城跡

広島城~日本100名城で三大平城~毛利氏、福島氏、浅野氏、そして明治~昭和の戦争・復興・平和を体感した城。

広島城 表御門




広島城

広島城(ひろしまじょう)は、
安芸国安芸郡広島
(現在の広島県広島市中区基町)に
築かれた安土桃山時代から
江戸時代の日本の城です。
国の史跡に指定されています。
毛利輝元が太田川河口の
デルタ地帯に築いた平城です。
昭和20年(1945年)まで
天守を始めとする城郭建築が
現存し点在していましたが、
太平洋戦争末期にアメリカ軍の
原子爆弾投下によって倒壊し、
現在見られる城内の天守以下城郭建築は
すべて1958年以降に再建されたものです。

【広島城の概要】
江戸時代初頭に入城した
福島正則の増築以降に、
城域となった外堀までの
約90万㎡の範囲のうち、
現在の史跡としての広島城は
広島市中央公園内の内堀を含む
本丸跡と二の丸跡の範囲で、
広さ約12万㎡ と
三の丸跡の一部が残っています。
大坂城や岡山城らと共に
初期近世城郭の代表的なものです。
また名古屋城
岡山城と共に
日本三大平城に数えられています。
日本100名城の一つにも選定されています。
<スタンプ設置場所>
天守閣1階ミュージアムショップ

史跡 広島城跡 案内図

【広島城の天守、櫓】
江戸時代では西日本有数の所領となった
広島藩42万6000石の
太守浅野家12代の居城となり、
江戸時代中期に書かれた
「広島藩御覚書帖」で
知るところでは、
5重と3重の大小天守群以下、
櫓88基が建てられていました。
1598年に毛利輝元によって
創建された大天守は、
1945年に倒壊するまで
現存天守の中では
岡山城天守に次ぐ古式を伝えるものでした。
外壁仕上げの下見板張りや
最上階に高欄を持つ外観仕様は
国宝保存法下の国宝指定(1931年)の
理由の一つとなりました。
近代は日清戦争時に、
本丸に大本営が置かれるなど
軍都広島の中心施設でした。
アメリカ軍による広島市への
原子爆弾投下の際には
破壊目標地点となり、
現存していた天守や櫓、城門が倒壊しました。
近年の研究では天守は原爆による
爆風で吹き飛ばされたのではなく
建物の自重により
自壊したことが判明しています。
現在の天守は鉄筋コンクリート構造による
外観復元天守です。

外観復元された大天守は
歴史博物館「広島城」として利用されています。

広島城 天守

本丸跡、二の丸跡以外は
都市開発により城跡の面影はなく、
城址公園域以外で確認できる遺構は、
広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡と、
空鞘橋東詰南側の櫓台石垣程度です。

【別称】
別称は「鯉城(りじょう)」。
広島城があった一帯は
昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、
広島市西区己斐の地名は
延喜式で嘉字地名とされる前は
「鯉」であったと言われていることから、
この名がついたとのことです。
一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、
天守が黒いからとも云われています。
その他、「在間城(ざいまじょう)」
「当麻城(たいまじょう)」の別称があります。

【鯉の金箔瓦】
2003年、
中区八丁堀の国土交通省
中国地方整備局太田川
河川事務所での発掘作業で、
「鯉の金箔瓦」が1点出土しています。
金箔が施されていることから
毛利氏時代のものと推定されていますが、
天守と関係あるものかは現時点では不明です。

【「鯉城」「カープ」】
鯉城通り、鯉城会館、
鯉城高校
(現広島県立広島国泰寺高等学校)、
鯉城グループなど、
市内中心部にある施設に
鯉城を冠した名前のものが多いです。
また鯉城から「広島東洋カープ」
(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられました。
ちなみにカープが毎年シーズン前に
必勝祈願へ訪れる広島護国神社は
この城址公園内にあります。





【広島城の歴史】

【安芸武田氏】
この地は太田川下流域にあたり、
上流から堆積した土砂が三角州を形成し、
中世には小島や砂州に
小規模な集落が点在していたとのことです。
承久の乱以降、その戦功により
安芸国守護に命じられた
武田氏によりこの地は
治められていました。

毛利元就の時代】
やがて戦国時代になると毛利元就が
武田氏を滅ぼします。
更に厳島の戦いで陶氏(大内氏)に
勝利したことにより、
以降この地は毛利氏によって
支配されることになったのでした。

厳島神社

それまでの毛利氏の居城である
吉田郡山城は、
尼子氏の大軍を撃退した
経験を持つ堅固な山城であり、
また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、
領土の争奪戦を伴う
戦国時代の毛利氏には適していたのでした。

【毛利輝元の時代】
けれども、毛利元就の孫である
毛利輝元の時代、天正末期になり
天下が安定する頃になると、
それまでの防護を主目的とした城造りから、
城を権力の中心として
シンボル化しその周りを城下町として
整備し領国の政務・商業の中心地として
発展させる「近世城郭」建築の時代になります。
中国地方9か国112万石
(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)
の太守であった毛利氏にとって、
山間部の山城である吉田郡山城は、
政務および商業ともに
手狭なものとなり始めました。
そこで、海上交易路である
瀬戸内の水運が生かせて、
城下町の形成が可能な平野がある
海沿いに拠点を移すことを考え始めたのでした。

広島県の海(鞆の浦)

【広島城の築城を決意】
天正16年(1588年)、
毛利輝元は豊臣秀吉の招きに応じて
小早川隆景吉川広家らと上洛し、
大坂城や聚楽第を訪れ
近世城郭の重要性を痛感し、
新しい城を造ることを決意したと
伝えられています。
一説によりますと、
永禄年間(1558⇒1569年)の
毛利輝元の祖父である毛利元就のころから
現在の広島の平野部(一説には比治山)
への築城構想はあったということです。

【広島城の築城】
天正17年(1589年)2月、
毛利輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、
明星院山(現東区二葉山)・
新山(現東区牛田)・
己斐松山(現西区己斐)の3ヶ所に登り
太田川下流域を検地した結果、
「最も広い島地」である
五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)
に築城することに決めたということです。

【縄張りの思案には黒田官兵衛
天正17年(1589年)4月15日鍬入れ式。
穂井田(穂田)元清と二宮就辰を普請奉行として、
築城が開始されました。
城の構造は大坂城を参考として、
縄張は聚楽第に範を取っているといわれ、
縄張の思案には
豊臣秀吉の側近で築城の名手である
黒田如水(黒田官兵衛)が
参加していたとのことです。
黒田如水が築城に絡んだ理由としては
以下の諸説が現在語られているとのことです。

【築城技術の補佐説】
この築城は同時期に進行しつつあった
豊臣秀吉の朝鮮出兵に於ける
前線基地となった名護屋城と、
豊臣秀吉の拠点である
大阪城や聚楽第を海路で繋ぐ
中継基地(豊臣秀吉の宿泊所)としての
期待をされた ため、
豊臣秀吉が築城技術のサポートとして
側近の黒田如水を派遣したという説。

【毛利を弱体させるためのアドバイザー説】
全く平らな低湿地帯へ
築城することに決まった際、
家臣団の中で比治山山頂に
築城する案と揺れたとのことです。
そこで毛利輝元の叔父である
小早川隆景の友人である
黒田如水にアドバイザーとして
参加を依頼。
黒田如水は堅城となりうるとして
低地案を推進し縄張を考案したとのことです。
後日、豊臣秀吉がこの城を見物し
「要害が悪い。水攻めをされたらひとたまりもない。」
と評価したとか。
毛利輝元は黒田如水に騙されたと憤慨しましたが、
小早川隆景は
「要害の悪い城だからこそ安全。
毛利の城の要害が良かったら、
謀反の恐れあり、と警戒される。」
と諌めたとのことです。
そこから豊臣秀吉は毛利氏を弱体化させるために
浅瀬に築城したため島普請に
相当な出費をしたことからも、
黒田如水を派遣した、という説。





【広島城の完成と「広島」の地名】
「島普請」と言われる、
川の中州の埋め立てと
堀の浚渫が初段の大工事で、
困難が予想されましたが
毛利輝元自身が意欲的に奨励したとのことです。
天正18年(1590年)末、
堀と城塁が竣工したことから、
天正19年(1591年)1月8日に
毛利輝元は入城したとのことです。
文禄元年(1592年)4月、
文禄の役を指揮するため
名護屋城へ向かう途中の豊臣秀吉が
ここへ立ち寄って城内を見物しています。
文禄2年(1593年)に石垣が完成しました。
そして慶長4年(1599年)に
全工事が完了し落成しました。
なお「広島」という名は
この頃に付けられたと
云われています。

【福島正則の改築】
完成当初は、堀は三重に巡らされ
馬出を多数備える実戦的な城構えで、
当時の大坂城に匹敵する規模の城であったと
云われています。
しかしながら関ヶ原の戦いで減封されて
広島を去った毛利輝元に代わって、
慶長5年(1600年)に城主となった
福島正則による改築が行われました。
よって築城当時の広島城が
どのような姿であったかについての
詳細が不明となってしまっています。

【広島藩政時代】
【福島正則が転封されるまで】
福島氏時代、
穴太衆を雇入れ、
毛利氏時代に不十分だった
城の整備および城下町づくりが
本格的に行われました。
外郭が整備され、
内堀・中堀・外堀のある
約1km四方の広大な城となったのは
この頃であるとのことです。
二葉の里付近から城の北側を通っていた
西国街道を城下の南側を通るように
付け替える とともに
雲石街道を整備したといわれ、
町人町が拡大しました。
けれどもこの大規模な城整備と
城下町作りは徳川家康を怒らせることとなり、
慶長14年(1609年)に
福島正則は謹慎を言い渡されています。
さらに、元和5年(1619年)、
福島正則は洪水による被害の修復を
幕府から武家諸法度を破った
無届け改築と、とがめられて、
改易され信濃国川中島へ転封されたのでした。

【浅野氏の時代】
元和5年(1619年)8月8日、
浅野長晟入城以降は浅野氏の居城となり、
明治時代に至るまで
12代約250年間続きました。

【浅野氏時代にも改修があった】
武家諸法度の縛りがあるため
容易に改修できないことから、
広島城の改修は福島氏の段階で
完了していたと考えられていました。
しかしながら近年の調査で
一部の櫓台石垣は浅野氏時代に
構築されたと判明しています。
浅野氏時代には
城普請はほぼ行われませんでしたが、
大規模な干拓事業は引き続き行われ、
約250年間で当初の域より
5~6倍規模にまで広がったとのことです。
また洪水にたびたび悩まされており、
洪水被害やそれを修復した記録が
多数残っています。
地震の被害にもあっており、
寛永元年(1624年)の
安芸国を震源地とした地震では
石垣や多門・櫓・塀などが
崩壊したことを最初として、
それから数度に渡る
地震災害の記録が残っています。

広島城 太鼓櫓

【幕末】
元治元年(1864年)、
第一次長州征討の際、
徳川慶勝を総督とする
幕府軍の本営となりました。
この際、徳川慶勝によって撮影された
幕末の広島城の写真が現在、
徳川林政史研究所に残っています。
戊辰戦争になると
広島藩は官軍として戦ったため、
城に被害はありませんでした。
築城から江戸時代の間、
この城は戦の舞台にはならなかったのでした。





【明治時代】
【陸軍の施設として】
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県。
広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置されました。
同年12月、本丸に
鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)第一分営が
置かれると県庁舎は三の丸に移転しました。
明治6年(1873年)1月、
広島鎮台が正式に発足しました。
それ以降広島城には
大日本帝国陸軍の施設が
建てられるようになっていきます。
明治6年(1873年)3月、
三の丸に兵営が置かれると、
県庁舎は国泰寺へ移りました。
一方で解体や火事により
江戸時代の建物は失われており、
明治7年(1874年)、
本丸および二の丸で
起こった火災では、本丸御殿が全焼しました。
やがて広島市は軍都として
近代都市へと発展していきました。

【堀の埋め立て】
日清戦争および日露戦争以降、
広島市は爆発的に人口増加していき、
その中で広島城の堀の悪臭が
目立つようになりました。
そこで明治40年代になると
市により外堀や城下町時代の運河として
使われていた西塔川や平田屋川の
埋め立てが始まりました。
埋め立てられた土地には、
道路(相生通りや鯉城通り)や
広島電気軌道
(広島電鉄本線・
広島電鉄宇品線・
広島電鉄白島線)が整備されると、
旧外堀の一部は繁華街となっていきました。

【天守が国宝に指定】
その中で広島城の歴史的価値を見出され、
大正15年(1926年)10月、
大本営跡が史跡指定となりました。
昭和3年(1928年)、
天守の一般開放が開始。
昭和6年(1931年)1月、
天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に
指定されました。

【太平洋戦争末期まで残っていた建物】
太平洋戦争末期まで、
天守、東走櫓、裏御門の一部、
中御門、表御門、二の丸の平櫓、
多聞櫓、太鼓櫓など、
江戸時代からの建物が残っていました。
ただこれらの施設には
軍の重要書類が多数積み込まれていました。
市内には高いビルが建設されていましたが、
まだこの当時は天守を市内の
どこからでも見ることができたとのことです。
また軍施設ということから
一般人の立ち入りは許可されては
いませんでした。

【原爆の投下】
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、
アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下。
軍事施設が集中していたことから、
破壊目標とされてしまいました。
広島城本丸は
爆心地からほぼ1キロメートル
離れたところに位置していました。
建物が爆風により一瞬にして倒壊、
火災により焼失しています。
なお天守は爆風や火災によるものではなく、
爆発時の熱線には耐えましたが、
その直後の爆風による衝撃波と
圧力により下部2層が
上部の重さに耐えきれず倒壊、
間もなく上部3層も崩落し、
大量の建材が天守台や
北東の堀に散乱した、
という事が近年の研究で判明しています。

【戦後】
昭和23年(1948年)、
市営の住居が建ち、
翌年には川沿いにバラックが建ち始め、
後に原爆スラムが形成されていきます。
官公庁の庁舎も建ち始め、
周囲は再開発されていきました。

けれども、本丸および二の丸は
用途の決まらないまま放置され、
草むらと成り果ててしまいました。
そうした中、
内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるもの、
平和運動の一環として、
本丸に自由の女神のレプリカを建てる運動、
も起こったとのことです。
被爆により荒廃した広島で
新たな観光の目玉として
天守再建を望む声が上がりましたが、
文化財関係者は被爆により
廃墟になった現状こそ価値があると
再建反対に回ったとのことです。
なお被爆数年後の本丸の映像は
1952年公開の新藤兼人監督
「原爆の子」で見ることが
出来るとのことです。

昭和26年(1951年)、
広島国体にあわせて
木造仮設天守が作られました。
国体終了後には解体されましたが、
後の天守再建の機運へとつながり、
昭和33年(1958年)3月26日に竣工しました。
同年6月1日、
広島城郷土館(現在の博物館)が開館しました。





【日本100名城】
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(73番)に選定されました。

【広島城の構造】

藩政時代の広島城は、
福島正則が輪郭式平城として
整備したものであり、
内堀・中堀・外堀のある約1km四方の、
広さ約90万平方メートルの規模がありました。

【二の丸・堀】
二の丸は「馬出」と呼ばれる曲輪で、
広島城の特徴の一つであります。
毛利氏による築城当初は
存在せず後の改修により造られたもので、
慶長3年(1598年)から
慶長5年(1600年)の間に
造られたと考えられています。
外堀は、南端が今の相生通り、
北端はほぼ城北通り、
東端が白島通りの
1本西側の道路の更に内側の敷地にあたり、
北側の一部が白島通りに一致し、
本川を西側の外堀と位置づけていました。
また福島正則は、
ここより西の大名
(主に周防長門へ転封した毛利氏)
からの攻撃を想定し、特に西側を増強していました。

広島城 現代の二の丸入り口

【地名・大手門】
広島市には城が由来の地名が残っています。
「八丁堀」「薬研堀」などの地名は
堀があった名残です。
八丁堀の「京口門」バス停留所は、
城から東方向(京都)へ向かう
門があった場所にあります。
本通りは毛利氏による
城下町整備の際にできた
通りです。
大手町通り北端、
現在の紙屋町西交差点あたりに
大手門がありました。

【二葉山】
鬼門にあたる二葉山には
藩主の加護により多くの
神社仏閣が建てられました。、
明星院(毛利輝元の生母妙寿院の位牌所)、
広島東照宮や饒津神社、
尾長天満宮・國前寺(以上浅野氏関連)、
などが置かれていました。

【四神相応は曖昧】
地形的制約から縄張が決まったと
推定されていることから
四神相応は曖昧で、
裏鬼門を己斐松山(旭山神社)や
厳島厳島神社)など
諸説唱えている専門家がいます。
なお天守正面から見て
似島の安芸小富士が
やや左手に見えています。

【島普請】
島普請とは、
現在で言う地盤改良と
堀の浚渫、築堤工事のことを指します。

この地は太田川下流域三角州の低地にあり、
低湿地帯の砂地上に城を築くために
「千本杭」と呼ばれる木杭を
砂地盤に打ち込んだ上に
基礎を築いた工法が採用されたと
伝えられてきました。
けれども年の発掘では
その証拠が見つかっておらず、
実際に行われたのか
否定的な意見を唱える専門家もいます。
ちなみにこの千本杭は
厳島神社大鳥居の基礎に
用いられています。
北側の外堀がその他の外堀と違って
蛇行しているのは川をせき止めて
整備されたからです。
毛利輝元による築城当時は
その川は「城北川」と呼ばれており、
城の北側にあたる現在の白島地区は
築城以前は「箱島」と呼ばれる
島(中州)であったそうです。
毛利氏の次に入城した福島正則は、
城北川が洪水で氾濫した場合、
城下に深刻な被害を与えると判断し、
治水対策も含めて川を外堀として再整備し、
東側は完全にせき止めて、
西側は堀の取水口として
樋門を設けたとされています。
ちなみに福島氏の次の広島藩主である
浅野長晟は入城翌年となる
元和6年(1620年)、
城北川東側のせき止めた地点、
旧城北川と京橋川の合流点付近に
「縮景園」を造園しています。





【初代の天守】
文禄元年(1592年)4月、
文禄の役に参加した
常陸佐竹氏家臣の平塚滝俊は、
佐竹軍が名護屋城に向かう際に
通過した広島にて
広島城の天守や石垣を見て
「見事なること申すに及ばず候」
と書簡に残していることから、
天守はこの年以前に
建てられたものと考えられています。

【天守の形式】
天守の形式は
連結式と呼ばれるものの内、
特に複合連結式と呼称される
「五重の大天守から渡櫓で
南と東に2つの三重小天守を連結する」
構造であったそうです。
望楼型で黒漆塗りの下見板が
張られた壁面は豊臣秀吉の
大坂城天守を模したともいわれ、
屋根には金箔押の軒瓦や
鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていたとのことです。
その一方で、内部は天井も張られずに
丸太の梁が剥き出しでした。
藩政時代において天守は
ほぼ物置として使われており、
築城から江戸時代の間、
この城自体は戦場にはなってはおらず、
近代になって太平洋戦争中は
旧陸軍の重要書類が
多数積み込まれていたことから、
終始倉庫として利用されていた
ことになるとのことです。
明治6年(1873年)以降、
小天守は撤去され、
天守群は大天守と
付属する一部の渡り櫓が残りました。
現在の大天守入口前広場が
南の小天守と渡櫓の跡にあたり、
東の小天守台には基礎が残っています。
昭和6年(1931年)、
他の現存する建造物とともに
国宝保存法の国宝(旧国宝)に
指定されていましたが、
昭和20年(1945年)
のアメリカ軍による原子爆弾投下
によって倒壊しました。

広島城 天守閣の礎石

【2代目(仮設)天守】
昭和26年(1951年)、
広島国体開催に合わせて
仮設の木造模擬天守が建てられました。
国体終了と共に取り壊されました。

【3代目(現在)の天守】
現在の大天守は昭和33年(1958年)に
「広島復興大博覧会」が開催された際、
外観復元されたものです。
再建するにあたり、
以下の方針がとられたとのことです。
◆初代天守を忠実に再現。
◆最上階で市内を展望可能にする。
◆博物館として利用。

【櫓】
藩政時代における広島城の特徴として、
広さ約90万平方メートルの
広大な城域を取り囲むように
88基の櫓が置かれたことが
挙げられます。
「広島藩御覚書帖」によりますと
各曲輪の櫓基数は、
本丸23基、
二の丸5基、
三の丸17基、
外郭43基
となっていました。
特に西側を増強し、
本川(旧太田川)に沿って
11基もの櫓が二重に建てられ
その間を塀で結ばれていたとのことです。

【大地震の記録】
寛永元年(1624年)の地震、
嘉永7年(1854年)の
安政南海地震の際に、
櫓が崩れた記録が残っています。

【櫓の位置】
明治以降になり
これらは取り壊されたことと、
被爆により、
江戸時代以前から現存する櫓は
存在していません。
ほとんどの櫓の位置は
現在は不明ですが、
近年の発掘調査により
いくつかは判明しているとのことです。





【再建された櫓】
二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門は、
再建された櫓です。
これらはつながっており、
全部の櫓内部を見学できます。

二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門

【外郭櫓台跡】
城址公園以外で
櫓の位置がわかるものとしては、
本川左岸側の空鞘橋東詰南側にある
「外郭櫓台跡」の捨石遺構があります。
1979年に刻印が入った石垣が
発見されています。

【博物館】

天守は博物館「広島城」として開館しています。
内部は、5層のうち1階から3階は常設展示、
4階は企画展示、5階(最上階)は
展望室となっています。

常設展示は、広島城の成立と役割、
城下町広島のくらしと文化をテーマとしており、
甲冑・刀剣等も展示されています。
また、歴史と広島城に関する
企画展示も実施されているとのことです。
※天守閣内はトイレがありません。

なお、ミュージアムショップは1階です。
日本100名城のスタンプ設置場所も
こちらになります。

【入場料】
<一般>
370円(280円)
<小・中・高校生>
180円(100円)
()内は30人以上の団体料金、幼児は無料

【3月~11月】
午前9時~午後6時(最終入館は午後5時30分)

【12月~2月】
午前9時~午後5時(最終入館は午後4時30分)

【二の丸】
【3月~11月】
午前9時~午後6時(最終入館は午後5時30分)

【12月~2月】
午前9時~午後5時(最終入館は午後4時30分)

<二の丸の注意事項>
二の丸復元建物は、
表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓で構成されております。
内部は土足での入場ができません。
靴を脱いでの入場となります。
また、トイレがありません。
観光バス駐車場北側のトイレをご利用ください。

【所在地】
〒730-0011 広島県広島市中区基町21−1

【交通アクセス】
<車>
山陽自動車道 「広島」ICから約20分程度。
なお、城址公園内には駐車場はありません。

<路線バス>
JR「広島」駅南口前バスのりば
Bホーム7・8・9番のりばより
合同庁舎前経由のバスで約7分
「合同庁舎前」バス停で下車、
北西へ徒歩約8分程度。

<広島電鉄>
「紙屋町東停留場」または
「紙屋町西停留場」下車、
徒歩約15分程度(鯉城通りを北へ)。

<アストラムライン>
「県庁前」駅下車、徒歩約12分(鯉城通りを北へ)
「城北」駅下車、徒歩約12分(祇園新道を南へ)
「新白島」駅下車、
裏御門経由で徒歩約17分程度。

<JR>
◆「広島」駅下車、徒歩約25分程度。
(南口から北へ、栄橋から城南通りを西へ)
◆「新白島」駅下車、
裏御門経由で徒歩約17分程度。
◆「横川」駅下車、
徒歩約25分
(南口から城北通りを東へ、
三篠橋を渡り祇園新道を南へ)

所要時間:30分~1時間程度
(博物館含まず)

福山城~日本100名城、2022年に築城400周年を迎えます。撮影スポットは駅の新幹線ホームがおススメです。

三原城 (続日本100名城)・小早川隆景が築城した三原の街歩きをしたくなるほど大規模な海城。

新高山城 (続日本100名城)~小早川隆景築城の断崖絶壁のお城!

安芸草津城~古代から水運の重要拠点であり、児玉氏が城代となって毛利水軍の基地となった城です。

海蔵寺・安芸の古刹~山中鹿介次女の盛江,北条氏直,東城浅野家,江戸幕府と長州藩の談判の場所にもなりました。

鞆の浦~万葉集にも登場する古代からの潮待ちの港です。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

浄土寺~尾道にある聖徳太子開創で足利尊氏ゆかりのある寺。

千光寺及び千光寺公園(尾道)~玉の岩をはじめ様々な奇岩が横たわる不思議な空間

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