史跡・城跡

四万十川の戦い~渡川の古戦場~長宗我部元親の土佐統一、一領具足とは?

四万十川古戦場



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四万十川の戦い

四万十川の戦い(しまんとがわのたたかい)は、
天正3年(1575年)7月に勃発した
長宗我部氏と土佐一条氏の戦いです。
この合戦により、
長宗我部元親の土佐(高知県)統一が決定的となりました。
別名は渡川の戦いとも呼ばれております。

【所在地】
〒787-0050 高知県四万十市渡川1丁目1

【一条家の衰退】
戦国時代、
土佐西部の幡多地方(現四万十市一帯)には
藤原北家五摂家の流れを汲む
名門・一条氏が国司として下向していました。
その高貴な家筋によって周囲の豪族を従え、
和をもって勢力を誇っていたのでした。
けれども天文・永禄年間に入り、
一条兼定の代になる頃には、
毛利氏の干渉による河野通直との戦いや
長宗我部氏の台頭により領域を脅かされ、
国内における一条氏の影響力は失われつつありました。

【一条兼定、豊後へ逃げる】
一条兼定は土佐東部の安芸国虎と結んで
長宗我部元親に対抗しましたが、
その安芸国虎も八流の戦いで滅ぼされると、
四万十川以東の豪族は次々と長宗我部に降り、
一条氏の影響地域は
四万十川下流域以西に縮小してしまいました。
こうした状況によって次第に遊興に耽り
国政を省みなくなった一条兼定は、
主君を諌めようとした重臣である土居宗珊を
無実の罪で手討ちにするなど家臣の信望も失います。
その結果、天正2年(1574年)2月、
家臣団の反乱によって土佐を追放され、
妻の実家である大友氏を頼って豊後へと逃れました。
なお、これら一連の経過には
長宗我部元親による流言、調略も成果を挙げているとのことです。

お雪供養塔~一条兼定の想い人~

【一条兼定、戻る】
幡多地方はほとんど戦闘によらず、
長宗我部氏の統治するところとなりました。
翌年の天正3年(1575年)、
一条兼定旧領回復を目指し九州から戻りました。
そして伊予宇和島で挙兵し、
旧臣を従えて本拠地の土佐中村に復帰します。
すると一条家への義を感じる土豪が帰参し、
その兵力は3500に達したとのことです。
これによって一条氏と長宗我部氏との
軍事的衝突は避けられない情勢となり、
四万十川河口部の西岸、
栗本城に入った一条兼定は
四万十川に杭を打ち込ませ、
地形を利用した迎撃の構えを取ったのでした。

【合戦の内容】
【長宗我部、短期間で大勢の兵力!】
まず一条方が四万十川以東の集落や
中村城の城下町を襲って挑発しました。
すると長宗我部元親はわずか3日後に
7300の軍勢を率いて四万十川東岸に現れました。
短期間で多勢を揃えて進軍してきた
様子を見た一条方は驚いたとされています。

当時は常備軍の制度が一般化していませんでした。
更に、田植えの時期を過ぎており、
兵力となる民の多くが半農半兵であったので
農業から離れることもままならず、
影響があったと推測されます。

この半農半兵から一歩進んだ
一領具足制度の有効性を証明する出来事であります。

【本格的な合戦へ】
両軍は四万十川を挟んで東西に対陣します。

まず長宗我部方の第一陣が正面から渡河を試み、
数に劣る一条方は後退しつつ
弓矢や鉄砲を浴びせて応戦したとのことです。
ここですかさず、
長宗我部方の第二陣に控えていた
福留儀重率いる手勢が北へ向かい、
障壁となる杭がない上流から
迂回する動きを見せたとのことです。
二方面からの挟撃を恐れた一条方は隊を分け、
上流に向かった福留隊を追いましたが、
この隙を逃さず、
長宗我部元親は残った全軍に一斉渡河を命じました。

少ない兵力をさらに分散させ、
寄せ集めで指揮系統も乱れていた一条方に、
正面から倍以上の兵力で迫る
長宗我部軍を迎え撃つだけの力はありませんでした。
ほどなく総崩れとなったとのことです。
更に追撃を受けた一条方は200余名の死者を出して敗走。
一方の長宗我部方に被害は少なく、
土佐の覇権がかかった四万十川の戦いは、
数刻で決着したとのことです。
夕方になる前には
首実検を終えることができたと伝わっています。




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【合戦後】
この戦いで一条兼定は(再び)逃げ延び、
瀬戸内での隠遁生活の末に
10年後に43歳で没しています。
一方、土佐を完全に掌握した長宗我部元親は
各地を転戦して四国に覇を唱え、
天正13年(1585年)頃、
四国のほぼ全域に勢力を拡大しました。
けれどもその直後、
豊臣秀吉の侵攻を受け、
土佐一国の大名として豊臣家に降りました。

<場所>
四万十川橋(赤鉄橋)を渡ったすぐのところです。
「具同公園」の一角に石碑があります。
駐車場はありません。
石碑近くに停車して短時間で撮影しました。

【一領具足】

一領具足(いちりょうぐそく)は、
戦国時代の土佐国の戦国大名である長宗我部氏が
兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成し、
運用した半農半兵の兵士および組織の呼称です。
「土佐物語」では、
死生知らずの野武士なりと書かれているそうです。

【説明】
一領具足は、平時には田畑を耕し、
農民として生活をしていますが、
領主からの動員がかかると、
一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、
直ちに召集に応じることを期待されていました。
突然の召集に素早く応じられるように、
農作業をしている時も、
常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、
一領具足と呼称されたとのことです。
また正規の武士であれば予備を含めて
二領の具足を持っていましたが、
半農半兵の彼らは予備が無く、
一領しか具足を持っていないので、
こう呼ばれていたとも言われています。
このような半農半兵の兵士であるので、
一領具足は通常の武士が行うべき仕事は
免除されていたそうです。

【一領具足の水準】
農作業に従事しているために、
身体壮健なものが多く、
また集団行動の適性も高かったため、
兵士として高い水準にあったと推測されています。
けれども、その半農半兵という性質上、
農繁期の動員は困難であり、
長期にわたる戦役には
耐えられなかったとも推測されています。
兵農分離によって農繁期でも
大規模な軍事行動を起こせるようになった
織田氏などの勢力とは、
全く逆の方向に進化した軍事制度といえます。

【考案者】
一領具足を考案したのは
長宗我部国親と言われています。
ただし、
家臣の吉田孝頼という説もあるそうです。
もっとも積極的かつ効率的に
一領具足を運用したのは、
長宗我部国親の子の長宗我部元親です。

【長宗我部氏のその後】
長宗我部元親は精強な一領具足を率いて
四国統一を果たしましたが、
豊臣秀吉による四国征伐によって、
長宗我部元親の領地は大幅に削減され、
土佐一国のみとなってしまいました。
さらにその後の関ヶ原の戦いでは、
家督を継承していた元親の四男である
長宗我部盛親が西軍に与したため、
戦後、所領は没収され改易となってしまいました。




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【土佐は山内一豊へ】
長宗我部家の後継として土佐を与えられたのは
山内一豊でした。
しかしながら長宗我部家の遺臣団は
新領主の登場を必ずしも歓迎しませんでした。

浦戸一揆
竹内惣右衛門を中心とする一領具足は、
浦戸城の引渡しを拒否し、
長宗我部盛親に旧領の一部(土佐半国という)
を与えることを要求したとのことです。
50日間に及ぶ頑強な抵抗を行ったとのことです。
山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣。

遺臣団側は浦戸城に篭城して抵抗しましたが、
城内の裏切りによって開城し、降伏しました。
273人の一領具足が斬首され、
その首は塩漬けにされて
大坂の井伊直政のもとへ送られたということです。

<浦戸城>
浦戸城跡

【上士と下士】
その後も高石左馬助を中心とする滝山一揆など、
一領具足による反乱が勃発しましたが、
山内家はこれを鎮圧し、
やがて一領具足を中心とした長宗我部遺臣団を、
藩士(上士)以下の身分である
郷士として取り込みました。

山内家は懐柔策として名家だった者の一部を
上士として取り立てたり、
のちに郷士の一部を
上士扱いの白札とするという
弾力的な制度も取りました。

なお、幕末の志士及び土佐藩郷士である
武市半平太は祖父の代より白札郷士でした。

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