史跡・城跡

村上武吉夫妻の墓(宝篋印塔)~能島村上水軍の当主で「日本最大の海賊」と評された人物

村上武吉永眠の地



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村上武吉の墓】

能島村上水軍の当主であった
村上武吉の墓は村上武吉夫人の墓とともに、
少々遠いですが周防大島にあります。
瀬戸内海で勢力を誇った村上水軍は、
関ヶ原の戦いの後、消滅しました。
能島村上水軍の当主、
村上武吉は周防大島(山口県)の
小さな集落で最後の3年を過ごし
1604年に没しました。
集落近くの瀬戸内海を見下ろす山に、
今もひっそりと眠っています。
明治になり、村上武吉が著わしたとされる
水軍の兵法書が、
秋山真之によって
日本海海戦の際に参考にされたとの逸話もあります。
村上武吉夫妻の墓は内入の元正寺跡にあり、
少し離れた場所にある
正岩寺の本堂には位牌が
安置され、村上一族の墓があるとの事です。
なお、夫人の墓は村上武吉の後ろにあります。

<村上武吉夫妻の墓(宝篋印塔)説明>
村上武吉夫妻の墓(宝篋印塔)説明

<村上武吉の墓>
村上武吉の墓(宝篋印塔)

<村上武吉夫人の墓>
写真後ろの宝篋印塔です。
村上武吉夫人の墓
説明板の戒名から系図を辿ると
どうも二番目の妻である
来島通康の次女・ハナと考えられます。
ハナさんは長男の村上元吉と、
次男の村上景親の母のようです。

<所在地>
山口県大島郡周防大島町内入
(大畠駅からバス約1時間、
「内入」下車 徒歩5分 
普通車近くまで可)

<村上武吉の墓道標1>
村上武吉の墓道標1

<村上武吉の墓道標2>
村上武吉の墓道標2

【正岩寺】
<所在地>
〒742-2516 山口県大島郡周防大島町和田970

【村上武吉】

村上 武吉(武慶)(むらかみ たけよし、
能島武吉(のしま たけよし)とも)は、
戦国時代から江戸時代初期の
伊予国などの武将です。
能島村上水軍の大将であり、能島城主。
村上義忠の子で、子に元吉、景親がいます。

【出自】
村上氏の遠祖は清和源氏
または村上源氏とも云われています。
平安時代の末頃から伊予国の河野氏と結んで
瀬戸内に勢力を張ったと伝わっています。
南北朝時代の頃、
南朝のてこ入れのため
北畠顕家の息子が村上家に入り
村上師清と名乗ったのが
後の三島村上氏の先祖となると
伝えられてはいますが、
この人物を北畠氏側の史料では
確認できないようであるため、
村上氏の出自は定かではないとのことです。

【能島・来島・因島、それぞれの村上氏】
村上師清の子供は
能島、来島、因島の三島に分かれて、
勢力を張っっていきました。
代々伊予の河野氏との関わりも深かったようですが、
周防国の大内氏の勢力が拡張してくると、
その傘下にも入ったとのことです。
三島は一応能島を宗家としていましたが、
因島は安芸国の児玉氏小早川氏と親しく、
来島は伊予の河野氏に近いなど
それぞれの利害関係は
かなり異なっており、
独自に行動することが多かったとのことです。




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【村上武吉の生涯】
【能島の内乱】
永正5年(1508年)、
大内義興が京に上ったとき
中国地方の多くの大名、豪族が従いましたが、
村上武吉の曽祖父である能島雅房も
この時京に上り、数人の子供をもうけました。
これが能島で作った子供達との間で家督争いを行い、
能島の内乱となってしまうのでした。

【肥後国に逃れる】
村上武吉は幼くして祖父である
村上隆勝を暗殺され、
自らの命も危うくなったために
難を避けて島を離れて
肥後国の菊池氏を頼ったとのことです。
元服の際に武吉と名乗ったのは
菊池武俊の偏諱を受けたことによります。
けれども、菊池側の史料には
「武俊」の名はみられないため、
大内氏の偏諱を賜った可能性が
指摘されているとのことです。

【能島当主になる】
やがて能島に戻ると
従兄の村上義益と
それを支援する来島勢を
叔父の村上隆重の支援も受けて破り、
能島当主となりました。
従兄の村上義益が病死すると
来島の村上通康(来島通康(来島右衛門大夫通康))
と和義を結び、その娘を娶り、
村上三島の頭領格となったのでした。

【村上武吉の妻たち】
その娘ですが、最初の妻がムメさんで、
二番目の妻が同じく村上通康の娘でハナさんです。
ムメさんとハナさんは姉妹だったようで、
先に嫁いだ長女のムメさんが早世して
次女のハナさんを妻に迎えたようです。
このハナさんは、長男の村上元吉と
次男の村上景親を産んでいます。
最初の妻のムメさんの墓は
南北朝の武将で能島村上水軍の祖と言われる
村上義弘公の菩提寺である
愛媛県今治市吉海町名にある
高龍寺に墓があるそうです。

なお、後に朝鮮からも
三番目の妻として迎えています。

厳島の戦い以降】
天文24年(1555年)、
毛利元就と陶晴賢の厳島の戦いの際には
「1日だけの味方」の言葉に引かれて
毛利方に加担して以降、
毛利氏との関係を深めたと云われていますが、
実際に能島水軍が毛利方に加勢したか否かは
見解が分かれ、確証が得られていないとのことです。
けれども以後は、
毛利氏の周防・長門の平定(防長経略)に協力し、
瀬戸内海一の水軍勢力となったのでした。

厳島神社

塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結んだ他、
一族重臣である村上隆重を備中笠岡城
嶋吉利を備前児島本太城、
村上武満を周防上関と
瀬戸内の要衝を抑える位置に置き、
通行する船から帆別銭(通行料)を取り立て、
大いに栄えたのでした。




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【村上武吉と毛利氏、起請文を交わす】
永禄12(1569年)に
毛利の九州攻めが失敗すると、
この頃より大友氏や三好氏などと
関係を深め始めます。
大内輝弘の乱の際には
大友水軍に伊予灘を素通りさせました。
不穏な行動を取り始めた村上武吉に対して
毛利氏は元亀元年(1570年)9月、
毛利元就・毛利輝元小早川隆景の三者が
起請文を村上武吉と交わし、
互いが入魂の関係である事を改めて確認したのでした。

【反毛利の姿勢】
けれども村上武吉は
元亀2年(1571年)2月、
公然と反毛利の姿勢を取り、
毛利と敵対する浦上宗景
児島の占拠を窺う中で本太城に兵を入れて、
毛利方の児島守備隊の背後を脅かしたのでした。

【小早川隆景、動く】
このためついに、小早川隆景が
本太城討伐の兵をあげ、
4月までには陥落しました。
同年7月に小早川隆景が
能島攻めの軍を起こすと
来島・因島水軍も小早川側に従ったため、
孤立した能島は三好氏や塩飽水軍に
兵糧の補給を要請したのですが、
これも小早川隆景の軍勢に阻止され、
翌年の元亀3年(1572年)まで
能島を包囲・海上封鎖されるという
苦境に追い込まれたのでした。

【毛利氏との関係修復へ】
この後も大友宗麟は来島水軍と
村上武吉との講和を仲介したり、
「門司・赤間や伊予へと出兵して毛利を脅かす」
と約束したりして、
能島水軍の反毛利同盟への
繋ぎ止めを図ったのですが、
結局のところ、大友宗麟の約した
門司・赤間への出兵は
実行されることはありませんでした。
そのため村上武吉の考えは徐々に
毛利との関係修復へと傾いていきます。
天正3年(1575年)2月、
備中兵乱の平定に関して
村上武吉が小早川隆景に祝儀を送っており、
この頃までにはかなり
毛利氏との関係は改善していたと考えられています。

周防大島からの瀬戸内海

【毛利方水軍として】
毛利が織田信長と戦うと、
村上水軍は小早川・児島・乃美水軍などと共に
毛利方水軍として活躍しました。
特に天正4年7月13日の
第一次木津川口の戦いでは、
自身は参加せずに嫡男の村上元吉が出陣して
主力として戦い大勝を収めています。
けれども織田信長の鉄船6隻と戦った
天正6年(1578年)11月の
第二次木津川口の戦いでは
惨敗を喫してしまいました。

羽柴秀吉の調略】
その後、中国攻略にあたった
織田信長の家臣である
羽柴秀吉から調略を受け来島通総率いる
来島水軍並びに村上武吉の能島水軍が
これに応じるという雑説が毛利家中で立ち、
毛利家臣の乃美宗勝
村上武吉の説得にあたりました。
結局の所、雑説の通りに
来島通総は織田方に寝返りましたが、
村上武吉は毛利方に留まり、
織田についた来島を占領します。

【さらば能島】
けれども天正10年(1582年)、
本能寺の変が起きた後、
羽柴秀吉と毛利が和睦し、
来島の返還を要求してきました。
村上武吉はこれを拒否します。
更に四国攻めにも加わらなかったため、
再び小早川隆景に攻められ
能島を明け渡し、
小早川隆景の所領である
竹原(広島県竹原市)に移住させられました。

【海賊停止令】
さらに天正16年(1588年)、
豊臣秀吉の海賊停止令に背いたとして
豊臣政権から詰問を受け、
嫡男の村上元吉が上洛して
弁明にあたったとのことです。
以降、小早川隆景に従って筑前国に移り、
小早川隆景の跡を
養子の小早川秀秋が継ぐと
毛利家の家臣となって
所領のある長門に移動します。
豊臣秀吉の死後は再度
瀬戸内に面する竹原へと戻ったとのことです。

慶長3年(1598年)、
死の直前の豊臣秀吉から、
豊臣姓を与えられています。

【嫡男・村上元吉の死】
家督を継いだ村上元吉と
その弟である村上景親らは
毛利、小早川勢に従って
朝鮮で戦いました。
(文禄・慶長の役)。
続く関ヶ原の戦いでは西軍として、
伊勢湾沿岸、紀伊沿岸、阿波を攻め、
加藤嘉明の伊予松前城を攻めましたが、
加藤嘉明の老臣である
佃十成の三津浜夜襲により
村上元吉は討ち死にしたとのことです。

【竹原崩れ】
関ヶ原の戦いの後、
毛利氏が防長2カ国へと
減封されたのに従い再度、
竹原を離れ、
江戸幕府の制海権掌握にともない、
ここに村上水軍は壊滅したのでした。

【毛利家の家臣として生きる】
これ以降は毛利の家臣として
村上元吉及び村上景親の2系統が
三田尻で船手衆を務め、
朝鮮通信使の警護などを
行うことになるのでした。




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【村上武吉の最期】
慶長9年(1604年)8月22日、
72歳で亡くなりました。
家督は村上元吉の子である
村上元武が継ぎ、
村上武吉が後見を務めたとのことです。
山口県大島郡周防大島町に
館跡と共に墓所があります。
なお菩提寺と墓は、
次男である村上景親が建立しています。

村上武吉夫妻の墓からの展望

【日本海海戦の際】
村上武吉が著わしたとされる
水軍の兵法書「村上舟戦要法」は、
時代は流れ明治にの世になって、
秋山真之によって
日本海海戦の際に参考にされたと
いわれています。

【逸話】
海賊として荒々しいイメージが強いですが、
大山祗神社にて
一族の結束を固めるために
連歌会を多く催していました。
村上武吉個人も非常に多くの連歌を残し、
武だけではなく教養にも秀でていた事が
垣間見られます。
ルイス・フロイスは、
村上武吉を「日本最大の海賊」
と評していたとのことです。

【村上武吉には娘がいた?】
文書「萩藩譜録・村上図書元敬寄組」
(山口県文書館蔵)中の家系図に、
娘がいたことが記されているとのことです。
けれどもこの娘に関する資料は
同文書しか発見されておらず、
また名前や実在時の行動などは一切不明です。
なお、この娘を元に創作されたのが
和田竜の小説「村上海賊の娘」です。

鎮海山城、能島村上氏の当主である村上武吉の城、嫡男の村上元吉の墓があります。

安芸草津城~古代から水運の重要拠点であり、児玉氏が城代となって毛利水軍の基地となった城です。

通化寺~天野隆重夫妻の墓・天野元嘉の墓・繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)及び天野氏館跡

三原城 (続日本100名城)・小早川隆景が築城した三原の街歩きをしたくなるほど大規模な海城。

新高山城 (続日本100名城)~小早川隆景築城の断崖絶壁のお城!

賀儀(かぎ)城~小早川隆景の水軍の将である浦宗勝の城で交通上の要地でした。

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