城跡

雉岡城~山内上杉氏による築城で後に小田原北条氏、竹谷松平氏の居城となりました。

雉岡城(埼玉県本庄市児玉町)



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【雉岡城

雉岡城(きじがおかじょう)は、
武蔵国児玉郡八幡山、
現在の埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に
所在していた日本の城です。
埼玉県指定史跡。
別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と称します。

雉岡城(埼玉県本庄市児玉町)

【別名】
八幡山城

【城郭構造】
平城

【築城主】
山内上杉氏

【築城年】
15世紀後半?

【主な城主】
夏目定基、松平清宗、松平家清

【廃城年】
慶長6年(1601年)

【遺構】
曲輪、土塁、堀

【指定文化財】
県指定史跡

【雉岡城について】
山内上杉家によって
児玉郡八幡山の独立丘陵に
築かれた城ではありますが、
鎌倉時代には武士が
居住していたと考えられており、
城としての形態に整備されたのが
室町時代末期(戦国時代初期)とされています。
15世紀後半に築かれたと言う事になります。

雉岡城(埼玉県本庄市児玉町)

「武蔵国児玉郡誌」や
「新編武蔵風土記稿」などによりますと、
山内上杉氏の居城として築かれましたが、
地形が狭かったゆえに、
上杉家は上州平井城
移ったものと考えられており、
代わりに有田豊後守定基
(城主となってからは夏目を称す)
を雉岡城主として配備したとのことです。
定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、
元は平井城に在城していた武将とされています。




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【築城の目的】
築かれた目的は、
鎌倉街道の交通要衝を押さえ、
関東管領上杉家の最前線地となっていた
五十子陣(児玉郡北部)への
兵站を確保する事であり、
そうした経済的側面が
あったものと考えられています。
当初は五十子陣の支城としての
役割がありました。
五十子陣の解体後、
上野国平井城の支城として活動し、
小田原北条氏の時代では
鉢形城の支城として活動したとされています。

雉岡城跡と周辺の文化財

150年近い歴史をもち、
最終的には松平家1万石の城となり、
八幡山藩が立藩しましたが、
江戸時代をむかえる前に廃城となりました。

【地理地形と構造】
城の東側には
鎌倉街道上道が南北に
通っており、
東西北の三方に堀を構え、
南の一方のみ平地に続き、
大手口があり、
大手前に馬出跡があります。
南側から本丸・二の丸・三の丸の順に連なり、
ほかに伯耆曲輪・馬出などの郭から構成されています。

雉岡城 説明・縄張り推定図

【初めの城主】
城主は初め上杉家の家臣である
夏目定基(元は有田氏)であり、
「新編武蔵風土記稿」によりますと、
夏目定基の子息である定盛が
2代城主になったとされています。
定基は赤松円心の裔孫であり、
元は平井城に在城していた武将とされています。

【小田原北条氏の管理下】
上杉氏が衰退し、城が
小田原北条氏の手に落ちると、
鉢形城主となっていた
北条氏邦の管理下に置かれます。
永禄年間には武田信玄
上杉謙信との武州争奪戦の舞台となりました。
天正10年(1582年)の
神流川の戦い以降、
北条氏の支配が確定しますと
横地忠晴が城代に任命されました。

天正18年(1590年)、
豊臣秀吉による小田原征伐のおり、
豊臣方の前田利家
北国勢の攻撃によって落城となりました。
伝承によりますと、
城代であった横地左近は
大軍に恐れをなして
鉢形城に逃れたともされています。

雉岡城(埼玉県本庄市児玉町)

【徳川時代、そして廃城へ】
その後、徳川家康が関東へ入り、
江戸城主となる頃には、
八幡山城と呼ばれ、
松平清宗、家清父子が1万石で
当城に配されました。
松平清宗は諸税免除などで
城下の振興を計りましたが、
入封後すぐに死去し、
松平家清が家督を継ぎました。
関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、
慶長6年(1601年)、
松平家清は三河国吉田に
3万石に加増されて転封となり、
以後、当城も廃城となりました。
松平家の城としての歴史は
11年足らずでした。

【歴代の城主】
15世紀末から16世紀中頃までは、
上杉氏家臣夏目氏
(伝承では、定基と定盛が確認されている)。
16世紀中頃から末までは、
小田原北条氏家臣横地氏(城代)。
1590年から1601年までは、
竹谷松平家。

大半は夏目氏が歴代城主として
管理に当たっていたものと
考えられていますが、
短命で終った五十子陣と比べ、
文献資料に乏しい為、
詳細は不明となっています。

雉岡城(埼玉県本庄市児玉町)

【雉岡城の伝承】
夜泣き石
本丸南側の郭の堀底に、
「夜泣き石(親子石)」と言われる石が残っています。
雉岡城 夜泣き石

児玉町に伝わる民話によりますと、
城主の側女お小夜が、
城主の奥方の怒りを買い
井戸に沈められ殺されてしまいました。
お小夜はそのとき妊娠しており、
彼女の死後、井戸や堀の水が乳色に濁り、
夜な夜などこからともなく
赤子の泣き声が
聞こえてくるようになったとのことです。
井戸を攫ってみると底から
大小二つの石が出て来たので、
お小夜とその子が姿を変えたものと思い、
奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、
堀端にこの二つの石を祀り、
剃髪して喪に服したということです。

雉岡城 夜泣き石

姫塚
現神川町植竹における伝承によりますと、
九郷用水に沿って
村の東はずれまで来ると大きな塚があり、
姫塚と呼ばれています。
永禄年間に、北条氏に攻めたてられて
上野にひきあげようとしていた時、
あいにく、病弱な姫君がおり、
一族は姫君の安否が気がかりでなりませんでした。
やがて八幡山から藤岡に向って
逃げのびようと暗い夜の山道を
姫を連れて植竹村まで来ましたが、
ついに姫は林の中で
息を引き取ってしまったのでした。
一族ははかなかった姫君の為、
近くにあった塚に墓を作りましたが、
永く住みなれた八幡山城が
眺められる様に塚の東南に
墓碑を立て、姫の霊を弔ったのでした。
その後、この塚を姫塚と
呼ぶようになったと伝えられています。




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【城跡公園】
現在、本丸・二の丸は
本庄市立児玉中学校、
三の丸は埼玉県立児玉高等学校と
なっていますが、
南東側の数郭は「雉岡城跡公園」
として整備され堀や
土塁の遺構が残り、
塙保己一記念館が建てられました。
(2015年アスピアこだま内に移転)

雉岡城跡公園

【現在は桜の名所】
雉岡城跡(城山公園)には
300本のソメイヨシノが
植えられており
桜の名所として知られています。

【備考】
初代城主である定基は、八幡山に浄眼寺を、
児玉には東福院を開基したと伝えられ、
八幡神社を信仰して社領を寄進したとされています。
玉蔵寺や八幡神社については、
雉岡城築城に際して
現在地に移転したものと伝えられています。
児玉町金屋に所在する真福寺の
阿弥陀像の底に書かれた墨書には、
上杉景勝が生野山に陣を敷き、
その為、真福寺の本尊が失われた」
と書かれているとのことです。
激しい戦闘はなかったとみられていますが、
放火や略奪が行われたものとみられています。

江戸時代初期の廃城後、
城内の建造物は取り壊されましたが、
堀、土塁は残りました。
江戸時代後期には旧城域の一部が
開墾され田畑となり、
明治時代に入ると、三の丸一帯に
児玉高等女学校が建設されました。

【所在地】
〒367-0217 埼玉県本庄市児玉町八幡山446

【交通アクセス】
(電車)
JR八高線「児玉」駅から徒歩10分程度。

(車)
関越自動車道「本庄児玉」ICから10分程度。

【駐車場】
雉岡城跡公園駐車場(無料)

【トイレ】
男女別の綺麗な水洗トイレがあります。

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