徳川家臣

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています。

江戸重長公の銅像(慶元寺)



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江戸重長

江戸 重長(えど しげなが)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・御家人。
武蔵江戸氏2代当主です。

【生誕・死没】
不明

【別名】
通称:江戸太郎

【墓所】
京都世田谷区 慶元寺

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
伊勢平氏⇒源頼朝

【氏族】
武蔵江戸氏

【父】
江戸重継

【母】
関政家娘(秀郷流太田氏)

【兄弟】
重長、親重、重通、重宗、
畠山重能室

【妻】
藤田政行娘(猪俣党)

【子】
忠重、朝重、河野通有室

【生涯】
【衣笠城合戦】
治承4年(1180年)8月17日の
源頼朝の挙兵に対し、
平家方で同族である畠山重忠が、
源氏方の三浦氏と合戦となると、
畠山重忠の要請に応じて
一族の総領家である
河越重頼と共に
武蔵国の武士団数千騎を率いて出陣しました。
三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、
8月26日、当主の三浦義明を討って落城させました。

【源頼朝、江戸重長に使いと追討令】
「吾妻鏡」9月28日条によりますと、
源頼朝は秩父一族の切り崩しを図って
江戸重長に使いを送り、
大庭景親の催促を受け、
石橋山で合戦に及んだのはやむを得ない事だが、
以仁王の令旨の通り(頼朝に)従うべきである。
畠山重能(重忠の父)・
小山田有重が在京している今、
武蔵国は汝が棟梁である。
もっとも頼りにしているので
近辺の武士達を率いて参上せよ」と伝えたとのことです。
一方で翌29日条には江戸重長が
大庭景親に味方して今になっても来ないので、
やはり追討すべきとして
同じ秩父氏で源頼朝方に付いていた葛西清重に、
大井の要害に江戸重長を誘い出し、
討ち取るように命じています。




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【頼朝に帰伏し武蔵の権限】
10月2日、勢力を回復した
源頼朝軍が武蔵に入ると、4日、
江戸重長は畠山重忠、河越重頼と共に
源頼朝に帰伏します。
翌日、江戸重長は源頼朝から武蔵の在庁官人や
諸郡司を統率して
国の諸雑事を沙汰する権限を与えられました。

【奥州合戦・東大寺】
文治5年(1189年)7月の
奥州合戦に従軍、
建久6年(1195年)3月の
東大寺落慶供養の頼朝上洛に供奉。

【江戸氏は繁栄】
同族の河越重頼、畠山重忠は
鎌倉幕府初期における
内部の勢力争いによって滅ぼされましたが、
江戸重長は一族の重鎮として
幕府に仕え、子孫も長く繁栄したのでした。

江戸氏の菩提寺である
東京都世田谷区の慶元寺に、
江戸重長の供養塔である五輪塔と
銅像があります。

江戸氏・喜多見氏歴代の墓

【江戸氏】

江戸氏(えどし)は、日本の氏族です。
武蔵国の国人領主であった武蔵江戸氏と、
後に戦国大名に成長した常陸江戸氏があります。

【武蔵江戸氏】
武蔵江戸氏(むさしえどし)は、
武蔵国を発祥とする武家です。
鎌倉幕府の御家人にして武蔵の国人領主でした。
本姓は桓武平氏。
家系は鎮守府将軍・平良文の
孫・将恒を祖とする
秩父氏の支流の一族です。
通字は主に「重」の字を用いました。

【江戸氏の興り】
後三年の役で先陣を務めた
平武綱の子である秩父重綱の四男の
江戸重継は平安時代の末(12世紀半ば)に
武蔵江戸郷を領して「江戸四郎」を称し、
江戸氏を興しました。

【居館の場所】
江戸氏は後の江戸城の本丸、
二の丸周辺の台地上に
居館を構えていたと推定されていますが
正確な位置は不明となっています。
ただし、近年になって江戸城のある地は
平安時代以前には荏原郡桜田郷として
江戸郷とは別の地域に属しているため
豊島郡江戸郷の領主である
江戸氏の居館があった場所としては
不適切であるとし、
古代の江戸郷の中心地であった平川流域、
現在の水道橋付近にあったとする説を
提示する専門家もいます。
江戸重継は関政家
(小山政光の叔父)の娘を室に迎え、
その子である江戸重長は猪俣党の
藤田政行の娘を室に迎えるなど、
江戸氏は武蔵国内の御家人との間に
婚姻関係を展開しました。

江戸城 堀

【源平の争乱】
治承・寿永の乱(源平合戦)において、
江戸氏は治承4年(1180年)に
源頼朝が挙兵した時、
武蔵国内で勢力を拡大した
秩父平氏の有力な一角となっていました。
江戸重継の子である江戸重長は
初め源頼朝と対立して、
衣笠城合戦で畠山重忠・河越重頼と共に
源頼朝方の三浦義明を討って
衣笠城を落城させました。

横須賀風物百選 衣笠城址

【頼朝には従わず】
源頼朝が再び安房から挙兵した際には、
周辺の豊島氏・葛西氏は源頼朝にすぐ従いましたが
江戸重長は畠山・河越と共に従わず、
源頼朝が武蔵鎌倉に入る障害となったのでした。




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【懐柔策と追討策と】
「吾妻鏡」9月28日条では、
源頼朝は秩父一族の切り崩しを図って
江戸重長に使いを送り、
「畠山重能・小山田有重が在京している今、
武蔵は汝が棟梁である。
もっとも頼りにしているので
近辺の武士達を率いて参上せよ」
と伝えたとされています。
「棟梁」と呼ぶことで
江戸重長を懐柔しようとしたとみられます。
けれども江戸重長が応じないため、
29日条では既に源頼朝に参陣していた
秩父一族の葛西清重に
大井の要害へ江戸重長を誘い出し
討ち取るよう命じています。
なお葛西清重は追討せず、
江戸重長への説得を続けたとみられています。

【源頼朝に帰伏】
「吾妻鏡」10月4日条に至り、
江戸重長は畠山重忠や河越重頼と共に
源頼朝に帰伏します。
源頼朝は「重長らは源家に弓を引いた者であるが、
このように勢力の有る者を
取り立てなければ目的は
成し遂げられないであろう。
憤懣を残してはならない」と
当主を江戸氏らに討たれた
三浦一族に言い聞かせ、
三浦氏は異心を抱かないとして、
畠山重忠らとお互いに目を合わせ、
納得して席に並んだということです。
江戸氏が源頼朝になかなか
帰参しなかった理由として、
この三浦氏との確執問題があったとみられ、
源頼朝が配慮したとみられています。

【一代限りの秩父氏の家督】
翌日には、江戸重長は源頼朝から
武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して
国の諸雑事を沙汰する権限を与えられました。
このときに重長に秩父氏の家督が
与えられたとみられています。
けれどもこの権限・秩父氏家督は
後に河越重頼が有しており、
江戸氏には継承されませんでした。

【奥州合戦】
江戸重長はその後、文治5年(1189年)の
奥州合戦にも従軍し、
奥州藤原氏討伐のため鎌倉を出陣する源頼朝に従いました。

【繁栄していた江戸氏の冨】
なお「義経記」において
「坂東八ヵ国の大福長者」と
記された江戸重長が舟橋を作り
源頼朝の軍勢を渡河させたなどと、
後世の軍記物では江戸重長は「吾妻鏡」に比べて
大幅にその影響力が誇張されています。
「大福長者」については、
当時の江戸氏は然程強勢でなく
先述した国の諸雑事を沙汰する権限が
姿を変えたとする意見や、
実際に繁栄していた
江戸氏の富の多さを示すとする意見もあります。

鎌倉時代の江戸氏】
【鎌倉初期】
江戸重長は鎌倉幕府御家人となり、
その子とみられる江戸忠重が
元久2年(1205年)6月の
畠山重忠追討軍に参加しています。
また鎌倉時代初期には
江戸重長の兄弟と推定される
次郎親重・四郎重直・七郎重宗、
江戸重長の子と推定される
次郎朝重の活動が見えます。
これ以外の記録・系譜でみられる
江戸姓の人物は
系譜上での位置づけが全く不詳です。

「吾妻鏡」には他に
八郎太郎景益、
七郎重保、
七郎太郎重光、
七郎太郎長元、
七郎太郎長光といった名前が見られます

【出雲江戸氏】
承久の乱後には新補地頭として
江戸四郎重持が出雲国安田荘に下向しています。
その地で社家石清水八幡宮と対立、
寛元元年(1243年)に
下地中分が記録されています。
出雲へ下向した出雲江戸氏は、
重持-某(法名:入仏)-某-清重、
重長(清重の子か弟)と続いたと
建武5年(延元3年、1338年)
足利直義下知状に見えます。
江戸重持は四郎の名乗りから、
2代重長の弟・四郎重通の子とも
推測されています。

【江戸郷前島村について】
弘長元年10月3日(1261年)には、
地頭・江戸長重が正嘉の飢饉による
荒廃で経営が出来なくなった
江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を
北条氏得宗家に寄進して得宗被官となり、
正和4年(1315年)までに
得宗家から円覚寺に再寄進されている事が
記録として残されています。




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【浅草江戸氏】
また武蔵千束郷(今の浅草千束町周辺)が
江戸氏の所領とみられ、
そこに拠った庶家(浅草江戸氏)が
鎌倉期に活動しています。
系図には朝重-周重-重益-行重-重通と続き、
行重の弟の政重-重高-重村、
その弟・房重-高泰とあります。
一方「北区史」は景益(重益)を2代重長の
弟・八郎重時の子とし、
重益-行重・政重から続く家系が繋がるとしています。
このうち、正和3年(1314年)に
江戸重通と江戸政重(石浜政重)が
江戸重益・江戸行重の相続について
争いを起こしているとのことです
なお系図では甥と叔父ですが、
「北区史」では両方とも江戸行重の子ともあるようです。

幕府は江戸行重の跡は江戸重通が継いだと
判断した模様ですが、
その後貞和2年/正平3年(1348年)頃まで
争っていたようで、
江戸政重の子孫となる江戸重村が
江戸重通の養子となって和解したとみられます。
和解したとみられる判断は、
翌年の貞和3年の足利千寿王警護にあった
江戸重村が江戸重通の子息と見えることから、です。

【江戸氏庶流の2家】
なお「荒川区史」では江戸重益からを
江戸氏の嫡流と見なしています。
「荒川区史」は江戸朝重からの江戸氏と、
木田見流の大きな2家が
江戸氏庶流で力を持っていたとしています。

【系譜の混乱】
江戸重継から江戸忠重までの3代以降は、
系図に全く信用すべきものが無いとのことです。
江戸忠重の代で一度江戸氏は断絶し、
庶流(浅草流江戸氏・小野流江戸氏・木田見流江戸氏)
が継いだか、畠山流が継いだかの
いずれかの可能性もあるとされています。
ちなみに「北区史」では江戸忠重の後に
江戸秋重などが復元されています。

【小野流江戸氏】
上野国にあって旗本となった
小野朝臣江戸氏の系図に
小野太郎重行-重光-重房といった名前があり、
「吾妻鏡」記載の重光、長光が
小野氏流の可能性があるともされています。
この家系は、小野太郎重行が
江戸忠重の子で
その祖母は横山党
小山経隆の娘といい、
小山経隆の娘は江戸重継の子・六郎重政の室かと
「北区史」は推測しています。
外戚から小野姓を名乗り
子孫は一時江戸を称したということです。
一方「埼玉苗字辞典」では
江戸氏ではなく小野氏であろうとしています。
「北区史」は長光は七郎重宗の子においています。

【「畠山系図」】
一般に江戸氏の系図として使われる
「畠山系図」では、
同じ秩父氏一族の
畠山重忠の曾孫である
江戸重長(彦太郎、法名:成仏)が
江戸氏を継いだことになっています。
なお源頼朝時代の江戸太郎重長とは
別人となります。
「畠山系図」では、
この江戸重長(成仏)から
江戸氏を継いだ長男・重盛以外に、
木田見氏重(武重)・丸子家重(丸子氏)・
六郷冬重(六郷氏)・柴崎重宗(柴崎氏)・
飯倉秀重(飯倉氏)・渋谷元重(渋谷氏)があり、
江戸氏が江戸周辺に広がったとしています。

・・・現代でもお馴染みの地名の
苗字がありますものね。

【木田見流の系図】
また木田見流の系図では
江戸重長(成仏)と源頼朝に従った
太郎重長は同一人物であり、
重長の子・忠重と重長(成仏)の長男・重盛が
同一人物としていて、
重盛の別名に忠重をおいています。

【混同してしまった理由として】
これらの問題について、
江戸太郎重長と畠山系の重長(成仏)の二人を
木田見流の系図などで混同した結果、
重盛=忠重などの別名が記載されたとし、
別人ではなく、太郎重長に
畠山重忠の家督を継いだとする
仮冒を江戸時代に行ったときに、
系図をつなぐ上で
重長(成仏)が創作されたとする説を挙げる
専門家もいます。
また「荒川区史」では江戸重長が
畠山重忠の家督を継ぐのは
あり得るとしています。
ただし畠山の苗字の地支配は認めてはいません。




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【室町時代】
鎌倉幕府の滅亡時、
江戸氏は当初新田義貞の挙兵に加わらず、
坂東八平氏や
武蔵七党の武士団と共に
足利千寿王(後の足利義詮)の合流に伴って
鎌倉攻めに参加しました。
しかし建武政権で成立した
成良親王・足利直義の鎌倉将軍府は、
東国御家人を重視しなかったため、
北条氏残党として旧御家人が反乱を起こしています。
建武元年(1334年)3月に
渋谷氏・本間氏が反乱した後、
8月に江戸氏は葛西氏と共に反乱を起こしています。
が、これらの反乱は渋川義季に鎮圧されています。

【北朝・南朝双方に江戸氏】
これに対して「太平記」には新田義貞の重臣として
江戸民部丞景氏が見えます。
新田義貞軍の江戸氏は北陸での新田氏と
斯波氏との戦いに従い、
新田義貞討死後も脇屋義助を助けています。
一方で建武3年(1336年)に
上洛した北畠顕家軍を追撃しようとする
鎌倉の足利軍に江戸氏が見えます。
また同年に比叡山に籠った
後醍醐天皇を攻める
足利直義軍の伊予国衆に江戸氏が見えます。
そして、この後の和議で比叡山から
京へ向かう後醍醐天皇の一行にも
江戸氏が見えます。
北朝と南朝双方に江戸氏がついていた模様です。

【浅草流江戸氏は北朝側】
浅草流江戸氏は北朝に従ったとみられ、
貞和3年(1347年)の2月-3月に
江戸重村は鎌倉にあった
足利千寿王を警護しています。
延文元年/正平11年(1356年)の
入間川御陣にも重村の後継者・高泰が
警固役でその名が見られます。

【武蔵野合戦の江戸氏】
「太平記」によりますと
文和元年/正平7年(1352年)、
南朝側の新田義興・義宗の軍勢と
足利尊氏の軍勢が戦った武蔵野合戦には、
鎌倉を出た足利尊氏の許へ江戸遠江守が参陣。
2月20日には
江戸遠江守・江戸下野守・江戸修理亮
らと共に足利尊氏の久米川の陣にも参陣。
また江戸氏の末裔
( 戦国時代に世田谷城主の武蔵吉良氏に仕え、
幕臣になった喜多見氏の家系。)が伝えた
「江戸北見過去帳」には、
淡路守泰重が武蔵野合戦で戦死したということです。

【東寺合戦の江戸氏】
文和4年/正平10年(1355年)の
東寺合戦
(京都を占拠した足利直冬・
南朝方と奪還を図る足利尊氏方の戦い)には、
江戸遠江守高良・その甥の江戸下野守冬長・
江戸修理亮が油小路で奮戦しています。
(源威集)。
一方「新編千代田区史」は
「太平記」の江戸遠江守・下野守をすべて
高良・冬長と記しています。

【新田義興の追討】
「太平記」によりますと、
畠山国清から江戸遠江守は
新田義興の迎撃を命じられ、
延文3年/正平13年(1358年)に
竹沢右京亮と共に矢口渡で仁田義興を
謀殺したということです。
このとき江戸遠江守は
甥の江戸下野守と共に三百余騎を率いたとされ、
その後入間川御陣の
足利基氏の許へ馳せ参じ、
忠功抜群として数カ所の
恩賞地を拝領したとのことです。
ただし遠江守は恩賞地への向かう途中に
矢口渡を通った際、落雷に遭って落馬、
そのまま狂死したといい、
新田義興の怨霊の祟りとされています。
また康安元年/正平16年(1361年)に
畠山国清が失脚すると
畠山被官・江戸修理亮が捕えられ
龍口で斬られています。

【新田義興謀殺した人物】
江戸遠江守は系図に見える
江戸長門に比定されています。
浅羽本の系図(「畠山系図」「続群書類従」収)には、
江戸長門の子・高重の注記に
「遠江守、号長門」や
矢口渡での新田義興謀殺が書かれていますが、
足利尊氏に仕えたとも書かれ、
同系図にある曾祖父・重持が足利尊氏に
仕えたことと矛盾して
鵜呑みにできないと「大田区史」では
論じられています。
「系図纂要」、「慶元寺本北見系図」、
「寛政譜」、佐野本「秩父江戸系図」では、
新田義興謀殺は江戸長門(忠重)とされています。
「慶元寺系図」には江戸長門の生母は
源氏の名門・新田氏一族の
一井貞政の姉「いと」とあります。
下野守は系図に見える重武とみられてます。

また延文2年/正平12年(1357年)には
江戸淡路守が鶴岡八幡宮より
豊島郡小具郷を押領したと
訴えられており、
系図で見える江戸高重(江戸長門の子)とされています。

【武蔵平一揆での惣領家の没落】
応安元年(1368年)の武蔵平一揆では、
一族の牛島氏と共に挙兵しましたが
敗れて領地を失っています。
最も全所領を没収されたわけではなく、
浅草流の江戸房重は
乱後にその忠勤を褒められる書状が残っています。
ただ勢力が大きく削がれたのは間違いなく、
これ以後江戸惣領家は没落していきます。
一族庶流の台頭で惣領家の所領が
縮小したためと考えられています。

至徳元年(1384年)には、
江戸遠江守が得た恩賞地の内の
稲毛庄渋口郷が岩松直国へ与えられましたが、
遠江守の子孫とみられる
江戸蔵人入道希全、
信濃入道道貞、
四郎入道道儀(すべて法名)が
渋口郷の引き渡しを妨害しています。
(「正木文書」)




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【上杉禅秀の乱と江戸氏】
「鎌倉大草紙」には、
上杉禅秀の乱勃発時に避難する
足利持氏の随兵の中に江戸遠江守が見えます。
また上杉禅秀が挙兵した
六本松の合戦で江戸近江守が戦死しています。
木田見流の系図では近江守を高重としています。
遠江守と近江守は同一人物かとも指摘されています。

【鎌田氏】
「大田区史」によりますと、
江戸長門の次男・正長(上記の希全と比定)
の子にあたる蒲田忠武(道儀と比定)は、
蒲田氏(江戸蒲田氏・蒲田流江戸氏)を称して独立し、
「太平記」に新田義興謀殺に参加したとある
蒲田氏は彼だということです。
享徳の乱で衰えながらも小田原北条氏に仕えて
近世以降も続いたとのことです。

【江戸の地は太田道灌に】
江戸の地は江戸氏が去った後に
太田道灌が進出しました。
江戸重広の頃、総領家が
世田谷木田見(喜多見)へ移ったとも、
庶流の木田見流が名跡を継承したとも、
14世紀に千束郷石浜・鳥越に拠った
江戸氏の系譜を喜多見流が
継承したともされています。
鎌倉時代の木田見江戸氏が
江戸期に続いたと考えられていましたが、
喜多見氏の相伝文書には、
江戸重通・石浜政重・
江戸重村・高泰・房重の文書が見えます。

【戦国時代以降の江戸氏】
【木田見流江戸氏】
木田見流江戸氏が、
世田谷城主・吉良氏の家臣として見えます。
吉良氏朝の配下・江戸摂津守浄仙と
景福軒呂顕(浄仙の父)で、
木田見系図では「常光」と
その父「門重」としています。
この家系はのち古河公方
次いで小田原北条氏に仕えました。

【喜多見氏に改名】
子孫の江戸勝忠(後の喜多見勝忠)は
豊臣秀吉による小田原征伐に際して、
小田原北条氏と共に小田原城に籠城しましたが、
小田原城が開城し小田原北条氏が没落すると
替わって江戸に入府した徳川家康の家臣となり、
世田谷喜多見に所領を安堵され
姓を江戸氏から喜多見氏に改めました。

【喜多見勝忠の功績】
喜多見勝忠はその後、
九戸政実の乱で現在の岩手県まで出征し、
関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍した功績もあり、
才を買われて元和元年(1615年)に
近江国郡代となりました。
翌年には堺奉行となり、
後陽成天皇の葬礼を務めるなどの功績を挙げました。
子に旗本で茶人の喜多見重勝がいます。

【喜多見藩の立藩と改易】
喜多見勝忠から数えて3代目の喜多見重政は
徳川綱吉の寵臣として旗本から累進し、
天和3年(1683年)に譜代大名となりました。
江戸郊外喜多見の地に1万石(のち2万石)の
喜多見藩を立藩、初代藩主となり、
築城すら許されその費用を徳川綱吉から与えられました。
貞享2年(1685年)には側用人となるなど
徳川綱吉の寵愛は深かったのでしたが、
城の完成を見ることはなく
元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、
大名である喜多見氏は滅びました。

改易の原因は不明とされています。
喜多見重政の一族で
旗本分家である喜多見重治の
不祥事への対応を誤ったため、など諸説あります。
なお喜多見重政の嫡男である忠政は
後に松前藩に仕えて続いています。




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【その後の鎌田氏】
一族の蒲田氏は小田原北条氏に仕えて活動しました。
蒲田氏は、「江戸名字書立」
(熊野神社の御師が、檀那株を持つ
江戸氏庶流分立に対し、
その庶流の名字を記載した
応永27年(1420年)の古文書。)に
他家とは別に「蒲田殿一跡」と記されています。
「蒲田殿一跡」は「原(はら)殿一跡」
と並んで当時の江戸氏の強大な2流の
可能性があるとのことです。
(「荒川区史」上巻)

鎌田氏は江戸氏代々の相伝の土地を
所領としていることなどから
他の庶家とは別格扱いで、
江戸氏一門の中でかなり有カな家柄でした。
江戸時代には土井利勝に仕えましたが、
土井氏の一時無嗣断絶に伴う古河藩領削減の際、
浪人し、以降子孫は
相馬中村藩士小島氏に養子入りして続きました。

【牛込江戸氏】
牛込にあった牛込江戸氏は、
江戸憲重が上杉禅秀の乱で戦功を立て、
鎌倉の奉公衆となっています。
江戸憲重は子と思われる重方へ所領を譲り、
享徳の乱頃および長享・明応年間に
江戸越後守が活動していますが、
それ以後は資料に見えず、
上野国の大胡重行(牛込氏)が
牛込に入る前に没落したとのことです。

【その後の小野姓江戸氏】
小野姓江戸氏は上野の長尾顕長の家臣となり、
徳川家康の関東入国の際に徳川氏に仕え、
江戸姓から小野姓となって旗本となっています。

喜多見城及び喜多見陣屋跡~23区に存在した唯一の藩、須賀神社や慶元寺のある辺りがお城の主な推定地です。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

清光寺~豊島清元(豊島清光)開基で居館が近くにあり豊島氏発祥の地に建つ寺院です。

石神井城跡~豊島氏の後期の本拠地であり、太田道灌によって落城となりました。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。

江戸城~武蔵国江戸の最初の館は江戸氏、太田道灌が築城しやがて徳川家康が入城し開府しました。

増上寺~創建は室町時代で徳川将軍家の菩提寺、本堂と東京タワーが1枚に収まります。

鹿島城(常陸国)~平安時代末期に鹿島氏によって築城されました。築城者の平姓鹿島氏とは?

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

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