城跡

豊田城(常陸国)(常総市)~桓武平氏の豊田氏が築城、平安時代から戦国時代まで豊田郡を本拠としました。

島田城跡(常陸国・常総市)



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豊田城・常総市】

豊田城は垣武平氏一族である豊田氏の居城です。
戦国時代には城主・豊田政親は
小田城主・小田氏治と同盟して、
多賀谷氏に対抗しましたが、
天正6年(1578年)に
家臣の飯見大膳に豊田治親が
毒殺され豊田氏は滅亡しました。
その後は多賀谷氏の所領となりましたが、
慶長5年(1600年)の
「関ケ原の戦い」において、
多賀谷氏は徳川家康の再三の
出陣要請にも応じず、
それどころか会津征伐に向かう
徳川家康の小山本陣へ
夜襲をかけようとしたことが露見し、
翌年に改易されるとともに
廃城となりました。

豊田城跡(常陸国) 小貝川沿い

現在城址は小貝川の河川改修と
耕地整理によって消滅しており、
堤防上に「豊田城跡」の石碑が
建てられているのみとなります。

また、現在建てられている
5重7階の模擬天守は
「石下町地域交流センター」で
1992年に開業したもので、
城址とは無関係の位置にあります。

康平5年(1062年)、
前九年の役で源義家に従い
軍功を立てた赤須四郎平政幹が
恩賞として豊田郡を賜り、豊田氏を称しました。
豊田氏ははじめ向石毛の館に居を構えましたが、
正平元年(1346年)、
豊田善幹が豊田城を築き本拠としたということです。

小田氏治との同盟】
戦国期には時の豊田城主である
豊田政親は結城氏から独立して
独自の勢力拡大を目指す下妻城主である
多賀谷氏の侵攻を防ぐため、
多賀谷氏の南進は大きな脅威となりました。
そこで小田城主である小田氏治
縁戚になり同盟しています。
弘治~永禄年間頃には
多賀谷氏の侵攻が激しく、
永禄元念(1558年)には
豊田城主・豊田治親と
石毛城主・石毛政重の兄弟は
多賀谷軍を長峰原・蛇沼で迎撃し、
小田氏の援軍を得て撃退しました。

上杉謙信が小田城を攻めたときの
小田氏の与力衆を調べ上げた
「小田氏治味方覚書」なる古文書にも
豊田氏の名が見えるとのことです。




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【調略による毒殺】
天正6年(1578年(一説に天正3年)、
豊田治親は下妻城主である
多賀谷政経の家臣・白井全洞の調略により
家臣の飯見大膳に毒殺され豊田氏は滅亡しました。
豊田氏の遺臣は石毛城に立てこもって
抗戦しましたが、
逆心の身柄引渡しと
石毛城主・石毛政重の遺児太郎正家の
助命を条件に多賀谷に降伏したのでした。

豊田城も多賀谷氏のものとなりました。
慶長4年(1601年)、
多賀谷氏は改易となり、
豊田郡は関東郡代伊奈氏配下の天領となり、
豊田城も廃城となりました。

【豊田城の場所】
小貝川に架かる「長峰橋」の下流
1kmほどの堤防上とその下の二箇所、
城址碑が建っています。
訪れる際には、
本豊田集落を通り抜けて、
小貝川の堤防上「川の一里塚」を
目指すとわかりやすいと思います。
そばに城址碑と解説板があります。
またそこから200mほど西の
高圧線の鉄塔の袂にも、城址碑と、
「土地改良事業竣工記念の碑」があり、
豊田氏の苦悩の歴史が刻まれています。

【城の種別】
平城

【築城年】
正平元年(1346年) 

【築城者】
豊田善幹

【城主】
豊田氏、多賀谷氏

【所在地】
〒300-2711 茨城県常総市本豊田1303

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