城を攻略し、武蔵北部を奪還しました。

【取られた所は取り返す】
さらに武蔵国の小田氏・
深谷城の上杉憲盛をも再帰参させ、
上野国の佐野直綱と
下野国の佐野昌綱
寝返らせることに成功しました。
けれども佐野昌綱の方は
その後まもなく上杉謙信に降伏しています。
北条氏康は武蔵国へ軍勢を派遣し、
11月27日の生野山の戦いで、
第四次川中島合戦直後の上杉勢を破り
上野国まで後退させ、
そのまま上野武蔵境まで進軍して、
秩父高松城を降伏させ、
北条氏邦の領国の回復に成功しました。

【足利義氏、古河城を追われる】
上杉勢は古河城を、
公方宿老の簗田晴助に任せるとの
書状を出して軍を引き上げていましたが、
12月には近衛前久は由良成繁に
古河城の苦境を伝えています。
古河城を追われた足利義氏は、
北条氏によって上総佐貫城に移されました。

【上杉謙信との一進一退の攻防】
永禄6年(1563年)には
武田氏の援軍を得たこともあって、
北条氏康は松山城や上野厩橋城を攻略します。
さらに下野の小山氏を寝返らせ、
その後は古河城をも攻略し、
上杉謙信が古河公方として
擁立した足利藤氏を捕らえました。
これに対し上杉謙信も反撃し、
三国峠を越えて上野・武蔵・下野・
常陸・下総へ侵攻いていきます。
厩橋城や古河城を奪還し、
成田氏・小山氏・結城氏・小田氏を
降伏させる等、北条方の諸城を攻略しましたが、
両軍ともに支配権を安定させるまでには至らず、
一進一退の攻防が続いたのでした。





【第二次国府台の戦い】
永禄7年(1564年)、
里見義堯・義弘父子と
上総国などの支配権をめぐって対陣します。
北条軍は兵力的には優勢でしたが、
里見軍は精強で一筋縄にはいかず、
北条軍は遠山綱景などの
有力武将を多く失ったのでした。
けれども北条氏康の攻勢により、
里見軍は敗れて安房国に撤退しました。

【太田資正を岩付城から追い出す】
同年の永禄7年、
太田資正を、その息子と謀って岩付城から追放し、
北条氏康は武蔵の大半を再び平定しました。

【第一次関宿合戦】
永禄8年(1565年)、
北条氏康は、関東の中原における
拠点である関宿城を攻撃、
この城は利根川水系等の要地で
北条氏康も重要視していましたが、
このときは城主である
簗田晴助の抵抗に北条軍は撤退しました。

【上杉謙信の失敗】
この後、上杉謙信は臼井城や和田城の攻略に失敗し、
さらに箕輪城が陥落した事もあり、
武蔵国の成田氏、深谷上杉氏、上野国の由良氏、
富岡氏、館林長尾氏、下野国の皆川氏、
上総国の酒井氏、土気(土岐)氏、
原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。
続いて常陸国の佐竹義重
上杉謙信の出陣要請に難色を示すなど、
対北条方の足並みの乱れが生じていたのでした。
そして、永禄9年(1566)、
上野厩橋城の上杉家直臣である
北条(きたじょう)高広が
北条に寝返った事により、
上杉氏は大幅な撤退を余儀なくされたのでした。

【実質的にも隠居生活へ】
永禄9年(1566年)以降は、
実質的にも隠居して、
息子達に多くの戦を任せるようになります。
関東において優勢に戦いを進めており、
北条氏政も成長しつつあったためでした。
これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、
職人使役、息子達の
後方支援に専念するようになります。
この前後から北条氏政は左京大夫に任官し、
北条氏康は相模守に転じています。
家臣への感状発給もこの時期に停止し、
北条氏政への権力の委譲を進めています。

【三船山合戦】
永禄10年(1567年)、
北条氏康は息子の北条氏政と北条氏照に
里見氏攻略を任せ出陣させました。
けれども、正木氏などの国人が
里見氏に通じたことなどがあり、
北条氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。
北条家は上総南半を失ってしまいました。
この際、娘婿である太田氏資が戦死しています。

【佐竹氏の勢力拡大】
また佐竹領以外の常陸においては、
南常陸の小田氏等の臣従により
北条氏の勢威が及んだものの、
小田氏は永禄12年(1569年)に
佐竹氏に大敗し、
佐竹氏の勢力は南へ拡大したのでした。

【甲相同盟の破綻】
永禄11年(1568年)、
今川義元没後の今川氏の衰退を受けて、
従来の外交方針を転換させた武田信玄が
駿河侵攻を行ったことにより、
三国同盟は破棄されたのでした。
今川軍は武田軍に敗北し、
さらに徳川軍の侵攻を受けて
掛川城に追い詰められました。
北条家は娘婿である
今川氏真を支援をする方針を固め、
北条氏政が駿河に出兵し、
薩多峠にて武田軍と対峙します。
北条氏康は武田信玄が、
徳川の不信を買ったことを利用し、
徳川との密約を結び、
駿河挟撃の構えをとったのでした。
さらに富士信忠が、大宮城に攻撃を仕掛けた
武田軍を退けたことにより、
武田信玄はこの状況での駿河防衛は
困難と判断します。
一旦駿河国から軍を退き
甲斐国へと退却しました。
北条氏は興国寺城、葛山城、深沢城など
東駿河を奪取しました。
北条氏康と武田信玄の敵対関係は決定的となり、
甲相同盟はこうして破綻しました。

【3方向を敵勢力に囲まれる状態】
北条氏康は、西に武田氏、北に上杉氏、
東に里見氏と3方向を
敵勢力に囲まれるという
危機的状況に陥ります。
この苦境を乗り切るべく、
駿河出兵を決めると同時に、
上杉氏との同盟交渉を開始しました。

【上杉謙信の置かれた状況】
この頃、西上野一円は武田領化しており、
上杉謙信の上野における支配域は、
沼田と厩橋など主に東上野のみとなっていました。
さらに上杉謙信の目は越中国に向けられていました。
上杉謙信は当初、
討伐対象であった北条氏との
同盟に乗り気ではありませんでしたが、
家臣の説得もあり態度を軟化させました。

【越相同盟】
既に纏まっていた今川家と
上杉家の同盟に乗る形で交渉を始め、
上杉謙信の旧臣である由良成繁を仲介役に、
石巻天用院を使者として、
永禄11年(1569年)に
上杉謙信との同盟である越相同盟を締結しました。

【越相同盟締結後】
これにより上杉謙信は、
北条氏康の甥である足利義氏を
関東管領の主である古河公方として、
また北条氏康と北条氏政は、
上杉謙信を公方の執事たる
関東管領職であるとお互いに認め、
上野・武蔵北辺の一部の上杉氏領有を
認める代わりに、
上杉謙信に北条氏による
相模・武蔵大半の領有を認めさせました。
北条方は北条氏康の実子・三郎(後の上杉景虎)、
上杉方は謙信の家臣である
柿崎景家の実子の晴家が人質とされました。

【越相同盟の代償】
この越相同盟は、
両家の停戦という意味では成功を収めました。
けれども同時に上杉謙信に対する
反北条派の里見氏や佐竹氏、
太田氏といった
関東諸大名・豪族の不信感を生み、
彼らは上杉氏から離反し、
武田氏に与してしまったのです。





【甲越和与】
さらに武田信玄が織田信長や
第15代将軍足利義昭を通じて
越後上杉氏との和睦を試み、
同年8月には上杉・武田両氏の和睦が
一時的に成立したのでした。
また上杉が甲越和与を解消した後も、
北条・上杉両氏による
同盟条件の不調整・不徹底のため、
北条・上杉両軍の足並みは
乱れることが多かったとのことです。

【武田信玄との戦い】
永禄12年(1569年)9月、
武田軍が武蔵国に侵攻します。
これに対し、鉢形城で北条氏邦が、
滝山城で北条氏照が籠城し武田軍を退け、
武田軍はそのまま南下、
10月1日には小田原城を包囲しました。
けれども北条氏康が徹底した籠城戦をとり、
武田軍にも小田原城攻略の意図はなかったため、
わずか4日後、
城下町に火を放ったのち撤退しました。

三増峠の戦い
北条氏康は撤退する武田軍に対し挟撃を謀り、
北条氏政を出陣させましたが、
荷を捨て身軽になってまで
迅速に行軍した武田軍に対して、
北条氏政隊の追撃が間に合わず、
本隊到着前に三増峠に布陣する
北条氏邦と北条氏照隊が攻撃を開始し、
挟撃にはなりませんでした。
緒戦は優位に押しましたが、
武田別働隊による高所からの奇襲を受け、
加えて津久井城も武田方に抑えられて
援軍が出陣できず、突破され敗退。
武田家譜代家老の浅利信種を討ち取ったものの、
武田軍の甲斐帰還を許す結果になったのでした。

【武田、再び駿河へ】
その後、武田は再度駿河国に出兵、
対する北条は里見氏の勢力回復や
北条氏康の体調悪化に伴い、
興国寺城・東駿河はかろうじて保ちましたが、
駿河国での戦いは武田に押されていったのでした。

【最期】
北条氏康は元亀元年(1570年)8月頃から
中風とみられる病にかかっていた模様です。
なお、中風(ちゅうぶ)とは、
脳出血などによって起こる、
半身不随や手足のまひなどの症状とのことです。
8月初旬には鎌倉仏日庵で、
北条氏康の病気平癒祈願の
大般若経の真読が行われています。
その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、
「風聞としてではあるが氏康の様子を、
呂律が回らず、子供の見分けがつかず、
食事は食べたいものを指差すような状態で、
意志の疎通がままならず、
信玄が豆州に出たことも分からないようだ」
と記し伝えているとのことです。
その後、12月には武田信玄の
深沢城攻めの対応を
指示ができるほどには
快方に向かったとのことですが、
明けて元亀2年に入ると、
北条氏康発給の文書は
印判だけで花押が見られなくなりました。
そして元亀2年(1571年)5月10日を
最後に文書の発給は停止されています。

そして10月3日、
北条氏康は小田原城において亡くなりました。
享年は57歳でした。
戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。

領国経営では、善政を敷いた事から
多くの領民が北条氏康の死を悲しんだと
伝えられています。

【武田氏との和睦同盟を模索】
亡くなる同年から、北条氏康は、
かつて武田氏に通じていた
北条高広を介して、
武田信玄との和睦及び同盟を模索していたそうです。
最後の務めとして北条氏政をはじめとする一族を集め、
「上杉謙信との同盟を破棄して、
武田信玄と同盟を結ぶように」
と遺言を残したと伝えられていますが、
あいにく、その真意は不明です。
けれども他界した後の12月27日、
北条・武田は確かに再同盟しているのです。

【北条氏康の人となり】

【内政】
【小田原衆所領役帳】
北条氏の特色である、
領内の検地を徹底して行ない、
永禄2年(1559年)2月、
北条氏康は
大田豊後守
関兵部丞
松田筑前守の3人を奉行に任命し、
家臣らの諸役賦課の状態を調査し、
それを安藤良整が集成して
「小田原衆所領役帳」を作成しています。
構成は各衆別
(小田原衆、御馬廻衆、玉縄衆、
江戸衆、松山衆、伊豆衆、津久井衆、
足軽衆、他国衆、御家中衆など)
計560名の家臣個々の所領の場所(領地)と
その貫高(所領高)が記され、
負担すべき馬、鉄砲、槍、弓、指物、旗、
そして軍役として動員すべき
人数が詳細に記載されています。
これにより家臣や領民の負担が明確になり、
家臣団や領民の統制がより
円滑に行われるようになったのです。

【税制の改革にも熱心】
歴代同様に税制の改革にも熱心で
領民の負担軽減などに尽力しており、
在郷勢力から支持されています。

【不定期の聴衆から農民を解放】
それまでの諸点役と呼ばれる公事を廃止し、
貫高の6%の懸銭を納めさせることにより、
不定期の徴収から百姓を解放し、
結果的に負担を軽減させたのでした。

【税は直接北条氏の蔵へ】
同時に税が直接北条氏の蔵に収められる、
即ち中間搾取がなくなることで、
国人等の支配力が低下し、
北条氏の権力はより大きなものとなりました。

【棟別銭の減額と天候次第での減税】
さらに棟別銭を50文から35文に減額し、
凶作や飢饉の年には減税、
場合によっては年貢を免除しました。





【更なる免除地域あり】
その他、一部では反銭や棟別銭を始め
国役までも免除されていた地域も存在しました。

【目安箱の設置】
領民の誰もが直接北条氏(評定衆)に
不法を訴える事ができるよう目安箱を設置し、
領民の支持を得ると同時に中間支配者層を牽制しました。

【通貨の統一化】
また、他大名に先駆け永楽銭への
通貨統一を進め、撰銭令も出しています。

【貨幣制度を実施】
永禄2年(1559年)12月、
代物法度を制定して、
精銭と地悪銭の法定混合比率を規定する
貨幣制度を実施、
翌年に比率を改定し完成しました。

【背景に地悪銭の増加した時期】
北条氏康の統治期は
全国的に良質の永楽銭の不足や
地悪銭の増加が顕著になりだした時期でした。
それによる税収不足を防ぐ為に、
永禄7年(1564年)に
反銭を米で納める穀反銭を創設し、
その為の公定歩合として、
永楽銭100文を米1斗2~4升と定めました。

【こまめな税制改革】
翌年の永禄8年(1565年)には、
棟別銭も2/3を麦、1/3を永楽銭で納める
正木棟別の制度を創設し、
麦の公定歩合を100文につき
3斗5升と定めました。
そして最終的には、
永禄12年(1569年)に
棟別銭と反銭を銭納から
米穀等の物納に全面的に切り替え、
財政の安定化を図っています。

【領国内の度量衡を統一】
地域ごとに違ったものを
使用していた枡でしたが、
遠江の榛原枡を公定枡とし、
領国内の度量衡を統一したのでした。

【独自の官僚機構の創出】
北条氏康の功績としては、
独自の官僚機構の創出もあげられます。
例えば評定衆はその代表的なもので、
領内の訴訟処理などを行っていました。
構成員はおもに御馬廻衆を主体としていました。
史料上の初見は弘治元年で、
裁許状は現在50例ほどが確認されています。

【東国最大の都市】
小田原の城下町のさらなる発展のため、
全国から職人や文化人を呼び寄せ、
大規模な都市開発を行い、
清掃にも気を配り、その結果、
小田原の城下町は東の小田原、
西の山口と称される東国最大の都市となりました。

【上水道と清潔な都市】
上水道(小田原早川上水)を造り上げ、
町はゴミ一つ落ちていないとまで
評されるほどの清潔な都市であったそうです。
その小田原の様について、
天文20年に小田原に来訪した
京都南禅寺の僧である東嶺智旺は、
「町の小路数万間、地一塵無し。
東南は海。海水小田原の麓を遶る」
と記しています。
また、北条氏康在世時の小田原は
寺院の建立も活発であった様子が残されています。

【文書には花押よりも虎の印判】
殆どの文書に虎の印判を使用し、
行政の効率を高めました。
同時期の戦国大名と比較して
最も割合が多いとのことです。
配下などに対して花押を用いずに
印判状を用いる行為、
は効率と引き換えに
反発を招く恐れもあったそうです。
それを押さえ込めるだけの権威と
軍事力が北条氏康の代に備わったことを
意味しているそうです。

【公用使役制の採用、伝馬制】
その他の施策として、
職人使役のための公用使役制の採用や
伝馬制の確立などがあげられます。
北条氏の伝馬手形に押された
伝馬専用印判(印文「常調」)の初見は
永禄元年(1558年)であり、
この時期に北条氏の伝馬制が
確立したとされています。





【教養・文化】
教養・学問にも熱心で、
三条西実隆から歌道の師事を受け、
三略の講義を足利学校で受けたとのことです。
歌を詠ませれば著名な歌人さえも感心させたそうです。
蹴鞠作法は権中納言である
飛鳥井雅綱から伝授されています。
天文20年(1551年)4月、
北条氏康に接見した
南禅寺の僧である東嶺智旺はその傑物ぶりを
「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、
治世清くして遠近みな服している。
まことに当代無双の覇王である」と高く評価しています。

後水尾天皇の勅撰と伝えられる
「集外三十六歌仙」の30番に
一首を採られています。

中々にきよめぬ庭はちりもなし
かぜにまかする山の下いほ

— 集外三十六歌仙、30.閑居 北条氏康

【逸話や伝承】
【少年の頃はビビリ】
12歳の頃、
武術の調練を見ていて気を失ったそうです。
気を取り戻すと
「家臣の前で恥を曝した」
として自害しようとしましたが、
家老の清水某が
「初めて見るものに驚かれるのは
当然で恥ではございません。
むしろあらかじめの心構えが大切なのです」
と忠言したそうです。
以後、北条氏康は常に
心構えをわきまえて
堂々としていたということです、
(「北条五代記」)。

【「北条記」の評価】
「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、
一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。
そのうえに仁徳があって、
よく家法を発揚したので、
氏康君の代になって
関東八ヶ国の兵乱を平定し、
大いに北条の家名を高めた。
その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」
と評価されています。

【「きつ ね」の句分けで凶返し】
夏に北条氏康が高楼で
涼んでいると狐が鳴き、
これを聞いた近習が
「夏狐が鳴くを聞けば、身に不吉が起る」
と告げたため、即興で歌を詠み、
「きつね」を句によって
分けた歌で凶を返したため、
狐は翌朝に倒れて死んでいたということです。

夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ

— 小田原北条記、北条氏康

後世成立の軍記からの逸話とのことです。

【「北条稲荷」】
小田原市谷津には、
この夏狐の逸話を元亀元年とし、
その後に狐の霊が北条の家臣に憑いて、
調伏された恨みから災いを起すと訴え、
翌年北条氏康が死んだことを
祟りと考えた北条氏政が
老狐の霊を祀って
供養したという縁起があるとのことです。

【お酒飲むなら朝に三杯までね】
部下への教訓として
「酒は朝に飲め」という言葉を残しています。
これは、寝る前の飲酒は
深酒をしやすく、
失敗につながりやすい、
ということから、だそうです。

【北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆】
小田原衆 松田憲秀 以下33人 9202貫
御馬廻衆 山角康定 以下94人 8591貫
玉縄衆 北条綱成 以下18人 4381貫
江戸衆 遠山綱景・太田大膳・富永康景 以下77人 12650貫
河越衆 大道寺政繁 以下22人 4079貫
松山衆 狩野介(狩野康光?) 以下15人 3300貫
伊豆衆 笠原綱信・清水康英 以下29人 3393貫
津久井衆 内藤康行 以下59人 2238貫
諸足軽衆 大藤秀信 以下17人 2260貫
職人衆 須藤盛永 以下26人 903貫
他国衆 小山田信有 以下30人 3721貫
御家中衆
御家門方 足利義氏・北条長綱 5852貫
本光院殿衆 山中盛定 以下49人 3861貫
氏堯衆 北条氏堯 以下4人 1381貫
小机衆 北条時長 以下29人 3438貫
御家門方 伊勢貞辰 以下11人 1050貫

【墓所】
神奈川県箱根町の金湯山早雲寺にあります。
現在の早雲寺境内に残る
北条氏康を含めた北条5代の墓所は、
江戸時代の寛文12年 (1672年)に、
北条氏規の子孫で
狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、
伊勢盛時(北条早雲)の命日に当たる
8月15日に建立した供養塔です。

北条氏康の本来の墓所は、
広大な旧早雲寺境内の大聖院に葬られましたが、
早雲寺の全伽藍は
豊臣秀吉の軍勢に焼かれ、
北条氏康の墓所の位置は不明となっています。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

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