史跡・城跡

源義朝の墓(鎌倉)、忠臣の鎌田政家(政清・政長)と共に眠るもう一つのお墓。

源義朝と鎌田政家(政清)の墓



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源義朝の墓(鎌倉)】

源頼朝が父親である源義朝の菩提を弔うため
文治元年(1185年)に勝長寿院を建立しました。
文治元年(1185年)9月3日、
源義朝の遺骨と鎌田政家の首は
源義朝の遺児の源頼朝によって、
鎌倉の勝長寿院に葬られました。
鎌田政家(政清)は源義朝の第一の郎党でした。
鎌田政家の母が
源義朝の乳母だったため
乳兄弟として最も信頼されたとのことです。

【鎌田政家(政清)】
鎌田 政清(かまた まさきよ)は、
平安時代末期の武将でした。
名は正清、正家、政家とも。
藤原秀郷流首藤氏の一族で、
相模国の住人鎌田権守通清の子です。
保元元年(1156年)7月の
保元の乱で源義朝に従って従軍し、
源為朝に挑みますが、
とても敵わぬと見て退いています。

平治元年(1159年)12月の
平治の乱では、内裏占拠後の
藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられます。
待賢門の戦いでは源義朝の長男である
源義平と共に平清盛の長男である
平重盛と戦い活躍しました。
六条河原の戦いで源氏が敗れ、
源義朝が討死しようとするのを引き止めて、
源義朝の子や大叔父の源義隆、
従兄弟の源重成と共に東国を目指して
落ちのびようとします。

途中、近江国の落武者への
捜索の苦難に遭いながら、
源義朝主従は鎌田政家の舅である
尾張国野間内海荘の領主である
長田忠致の館にたどり着きます。
しかし長田忠致の裏切りにあい、
源義朝は風呂場で殺害され、
鎌田政家は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、
長田忠致の子である長田景致の
手にかかって殺されたとのことです。
(「平治物語」)。
享年は38歳でした。
「愚管抄」によりますと、
罠を察知した源義朝は
鎌田政家に自らの殺害を命じたということです。
なお、長田忠致の娘である
鎌田政家(政清)の妻である清(きよ)は、
夫である鎌田政家(政清)の太刀を取り、
「この仇をとります」といい、
夫に「よしなさい」と云われると
「せめてお供を許してください」と
息絶え絶えの夫の目の前で自害したとの事です。




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建久5年(1194年)10月25日、
鎌田政家(政清)の娘が勝長寿院で
父である鎌田政家(政清)と
源義朝の追善供養を行っています。
鎌田政家(政清)に男子がなかったため、
源頼朝はこの娘に
尾張国篠木庄
(春日井市の北東部から小牧市の東部)、
丹波国名部庄の地頭職を与えています。
(「吾妻鏡」)。

鎌田政家(政清)夫妻の墓は、
主君である源義朝と同じ
愛知県美浜町の野間大坊の境内にあります。




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【交通アクセス】
JR「鎌倉」駅東口 徒歩35分程度

【所在地】
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目6−31

<行き方>
大御堂の信号を右折、
滑川に架かる大御堂橋を渡り左へ、
さらに右手の小道を上ると、
勝長寿院跡の碑があり、
源頼朝の父である源義朝と
鎌田政家(政清)墓がこの場所にあります。

行く途中に文覚上人の屋敷跡があります。
また近くには
「歌の橋」があります。

歌の橋

【歌の橋】
金沢街道を杉本寺から
150m程西に行った所、
二階堂川が滑川に流入する辺りに
架かる橋です。
建保元年(1213年)、
渋川(渋河)刑部六郎兼守が
謀反の罪で捕らえられたとき、
無実を訴えるために
和歌十首を詠み、
荏柄天神社に奉納したとのことです。
歌人としても知られる
時の将軍源実朝はその和歌を見て感動し、
その罪を許し、
渋川(渋河)刑部六郎兼守は死刑を免れました。
そのお礼として
荏柄天神社の参道近くに
この橋を架け、
そこからこの名がついたと言われています。

河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。

大御堂寺野間大坊~真言宗豊山派の寺院で野間美浜で最期を遂げた源義朝の墓があります。

杉本寺(鎌倉)鎌倉最古のお寺で創建は天平時代で源頼朝寄進の十一面観音が安置されています。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。

山内首藤経俊~源頼朝からは無益な者との評価でも母のお陰で地位は保全されました。

比企能員の妻~「鎌倉殿の13人」では道、渋河氏、三浦氏と比企氏、そして源氏との深い関係と安房国

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

山田城山~源義朝の家臣である鎌田政清の居館とされる場所

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

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