【安芸木村城】
安芸木村城(あききむらじょう)は、
安芸国竹原荘(現在の広島県竹原市)
に存在した日本の城です。
広島県指定史跡です。
【城郭構造】
山城
【天守構造】
建造されず
【築城主】
小早川政景
【築城年】
正嘉2年(1258年)
【主な改修者】
小早川隆景
【廃城年】
不詳
【遺構】
曲輪、石垣、櫓台、竪堀、畝状竪堀、堀切
【指定文化財】
県史跡
【所在地】
〒725-0003 広島県竹原市新庄町
【構造】
現在、城山と呼ばれる山の山頂から
北へと伸びた標高150mの丘陵を
中心に築城されていました。
本丸を中心とする南郭群と兵糧の段、
馬返しの段を中心とする
北郭群によって構成されています。
周囲には堀切から竪堀、
畝状竪堀が備えられ、
井戸も3つ確認されています。
うち1つは現存しており、
井戸内部は石積みによって
堅固に構築されています。
城跡東側の道路を民家を過ぎ、
林道に行くと右手に駐車場があるそうです。
東西両側に川が流れ、
急斜面になっています。
本丸、井戸の段、兵糧の段、
馬返しの段と段々にあり、
段差のある切り岸で区切られてるとのことです。
【歴史】
正嘉2年(1258年)、
竹原小早川氏の初代当主となる
小早川政景が、都宇・竹原荘、
沼田荘梨子羽郷の一部を分与され、
木村城を築城して居城としました。
なお、小早川政景は
小早川茂平の四男です。
小早川茂平は、
承久の乱で鎌倉方として軍功を挙げ、
本拠地である安芸国沼田荘
(広島県三原市)などの他に、
新たに安芸国都宇竹原荘
(広島県竹原市)の地頭職を得ていました。
小早川茂平の父親は小早川景平です。
小早川景平は、
源氏一葉の門葉筆頭である
平賀義信の五男でしたが、
土肥遠平の養子となったのでした。
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室町時代及び戦国時代に入り
天文10年(1541年)、
武田氏の佐東銀山城を
毛利元就と共に攻めていた
竹原小早川氏の当主であった
小早川興景が陣中で病没しました。
小早川興景の夫人が
毛利元就の姪(毛利興元の娘)であった縁で、
毛利元就の三男である隆景が
天文13年(1544年)、
竹原小早川家を相続し、
14代竹原小早川氏当主として
木村城に入城しました。
そして天文20年(1551年)、
小早川隆景は沼田小早川家を
相続して高山城に移ったのでした。
その後も城は維持されたと
考えられていますが、
廃城年は不明です。
木村城から賀茂川を挟んで対岸に、
手島屋敷と呼ばれる
中世の居館跡が存在しています。
間口約50m、高さ3mの石垣が残存しており、
石垣の両隅は枡形が切られています。
かつては「西殿屋敷」
「西の殿屋敷」
(にしんどんやしき)と呼ばれていたそうです。
竹原小早川氏が竹原を去る時、
竹原小早川家の家臣であった
手島氏がその屋敷と居館を
受け継いだと云われています。
中世城館調査では
竹原小早川氏の「居館候補地」として
挙げられています。
【竹原小早川氏墓所】
手島屋敷の北方100mの丘陵麓に
宝篋印塔が10基、
五輪塔20基程度が設置されており、
中世の竹原小早川氏の墓所と推測されています。
墓所の上にある尾根には
小早川興景夫婦の墓とされる
2基の宝篋印塔が残っています。
この他、竹原小早川氏菩提寺である
法常寺跡(三原市西町)にも
宝篋印塔や五輪塔の一部が残っているとのことです。
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