城跡

花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。

花園城(埼玉県)



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【花園城】

花園城は関東管領山内上杉氏の重臣である
藤田氏代々の居城として知られています。
藤田氏は武蔵七党猪俣党の一族となります。
この城は、当主の藤田泰邦が没した際に
後継者問題から北条氏康の四男である
北条氏邦が入り婿として入り、
鉢形城へ移るまでの間、
藤田家の本城として使われました。

北条氏邦に家督を譲った
藤田康邦の隠居城だったとも
見られています。
秩父谷への街道を抑える重要な支城でしたが、
天正18年(1590年)の
小田原征伐」の際に廃城になり、
430年に渡る城の歴史に
終止符を打つことになりました。

現在城址には土塁や堀切、
竪堀だけでなく、石垣も残っています。
けれども保存状況は良くなく、
見学ルートも注意が必要であるそうです。
登城口は秩父鉄道側の山麓にある
諏訪神社にあるとのことです。

【登城・城の様子】
諏訪神社の右側の小さな
お稲荷様の脇に登城口があります。
よくみないと気づかない
細い道が登城口となります。
木に巻かれた蛍光ピンク色のリボンに
従って登ると城趾へ着くとのことです。
いいかえると蛍光ピンク色の目印に
従わないと遭難するするリスクが上がります。

二重の竪堀の右側の方を登り、
上まで行くと左右両側に
一段高い部分が有り、
左側に登り上の細く伸びる曲輪を進むと
本丸に立派な石碑が建っているそうです。
現地に案内図のようなものはないため、
縄張図は必携とのことです。
所々石垣が残っており、
堀切も竪堀も確認できるとのことです。
時々、猪家族が出没するそうです。
ご注意を。

花園城(埼玉県)

【登城までの時間】
あくまでも目安となりますが
秩父鉄道の波久礼駅から歩いて
30分~45分程で
登城口となる諏訪神社に到着するそうです。
そこから20~40分程で
城跡に到着するとのこと。




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【曲輪構成】
連郭式

【縄張形態】
山城

【標高(比高)】
200m(80m)

【築城主】
藤田政行か

【築城年】
平安時代末期か

【廃城年】
天正18年(1590年)か

【主な城主】
藤田氏

【遺構】
曲輪、土塁、空堀、
竪堀、堀切、石垣

【交通アクセス】
(電車)
秩父鉄道秩父本線「波久礼」駅から
徒歩約30~40分
秩父鉄道秩父本線「寄居」駅からタクシーで約10分

(車)
関越自動車道「花園」ICから15分程度。
関越自動車道「本庄児玉」ICから25分程度。

【駐車場】
駐車場はないので、
路肩に駐めるように
説明板にかいてあるそうです。

【所在地】
〒369-1205 埼玉県大里郡寄居町末野

【花園御岳城跡】
資料によりますと、
花園御岳城は、花園城の
北西500mほどの所にあり、
両者はすぐに隣り合った山塊です。
御岳城の方が比高差が少し高くなっており、
ここを敵方に取られてしまうと
花園城内が丸見えとなってしまうので、
この場所に砦を置いて防備を固めた、
というように言われているとのことです。

藤田氏の居城である花園城の支城として、
その背後にある御嶽山にあり、
現在城址には土塁や横堀などの遺構が
確認できるほか、
本丸跡には御嶽神社が
祀られているそうです。
登城口は山麓の五百羅漢で有名な
少林寺にあり、ハイキングコースとなっているとのことです。

【所在地】
〒369-1205 埼玉県大里郡寄居町大字末野字 八王子

【猪俣党】

猪俣党(いのまたとう)は、
武蔵国那珂郡
(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)
を中心に勢力のあった武士団でした。
武蔵七党の一つです。
小野篁の末裔を称す横山党
同族でした。

小野篁像

主に猪俣氏を名乗っていました。
分布地域は二つに分かれ、
神流川扇状地の条理地域と
利根川南岸の旧河道の間の台地上で、
当時の条里水田に立地したものと
思われます。




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保元の乱や平治の乱、
一ノ谷の戦いで活躍した
猪俣小平六範綱と
岡部六弥太忠澄が有名です。
豊臣秀吉の発令した惣無事令に違反し
小田原征伐の原因となった
猪俣邦憲も猪俣氏の流れに属しますが、
富永氏から養子として
猪俣氏へ入った人物とのことです。

【藤田氏】

小野篁の子孫を称する
武蔵七党猪俣党の猪俣政行
(1155年に花園城を築いとたいわれる)
が武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県寄居町)
に拠って藤田を称し、
1590年年に
豊臣秀吉による小田原征伐まで
武蔵国北部の有力国衆として
400年余り栄えました。

鎌倉時代】
藤田政行の子である藤田行康は
源平合戦(治承・寿永の乱)の
一の谷生田森の戦いで討ち死しています。
その子能国・孫能兼は承久の乱で活躍し、
このとき能国が院宣を読み上げ、
文博士といわれたとのことです。
一族は幕府の問注所寄人でした。

問注所跡(鎌倉)

【戦国時代】
小田原城北条氏康
武蔵国の覇権を握った後、
武蔵北部支配の基盤を固めるために
豪族の藤田氏15代目となる
藤田康邦に自らの四男である
北条氏邦を幼少期から入婿させました。
北条氏邦は藤田康邦の娘を妻とし、
1564年に小田原城の支城である
鉢形城(埼玉県寄居町)に入り、
1582年まで藤田姓を名乗りました。
後に鉢形城は豊臣秀吉による
小田原征伐によって
前田利家上杉景勝ら3万余の兵に囲まれ、
一ヶ月の籠城を経て開城しました。

鉢形城跡 曲輪

藤田康邦の子孫とされる
藤田信吉徳川家康に仕えて活躍し、
下野国西方に1万5千石の所領を与えられました。

【創建した寺院】
現在の埼玉県寄居町には
藤田氏の菩提寺として1297年に
藤田行康の孫・持阿が創建した
藤田善導寺があります。
町内には少林寺、正龍寺、連光寺など
同じく藤田氏によって築かれた
寺院群が見られます。
同じく藤田郷の出で持阿の師・性心は
1288年に茨城県坂東市に
高聲寺を創建しました。
浄土宗藤田流の実質的な本山となり、
近隣の藤田という地名の由来
となったと考えられています。




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【常陸国の藤田氏】
常陸国久慈郡の
静神社祠官を世襲した一族に
藤田氏があります。
なお、水戸藩にも
藤田幽谷(一正)(1774年 – 1826年)
にはじまる藤田氏があります。
本姓は小野氏で猪俣氏の末裔であるとのことですう。
藤田幽谷は学者として著名で、
子の藤田東湖は藩主徳川斉昭に仕えて
改革を担っていました。
藤田東湖の四男・藤田小四郎は
筑波山の水戸天狗党
首領の一人となりました。
また、旧常陸守護佐竹氏の記録では、
佐竹氏の一門にも藤田氏があり、
藤田館の城主として
存在していたという記録もあります。

筑波山

【南北朝時代】
南北朝期、武蔵守護代であった大石氏と、
藤田氏は姻戚関係があり、
武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げ、
永享のころ、宗員は藤田郷内の
聖天堂を興隆しています。
その妻紀香は岩田氏の出身で、
所領を鎌倉円覚寺に寄進しました。

【長亨、永正】
長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が
同国須賀原・高見原で戦ったとき、
藤田三郎は長尾景春にくみして戦い、
永正のころ、藤田虎寿丸が
神奈川権現山合戦に
山内上杉憲房に加わっています。

権現山城跡への道

その上杉憲房と北武蔵に進出した
北条氏綱が対陣したとき、
藤田右衛門佐は上杉憲房の使者をつとめました。

【北条氏康に敗れる】
天文初年、藤田右金吾業繁は
「郡主」を称し、
藤田小三郎は「鉢形」にありました。
同15年、川越合戦で
北条氏康に敗れた上杉憲政は、
上野平井に逃れ、
藤田右衛門佐は大石定久と北条氏康に降りました。

史料に拠りますと、右衛門佐は藤田康邦とあります。
北条氏康の子である北条氏邦はその娘を妻とし、
藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から
鉢形城に移り、鉢形領を支配しました。
小田原北条氏の上野進出では先鋒となり、
沼田城代に猪股邦憲を置きました。
家督を譲った藤田康邦は
用土村に移って藤田を
用土に改姓したということです。

小田原攻めの発端】
猪股邦憲が真田氏名胡桃城を奪い、
怒った豊臣秀吉は天正18年(1590年)、
小田原攻めの兵を起こし、
鉢形城も前田利家に攻められました。
北条氏邦は同城を明け渡し、
前田利家に従い加賀金沢に赴き、
同地で没したということです。




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【異説】
異説によりますと、
北条氏康の子・北条氏邦を養子としたのは、
畠山重忠の末裔藤田重利、
つまり平姓藤田氏です。
藤田重利の実子である
重連と信吉は早くから、
北条氏邦と隙を生じ、
重連は北条氏邦に毒殺されました。
そこで藤田信吉は武田勝頼に同心し、
北条氏邦を上野沼田城に攻めて殺し、
武田勝頼より本領を安堵され、能登守と称しました。
藤田信吉はのち豊臣秀吉に仕え、
さらに徳川家康に服して、
下野那須郡1万5千石に封ぜられ、
名を重信と改めたと言われています。
けれども子がなく家は断絶となりました。

【別流】
更に別流として藤田綱高がいました。
藤田綱高は藤田康邦の一族と
推定されていますが、
北条氏綱から偏諱を受け、
北条氏康に御馬廻衆・奉行人に
任じられていることから、
早い時期から北条氏に
従ったとみられています。

鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。

雉岡城~山内上杉氏による築城で後に小田原北条氏、竹谷松平氏の居城となりました。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父、鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住しました。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

権現山城~京急「神奈川」駅より徒歩2分。青木城跡と併せて訪れたい街中の古戦場・城跡です。

青木城跡~横浜市街地にある「多米氏」の城。権現山城と併せて訪れたい街中の城跡。

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

金鑚神社~武蔵国五宮、社名は砂鉄からとの伝承があり、神体山を祀る古代祭祀の面影を残す神社です。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

武蔵・村山城~福正寺の境内は武蔵七党・村山党の城跡・推定地、最後の当主村山土佐守義光。

越生館(越生神社)と高取山城~武蔵七党の一つ児玉党の一族であった越生氏が築城。

真下城(上野国)~平将門伝説がありますが、確定しているのは天文年間に児玉党系統の真下氏が築城したことです。

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。

尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。

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