【横田山城跡】
【所在地】
島根県松江市美保関町森山
【比高】
50m
【形態】
海城
【遺構】
郭・石垣・堀切・虎口・連続堅堀
【築城】
戦国期?
【築城者】
不明
【城主】
秋上氏
※秋上氏の居城は「森山城」とされていますが、
「森山城」は「島根県遺跡データベース」には
存在しない城、であるそうです。
また、横田山城の所在地が「森山」となっていますが、
「森山城」の別名が「横田山城」とも
記されていないそうです。
横田神社の南側の丘陵が城山とのことです。
横田公民館より海側の道を西に向かって進みます。
しばらくすると鳥居が見えてきます。
そこからの参道が主郭に通じているそうです。
<登城口>
海側
【秋上宗信】
秋上宗信(あきあげ むねのぶ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
尼子氏の家臣でした。
尼子十勇士に出てくる
秋宅庵助のモデルとされています。
【時代】
戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】
不明
【死没】
不明
【別名】
助次郎、庵介(通称)、久家
【氏族】
秋上氏
【父】
秋上綱平
【兄弟】
孝重、宗信
【生涯】
秋上氏は大庭大宮(現神魂神社)の社家一族でした。
秋上宗信は秋上綱平の次男として誕生しました。
神職は兄である秋上孝重が継いだため、
武将として尼子氏に仕えていたと推測されています。
家中では侍大将で、
禄は備後国に1万石を領していたとのことです。
永禄6年(1563年)の毛利氏による
白鹿城侵攻の際に、
救援軍として父である秋上綱平と出陣しましたが大敗。
白鹿城落城後は立原久綱と共に
伯耆国尾高城に拠る杉原盛重を攻めましたが、
敗北しています。
永禄8年(1565年)には
毛利氏の月山富田城総攻撃において篭城軍に加わり、
吉川元春軍を敗走させています。
永禄9年(1566年)に月山富田城は落城し、
戦国大名としての尼子氏は滅亡しました。
秋上宗信は毛利氏に捕縛されましたが、
社家であることを理由に解放されました。
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永禄12年(1569年)、
山中幸盛(山中鹿介)擁する尼子勝久を大将とする
尼子再興軍が出雲国忠山城にて挙兵しました。
秋上宗信も父と共に参戦しています。
尼子氏居城であった
月山富田城攻めの総大将に任命されますが、
天野隆重の策略にかかり
偽の降伏に騙され敗走し、
月山富田城攻めは難航しました。
そのような中、元亀元年(1570年)1月、
尼子再興軍と戦うべく毛利氏は多久和城に進撃します。
秋上宗信は戦う前に戦意を喪失し撤退し、
撤退中に追撃を受けて大損害となりました。
同年の2月14日、布部山の戦いにて
横道秀綱らと共に戦いましたが敗北。
横道秀綱は戦死したため逃亡しました。
更に元亀2年(1571年)3月には
羽倉孫兵衛らと米子城・尾高城など攻撃しましたが、
羽倉孫兵衛は戦死し両城とも
奪回することは叶いませんでした。
同年5月に野村士悦によって
毛利氏への服属を促され、
遂に父親と共に降伏したのでした。
一説には、秋上宗信が毛利氏に降った理由は、
主君である尼子勝久が秋上宗信を
山中幸盛と共に重用する約束であったにも拘わらず、
それを果たさなかったからだとも考えられています。
その後は安芸国にて病没したとされています。
更に異説として、
亀井茲矩に従った武将の日野之房は
秋上宗信のことであるということです。
鳥取県鳥取市鹿野町の幸盛寺にその墓があり、
文禄3年(1594年)11月29日没、
法名は高譽壽性居士ということです。
【神魂神社】
神魂神社(かもすじんじゃ)は、
島根県松江市大庭町にある神社です。
旧社格は県社で、意宇六社の一社。
本殿は現存する日本最古の大社造りで
国宝となっています。
【ご祭神】
現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、
伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしていますが、
これは中世末期ごろからのであるそうです。
従ってそれ以前の祭神は不明であるそうです。
時代が下って江戸時代の寛文年間ごろの
新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの
神名が見えますが、
現在では記録上わかる範囲内で、
より古いほうの説に従っているとのことです。
【歴史】
社伝によりますと、
天穂日命がこの地に天降って
創建したものと伝えられていますが、
「延喜式神名帳」、国史や
「出雲国風土記」に
当社は記載されてはいないそうです。
文献における初見は
承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、
実際の創建は平安時代中期以降ではないかとされています。
当社は出雲国府に近い古代出雲の中心地であり、
社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として
25代まで当社に奉仕したということです。
出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家です。
国造家の代替わりのときの
「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、
明治初年までは
当社に参向して行われていたとのことです。
【神紋】
二重亀甲に「有」の文字。
【文化財】
本殿は現存する最古の大社造建造物であり、
昭和27年3月に国宝に指定されました。
昭和23年の修理の際に、
柱から正平元年(1346年)の墨書が見つかりましたが、
現在の社殿は天正11年(1583年)
の再建と考えられています。
室町時代の造営になる神魂神社本殿は、
出雲大社より大社造りの古制を
よく保存しているとのことです。
出雲大社と同様に入口は正面に向かって
右に片寄ってありますが、
神座は出雲大社とは反対に、
殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)
の左奥に横向きに置かれているとのことです。
貴布祢稲荷両神社の社殿も天正11の建立で、
重要文化財に指定されています。
社殿は珍しい二間社流造であるとのことです。
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【国指定】
【国宝】
<建造物>
◆神魂神社本殿
附:内殿1基、心御柱古材1箇 – 天正11年(1583年)
【重要文化財】
<建造物>
◆神魂神社末社貴布祢稲荷両神社本殿
– 天正11年(1583年)
【県指定】
<工芸品>
◆色々威腹巻
附:袖鎧1双 – 室町時代中期
【主な行事】
神火相続 :4月18日
祈念祭:10月18日
例祭:11月11日
神在祭:12月13日
新嘗祭
お釜神事
【交通アクセス】
◆JR松江駅から松江市営バス
(かんべの里行)終点下車⇒徒歩3分程度。
◆一畑バス(八雲行)約18分、
「風土記の丘入口」下車徒歩10分
◆JR松江駅からタクシーで15分程度
◆松江バスロケーションシステム・ぐるっとバスナビ
【所在地】
島根県松江市大庭町563
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