城跡

三原城 (続日本100名城)・小早川隆景が築城した三原の街歩きをしたくなるほど大規模な海城。

三原城跡(広島県) 国史跡



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三原城

三原城(みはらじょう)は、
備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)
にあった日本の城で国の史跡となっています。
2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城(172番)に選定されました。

【別名】
浮城、玉壺城

【城郭構造】
梯郭式平城

【天守構造】
建造されず

【築城主】
小早川隆景

【築城年】
永禄10年(1567年)

【主な改修者】
福島氏

【主な城主】
小早川氏、福島氏、浅野氏

【廃城年】
不明

【遺構】
石垣、堀

【指定文化財】
国の史跡

【城の構造と浮城の名の由来】
最盛期の構造は、
天主台を北(陸側)に頂いた本丸、
その東・西・南側に二の丸、
そしてそれらの東側に三の丸と東築出、
西側に西築出を設けた梯郭式の城であったそうです。
さらには海に向かって船入りを開いており、
郭を隔てる縦横の堀の重なりも加わると、
満潮時にはあたかも海に浮かんだように
見えるところから浮城とも呼ばれています。

三原城 浮城

【三原城の歴史】
【小早川水軍の拠点として】
永禄10年(1567年)頃、
小早川隆景によって整備が始められたとされています。
小早川隆景は天文19年(1550年)に
竹原・沼田・両小早川家を掌握し、
翌年には高山城に入城しています。
その後、天文21年(1552年)、
沼田川対岸に新高山城を創築し本城としていました。
弘治元年(1555年)には、
厳島の戦いに水軍を率いて
毛利勢の勝利に貢献し、
急速に小早川家及び毛利家の伸長を図っています。
後に小早川隆景は、
現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ
小島や中州をつないで、
いわゆる砦を築き水軍の拠点としたのでした。
これが三原城の原型を
成したものと考えられています。
この砦は三原要害とも呼ばれていたとのことです。
当時、新高山城下まで
瀬戸内海は深く湾入していましたが、
勢力を強める小早川水軍(水運)の差配には、
より効率的な運用が期待できる
この地に「三原城」を整備したと考えられています。

<小早川隆景公の像>
小早川隆景公の像

【三原要害から三原城へ】
天正8年(1580年)から10年にかけて、
三原要害は小早川隆景により
さらに整備が進められていきます。
そしていよいよ海城としての偉容を現しました。
これによって小早川隆景は、
新高山城から三原城へと本拠を移しました。
三原城は、瀬戸内海を
軍事的に掌握する為に建てられた城です。
三原城の縄張りは梯郭式で、
天主台を北(陸側)に頂いた本丸、
その東・西・南の三方に二の丸、
そしてそれらの東側に三の丸と東築出、
西側に西築出を設けた台形状の城郭でした。

三原城・石垣

【城郭と軍港の両方の機能】
三原城の後背には、
新高山城下などから数々の寺院を移築。
さらに背後の「桜山」に、
詰めの城として機能を担わせた
可能性もあると見られています。
なお桜山には、山名氏により
桜山城が築かれていたとのことであり、
小早川隆景はこれを甲の丸として
整備したとのことです。
また本丸東南には
突出部を持つ船入櫓を備えるなど、
城郭と軍港の機能を
兼ね備えていたと考えられています。

背後の桜山城(三原市)

【家督を養子の小早川秀秋に譲る】
天正15年(1587年)、
小早川隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、
名島城(福岡県福岡市)に居城を移しました。
文禄4年(1595年)、
養子の小早川秀秋に家督・筑前国を譲り、
三原城に戻り隠居しました。
この時期(文禄4年 – 翌年の慶長元年)、
小早川隆景は、再度三原城の修築に取りかかっています。
新高山城の石垣の石を昼夜兼行で運ばせるなど
していることから、
桜山から軍港までを一体化した
要塞が完成したのではないかと考えられています。
天主台の石垣の手法は
この時期のものとされています。
三原に到る東西の往来は、
山と海で挟み込まれた隘路を進まざるを得ず、
さらに何重にも行く手を遮る川と
掘割が待ち受けるという城郭構成となっています。
また安芸・備後国境は、
現在の三原市新倉町あたりであり、
従来の本領を安堵する目的の
新高山城から遠く離れています。
その離れてた地に
小早川隆景の隠居所にしては強固すぎる
三原城に心血を注いだということから、
毛利一門の東の拠点の
構築の意図があったのではないかと考えられています。

三原城(小早川氏城跡)

小早川隆景は、慶長2年(1597年)に三原城にて病死しました。




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【三原のお祭り「やっさ祭り」】
三原を代表する祭り「やっさ祭り」で
披露されるやっさ踊りは、
「この築城完成を祝って老若男女を問わず、
三味線、太鼓、笛などを打ちならし、
祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら
踊り出たのがはじまりと言われ」と、
やっさ祭り実行委員会のサイトに記されているとの事です。

福島正則が入封する】
小早川隆景の死後、
関ヶ原の戦いの後には
福島正則が安芸・備後に入封しました。
福島正則は広島城に、
そして三原城には養子正之を入れました。
この時福島正則は、
広島城の西側に12基の二重櫓を新設しています。
三原城の海に面した10基の二重櫓も、
その共通性から福島正則による
改築の可能性が推測されています。

【三原城の城の範囲の類推】
正保絵図から類推される城域は、
東は阿久原川(和久原川:湧原川)から
西は現西町まで約1キロメートル、
南北には桜山の麓から
馬ノ口まで約600メートルに及んでいました。
この城域に隅櫓32、城門14があったとされています。
また桜山と本丸に挟まれた部分の平地に、
東西を連絡する往来(中世から近世山陽道)
の径路があったと見なされていますが、
この平地の幅は100メートル程度でした。
和久原川を東端の備えとして、
桜山の麓から芦堀、南東に位置する
東築出を囲む東築出堀、
その南が外堀、そして馬ノ口で
南東の防備としています。
馬ノ口は、満潮時にあえて
海面との差をなくす工夫がされており、
東舟入から本丸の郭を守る消波堤の役目と、
敵船に対する海中防御を目的としていたようです。

<三原城 絵図>
三原城 絵図

東築出の内側には中堀を挟んで三の丸がありました。
そのさらに内堀の先が本丸と二の丸の郭でした。
三の丸は鍛冶曲輪の東に
三角形状の形をしており、
東築出の北側に東大手門がありました。
本丸などの北側には、
通り丁堀があり、本土側と隔てられていました。
東大手門から堀端にかけては、
通り丁(山陽道)が東西に通じ、
天主台の西北対岸で南に折れ、
芦堀に対応するかのような桜山からの蓮堀などに
遠ざけられるように西に折れて、
西築出北側の西大手門に至っています。
その先西方は町家が並び、
現西町地区の西野川左岸が海岸線でした。
城下を抜け、廣嶋海道を西方に進むと
現在の西野川の上流部である西野村川があり、
これを西方の護りとしていました。

本丸北側の先端部に一段高く天主台が設けられ、
江戸城天守台と同規模の面積ですが、
実際には天守が建築されたことはありませんでした。
天主台は東北西三方を石垣で囲まれていましたが、
南側は土塁となっていたとのことです。
絵図等では、天主台には3基の二重櫓が建てられ、
それぞれ多聞櫓で連結されていました。
一説では三層の天守を置いたともされており、
これは元和元年(1615年)の一国一城令の後に、
鞆城天守を三原城に移築したことを
指しているものと考えられています。

【浅野忠長が入る】
元和5年(1619年)、
福島正則が改易となった後、
紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で
筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入りました。
そして広島藩の支城として
幕末まで利用されました。
この間、寛文3年(1663年)には
本丸御殿を建て替えています。
宝永4年(1707年)には、
宝永地震の影響による石垣修理などがされています。
この破損個所は相当大規模なものであったようです。
(広島まで被害が及んでいたのですね・・・)

【街道整備で宿場としても機能】
江戸時代には、脇街道としての
山陽道(近世山陽道:西国街道)が
三原城下を通る形で整備されました。
三原には本陣が東の城外に置かれ、
宿場としての機能をありました。




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【明治維新で城の解体始まる】
明治維新後、
城地は帝国海軍の鎮守府(西海鎮守府)建設のために
政府が確保し、実際に仮設が行われていました。
けれども沼田川の堆積作用が危ぶまれたため、
この計画は解除となりました。
以後建物・樹木などは競売に付され、
建築物は市内の糸碕神社や
順勝寺の門に移築されたり、
用材として処分されたのでした。
明治27年(1894年)、
山陽鉄道三原駅建設の際に、
城地は駅用地に使用され、
石垣も糸崎港建設の用材として
大部分が撤去されてしまいました。

【遺構】
その後、東築出から馬ノ口の海側には、
国道2号が建設されることになり、
これによって海からも遠く離れることになりました。
現在確認できる遺構は、
天主台とそれを取り巻く3方の堀、
駅の南側の五番櫓と船入櫓の石垣
本丸中門跡・臨海一番櫓跡の石垣・堀を残すのみとなりました。

<遺構・堀>
三原城 遺構・堀
※高架下は駐車場になっています。

<遺構・天守台石垣>
三原城 遺構・天守台石垣

<天守台石垣の説明>
三原城 天守台石垣の説明

【山陽新幹線開業と公園化】
昭和50年(1975年)の
山陽新幹線開業に伴い、
三原駅が高架化となりました。
その高架が本丸および
天主台跡を貫いていることもあり、
城地は寸断されてしまい現在の姿に至ります。
2004年度より天主台跡を囲む
堀の周囲の景観を保存し、
公園化する工事が進められています。

三原城跡歴史公園

【月渓院と春日局
<月渓院の墓所>
城下、恵下谷の大善寺には、
広島藩筆頭家老職で浅野家門の
三原浅野家3代浅野忠真の側室で
三原浅野家4代浅野忠義の生母であり且つ
徳川幕府3代将軍徳川家光の落胤とされる
月渓院の墓所があります。
寺には5000石の御化粧料を下賜され、
将軍家菩提寺である
増上寺の寺号を賜り、増上山大善寺とされ、
三つ葉葵の使用が許されています。
現在でも境内の随所に
葵の紋章が施されています。

<姫様、ひとめぼれを貫く>
なぜ徳川家縁の姫が外様である広島藩、
さらにその家老職で既婚者であった
浅野忠真へ側室としての輿入れが
認められたその理由としては、
月渓院が江戸城内において
浅野忠真に一目惚れをし、
何度もなだめた末、
どうしても曲げなかったので
下賜という扱いで浅野忠真に輿入れしたということです。
(・・・一途な想いだったのですね・・・。)

<春日局も絡んでいます?>
また徳川家光の乳母であった春日局が、
当時、小早川秀秋の補佐役であった
夫である稲葉正成と共に
三原城で過ごしていたため、
この輿入れに深く関与したと考えられています。
また、江戸幕府の「一藩一城」の方針に反して、
大名でもない広島藩の一家老の
居城の存続が認められていたのは、
春日局および月渓院に
縁があったことが
大きな要因であったとされています。




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【過ぎたるもの3つ】
「三原には過ぎたるものが3つある」
という言葉があるそうです。
それは他藩から羨ましがられたものであったそうです。

<第一>
第一に3万石の居城に相応しくない
大規模の三原城。

三原城(小早川氏城跡)の碑

<第二>
第二に月渓院に関係する徳川将軍家の「葵」の紋。

<第三>
第三に日光東照宮にて命じられた天下普請を
10日間で成し遂げた
鈴木方衛(すずき なみえ)
という家臣の存在。

とのことであると伝えられています。

【三原城の見学方法】
三原城の天主台跡へは
JR三原駅コンコース内からのみ入ることができます。
通路は朝6時から夜10時まで開いています。
入場券は不要で、勿論無料です。
舟入櫓跡は市の港町公園となっているので
常時見学可能とのことです。

JR三原駅コンコース内

⇓⇓⇓
階段を上がります。
三原城天守台跡 プレート

【所在地】
三原城跡歴史公園
〒723-0004 広島県三原市館町1丁目1

【交通アクセス】 
新幹線・山陽本線・呉線三原駅下車すぐ

【スタンプ設置場所】
<1>
三原観光協会
(三原市城町一丁目1番1号 ) 
時間:午前9時~午後6時
休業日:12月29日~1月3日
★臨時休館
【2021年5月18日(火曜日)~6月20日(日曜日)】

<2>
三原市歴史民俗資料館
(三原市円一町二丁目3番2号)
時間:午前9時30分~午後5時   
休館日:月曜日
(月曜日が祝日の場合は翌日休館)・12月28日~1月4日
★臨時休館
【2021年5月18日(火曜日)~6月20日(日曜日)】
※みはら歴史館は閉館したため、
三原市歴史民俗資料館へスタンプを移設しました。

◆三原城と新高山城が
広島県の「続日本100名城」に選定されました。
両城とも史跡小早川氏城跡として、国史跡に指定されています。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

新高山城 (続日本100名城)~小早川隆景築城の断崖絶壁のお城!

高山城~小早川(本家)氏の居城で隠れた人気のある山城です。

備後桜山城(三原市)~三原城の詰城~山頂から三原市街や瀬戸内海が一望できるそうです。

三太刀(みたち)城跡~小早川氏の祖である土肥遠平の御館か?~相模から安芸国沼田荘へ。

賀儀(かぎ)城~小早川隆景の水軍の将である浦宗勝の城で交通上の要地でした。

村上武吉夫妻の墓(宝篋印塔)~能島村上水軍の当主で「日本最大の海賊」と評された人物

鎮海山城、能島村上氏の当主である村上武吉の城、嫡男の村上元吉の墓があります。

福山城~日本100名城、2022年に築城400周年を迎えます。撮影スポットは駅の新幹線ホームがおススメです。

広島城~日本100名城で三大平城~毛利氏、福島氏、浅野氏、そして明治~昭和の戦争・復興・平和を体感した城。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

新宮城~源行家の姉の丹鶴姫が住んでいた地、続日本100名城で国の史跡。

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