城跡

石神井城跡~豊島氏の後期の本拠地であり、太田道灌によって落城となりました。

石神井城跡



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石神井城

石神井城(しゃくじいじょう)は
平安時代から室町時代まで
石神井川流域に勢力を張った
豊島氏の後期の日本の城であり、
長尾景春の乱で没落するまで
豊島氏の本拠地でした。
京都指定文化財史跡です。

石神井城 主郭跡

【城郭構造】
連郭式平山城

【築城主】
豊島氏

【築城年】
鎌倉時代後期

【主な城主】
豊島氏

【廃城年】
文明9年(1477年)

【遺構】
土塁、堀

【指定文化財】
都指定史跡

【石神井城の歴史】
石神井城の築城時期は定かではありません。
一般的には室町中期頃であったと考えられています。
鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの
館が構えられていた場所に、
彼らと婚姻関係を結びながら
石神井川流域の開発領主として
勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、
以後この地は豊島一族の本拠地にもなりました。

三宝寺池と厳島神社

【築城年代】
豊島氏は貞和5年(1349年)に
石神井郷の一円支配を開始しましたが、
応安元年(1368年)の
「平一揆の乱」に敗れて
関東管領・上杉氏に所領を没収されており、
その後応永2年(1395年)になってようやく
同郷を所領返却されたのでした。
石神井城内に鎮守として祀られている
氷川神社、城内に創建された
三宝寺のいずれもが
「応永年間の建立」と
伝えられていることから、
石神井城もこの返却直後(応永年間)に
築かれたとする説が有力であるとのことです。




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太田道灌との対立】
平安期以来、武蔵の名族として
名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、
新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、
長尾景春の乱において
太田道灌に攻められ没落しました。
文明9年(1477年)のこの戦いにおいて、
豊島氏は当主の泰経とその弟泰明
(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」
「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、
実際にそう呼ばれていたか否かは
不明であるとぼことです)は
それぞれ石神井城と練馬城に拠り
太田道灌と対峙しましたが、
同年4月13日、
練馬城を攻撃された後の
江古田原の戦い
(「鎌倉大草紙」では「江古田原・沼袋」)で
惨敗を喫し、泰明は戦死、
泰経は石神井城に敗走しています。

【落城】
その後、4月14日に太田道灌は
石神井城近くの愛宕山
(現:早稲田大学高等学院周辺)
に陣を張り石神井城と対峙し、
18日になって一旦和平交渉が結ばれました。
けれども、豊島氏側が条件であった
「城の破却」を実行しなかったことから、
21日に太田道灌は攻撃を再開、
外城が攻め落とされたため、
泰経はその夜城を捨て逃亡しました。
泰経は翌年1月に平塚城で再起を図りますが、
再び太田道灌が攻撃に向かったため、
またしても戦わずして足立方面に逃亡し、
以後は行方不明となったとされています
なお以前の通説では
丸子城(神奈川県川崎市)から更に
小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」
とされていましたが、
現在は多数の史家により
ほぼこれは否定されているとのことです。

三宝寺池と沼沢植物群落

【一部通説の変化】
近年、これまでの「通説」の一部が、
史料の再検討により
否定され始めているそうです。
以前の通説では、「太田道灌状」と
「鎌倉大草紙」の記述を
合わせて作られていたとのことですが、
「鎌倉大草紙」の豊島氏関連記事は、
後年「道灌状」を下敷きに、
作者本人の解釈や想像、
伝え聞きなどを付け加えて
書いたものであり、信用性に欠ける」として、
大半の史家より採用されなくなったためとのことです。

【太田道灌が最初に攻めた城について】
<以前の通説>
太田道灌が最初に攻めた豊島方の城は平塚城

<新説>
太田道灌が最初に攻めた豊島方の城は練馬城




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【豊島泰経の逃亡先について】
<以前の通説>
最後に泰経(勘解由左衛門尉)は
丸子城(現・神奈川県川崎市)から
さらに小机城(現・神奈川県横浜市)に逃亡
(「道灌状」には記述無し、
後世になって「道灌状」を下敷きに書かれた
「鎌倉大草紙」のみ記載あり)

<新説>
足立方面からさらに北に逃げ、以後は行方不明。
以前の通説では丸子城⇒小机城に逃亡となっていましたが、
現在はこれも大半の研究者によって
否定されているとのことです。

【石神井城の地理地形】
石神井城は石神井川と
三宝寺池(石神井公園)を
起点に延びる谷との間に
挟まれた舌状台地上に位置しています。
ただし、同時期の他城郭とは異なり、
台地の先端ではなく基部に占地し、
堀切を用いて東西の両端を遮断しています。

三宝寺池

【石神井城の城域】
現在城域一体は開発が進み
旧態は失われていますが、
土塁と空堀を廻らせた内郭が
僅かに残っており、発掘の結果、
折れを伴った堀・土塁によって
城内が複数の郭に
区画されていたことが判っています。
この城の最終形が完成したのは
太田道灌との緊張関係が高まった
15世紀半ばで、
同時期に江戸城への
「対の城」として大掛かりな
増・改築が行われた可能性が高いとのことです。

石神井城 遺構

【石神井城の構造】
<外郭>
城は西から東へ延びる
約1キロの舌状台地の西端から
中央部にかけて築かれており、
全体像は未だ不明であるとのことです。
中心部規模は南北約100~300m・
東西約350mで、面積は約3万坪ほど。
北は三宝寺池、南・東は石神井川という
「天然の水堀」によって守られていました。
中心部内郭が、台地の先端では無く
中央部付近に築かれたのは、
豊富な水量を持つ三宝寺池に接する位置の方が、
生活利便の上でも防御面においても
優れていたためであったとみられています。

石神井城 内郭跡付近の三宝寺池

なお、人工の防御は全て西向きに造られており、
これは北・南・東からの侵入が
物理的に不可能であったことを
示すものと考えられています。
台地の付け根部分は、幅約9m、
深さ約3.5m(土塁頂部との高低差推定7m)、
延長約300mにも及ぶ「大濠」によって
断ち切られており、その先は小規模な空堀と土塁が
内郭に至るまで連続する構造となっていました。
「新編武蔵風土記稿」によりますと、
「櫓ノアリシ跡ニヤ、所々築山残レリ」とありますが、
現在もその名残りとして、
大濠内側の地表に若干の高まりが
見られるとのことです。
かつての規模は頂部25×15m・径40m・高さ0.8m。
昭和32年の調査では、柱穴が検出されたほか、
陶磁器片2片が出土しています。
また、大濠の西、内郭の東にも
外城や城に付随する何らかの施設が
あったと考えられています。
東側には「大門」の小字があります。




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<内郭>
内郭部分等では、これまでにもたびたび
発掘調査が行われており、
近年においても1998年から
2003年にかけて6年連続で実施されています。

石神井城 中心内郭跡 説明

この時には、内郭の空堀が「箱堀」で、
深さ約6m・上幅約12m・
下幅約3mであることが判明し、
人為的に一部が埋められた跡も確認されています。
なおこれは太田道灌に対して
一旦降参した際の痕跡とする説が
有力とされています。
土塁の基底部幅は16.3m、
高さ約3mでした。
なお城が存在していた
当時の高さは推定約6mとのことです。
また、内郭の土塁内側からは
1間×1間の掘立柱建築物、
3間以上の総柱または庇付建物の可能性が
伺える柱穴が検出されました。
そのほかには直径約4m、
深さ約3mの巨大な地下式坑が検出され、
これは食料貯蔵庫の跡と推定されています。
地下式坑は昭和42年調査では
計3か所検出されています。

石神井城 中心内郭 図

内郭への出入りは、
土橋がない状態であっても
西側に「折(おり)」
(真横から矢を射掛けるための構造)
が存在することから、
木橋によって行われていたとみられています。
また、土塁中からは太田道灌との合戦時期に近い
15世紀頃の常滑焼片が出土しており、
内郭は戦闘に備えて急遽増築されたものとも
考えられています。
内郭からは遺物として、
12世紀以降の陶磁器、かわらけ、
瓦、小刀、砥石など、
また以前の調査では灯明皿、
石臼片、焼米、鉄釘、墨等が出土しています。
陶磁器は日常品が少なく、
白磁四耳壷・青白磁梅瓶・
褐釉四耳壷などの威信材が目立ちます。
これについては、
「戦闘前に貴重品を内郭に
運び込んでいたため」とする説があります。
全体的には生活痕が乏しく、
そのため近年では
「内郭は生活の場ではなく、
非常時の籠城用施設であった」
とする見方が有力となっています。
なお城主の平時の居館の位置については、
「三宝寺裏山付近」とする説が有力です。

石神井城 内郭 遺構

これは内郭部に隣接する場所で、
近年まで土塁・空堀がみられたこと
等からの推測となります。
なお、土塁南側には
切れ込みが観察されていますが、
これは虎口ではなく、
近世に入ってから造られた通路です。

現在、内郭は遺構保護のため
フェンスが設けられており、
無許可で立ち入ることは出来ません。

石神井城跡 フェンス

【考古資料】
石神井公園近くにある
石神井公園ふるさと文化館の二階において
出土品を見る事が出来るとのことです。
無料です。




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【遺構】
内郭の空堀及び土塁が
石神井公園内に残っています。
また、三宝寺池西南端付近に空堀の痕跡、
その南側住宅地内に
物見櫓跡の痕跡(円形の高まり)が認められています。

石神井城跡 内郭 遺構

【愛宕山城】
愛宕山城は、石神井川をはさんだ対岸の小高い丘
(現・早稲田大学高等学院・中学部)にあり、
石神井城のある丘から約700m
離れています。
平成4年に学校施設建て替えのために
発掘調査が行われ、
コの字形の堀が発見されました。
石神井川源流や南方台地を
監視するために
石神井城の支城として
築かれたと考えられており、
のちに石神井城を包囲した
太田道灌の陣城として再利用したと
推測されています。

【所在地】
〒177-0045 東京都練馬区石神井台1丁目26−1
都立石神井公園

【交通アクセス】
(公共交通機関)
◆西武池袋線「石神井公園」駅南口下車
徒歩15分程度。
◆西部新宿線「上井草」下車徒歩25~30分程度。
◆西武新宿線「上井草」より長久保行きバス
「三宝寺池」下車、
石神井公園行きバス「石神井公園」下車

◆西武池袋線「大泉学園」駅から
「西武バス」阿佐ヶ谷駅ゆき
 「三宝寺池」下車徒歩5分程度。

【駐車場】
●石神井公園第一駐車場
41台(普通車)
<所在地>
〒177-0041練馬区石神井町5-20

●石神井公園第二駐車場
29台(普通車)
<所在地>
〒177-0041練馬区石神井町5-17

<営業時間>
(入庫)
午前7時~午後8時
(出庫)
24時間出庫可

<料金・普通車>
1時間まで400円
以後30分毎に200円
入庫後12時間最大料金 
1600円

交通系電子マネー及び
ICクレジットでのご精算ができます。

※駐車場は石神井池側にあります。

【殿塚と姫塚】
「太田道潅の軍勢に追われた
豊島家当主の泰経は、
家宝の黄金の鞍を載せた白馬にまたがり
三宝寺池に身を沈め、娘、照姫も悲嘆のあまり、
その後を追い池に身を投じた」
という豊島一族の最後を語る伝説の一つが、
殿塚・姫塚として残っています。

<殿塚>
石神井公園 殿塚

<姫塚>
石神井公園 姫塚

<姫塚がある樹木・シラカシ>
姫塚がある樹木・シラカシ

公園所要時間:30分~

滝野川城~豊島氏一族の滝野川氏が築城するも太田道灌によって滅ぼされました。源頼朝の布陣地としても有名です。

清光寺~豊島清元(豊島清光)開基で居館が近くにあり豊島氏発祥の地に建つ寺院です。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

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