鎌倉殿の13人

運慶~日本彫刻史上最も有名な人物でその作風は力強く躍動的で写実的です。

東大寺南大門金剛力士像



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【運慶】

運慶(うんけい、生年不詳 –
貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけて活動した仏師です。

【運慶の生涯】
【出生】
運慶は興福寺を拠点に活動していた
奈良仏師康慶の子でありますが、
詳しい生い立ちは分かってはいません。
円成寺大日如来像造像銘中に
「大仏師康慶実弟子運慶」とあり、
この「実弟子」は
「実子である弟子」の意と解釈されています。
長男である湛慶が
承安3年(1173年)生まれであることが、
京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の
台座銘から知られており、
その父である運慶は
12世紀半ば頃の生まれと推測されています。

【初期の活動】
運慶の現存最古作は、
安元2年(1176年)に
完成した奈良・円成寺の
円成寺木造大日如来坐像です。
寿永2年(1183年)には、
以前から計画していた
「法華経」の書写を完成させました。
この「法華経」は
現在「運慶願経」と呼ばれています。
(京都・真正極楽寺蔵および個人蔵、国宝)
経の奥書には48名もの結縁者の名が記され、
その中には快慶をはじめ、
実慶・宗慶・源慶・静慶など
後に仏師として活躍することで
知られる者が含まれており、
一門をあげての
写経だったことがわかっています。

【興福寺再興事業への参加】
治承4年(1180年)に
平家の兵火により、
奈良の東大寺・興福寺が焼亡していまいます。
興福寺の再興造像は、
円派、院派と呼ばれる京都仏師と、
康慶・運慶らの属する慶派の
奈良仏師とが分担しました。
当時の中央造仏界での勢力にしたがい、
円派・院派のほうが
金堂・講堂のような主要堂塔の造像を
担当することとなりました。
奈良仏師では運慶の父である康慶が
南円堂の造仏を担当し、
本家筋にあたる成朝は
食堂(じきどう)の造仏を
担当することとなったとのことです。

興福寺 南円堂

鎌倉幕府への接近】
成朝は、なぜか食堂本尊の造像に
専念しませんでした。
文治元年(1185年)に
「吾妻鏡」によりますと
源頼朝の勝長寿院本尊阿弥陀如来像を
造るため鎌倉に下向しています。
一方、運慶は文治2年(1186年)
正月の時点で
興福寺西金堂本尊釈迦如来像
の造像に携わっていましたが、
その直後、成朝の動向に
連続するかのように、
鎌倉幕府関係の仕事を開始したのでした。
その年5月3日には、
北条時政発願の
現在の静岡県伊豆の国市にある
願成就院の阿弥陀如来像、
不動明王及び二童子像、
毘沙門天像を造り始めています。
(阿弥陀如来像を除く各像像内に
納入の五輪塔形銘札)。
またその3年後となる
文治5年(1189年)には、
和田義盛発願の現在の
神奈川県横須賀市にある
浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、
毘沙門天像を造っています。
(不動明王・毘沙門天像像内納入の月輪形銘札)

願成就院 境内

【東大寺での仕事】
治承4年(1180年)の
南都焼討で主要伽藍を焼失した
東大寺復興造仏には、
康慶を中心とする奈良仏師が携わっています。
建久5年(1194年)から
翌年にかけて、
東大寺南中門二天像が
造立されましたが、
このうち西方天担当の小仏師として
「雲慶」の名が記録にみえるとのことです。
建久7年(1196年)には
康慶の主導で、快慶、定覚らとともに
東大寺大仏の両脇侍像
(如意輪観音、虚空蔵菩薩)と
大仏殿四隅に安置する約14mに及ぶ
四天王像の造立という大仕事に携わります。
運慶は父である康慶とともに
虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、
四天王像のうち増長天の大仏師を
担当しました。
(「鈔本東大寺要録」「東大寺続要録」)
以上の諸像はその後建物とともに
焼失して現存はしていません。
(快慶作金剛峯寺像、
海住山寺像をはじめ
大仏殿像の形式を模したといわれる
四天王像が多く造られ、
「大仏殿様四天王像」と称される)
現存するこの時期の作品としては
建仁3年(1203年)造立の
東大寺南大門金剛力士(仁王)像があります。
造高約8.5mに及ぶ巨像2躯は、
1988年から1993年にかけて
解体修理が実施されました。
その結果、阿形像の持物の
金剛杵内面の墨書や
吽形像の像内納入経巻の奥書から、
運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の
4名が大仏師となり、
小仏師多数を率いて
わずか2か月で造立したもの
であることがあらためて裏付けられています。
4人の大仏師の役割分担については
諸説ありますが、運慶が両像の制作の
総指揮にあたったものと考えられています。
この功績により、
建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、
運慶は僧綱の極位である
法印に任ぜられました。
これは奈良仏師系統の仏師として
初めてのことであったとのことです。

東大寺 桜

承元2年(1208年)から
建暦2年(1212年)にかけては、
一門の仏師を率いて、
興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の
諸像を造りました。
(「猪熊関白記」、弥勒仏像像内納入品)。
これらのうち弥勒仏像、
無著菩薩・世親菩薩像が
北円堂に現存し、
運慶晩年の完成様式を伝えています。
殊に無著・世親像は肖像彫刻として
日本彫刻史上屈指の名作に
数えられているとのことです。




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同堂四天王像はいまは
平安時代初期造立の木心乾漆像に
替わっていますが、
興福寺南円堂に伝来した
四天王像が本来の
北円堂像であった可能性があるとのことです。

最晩年の運慶の仕事は、
源実朝北条政子北条義時など、
鎌倉幕府要人の関係に限られています。
その中で、建保4年(1216年)には、
源実朝の養育係であった大弐局が発願した、
神奈川・称名寺光明院に
現存する大威徳明王像を造りました。

【作風】
平安後期に都でもてはやされた
定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、
浅く平行して流れる衣文、
円満で穏やかな表情、
浅い肉付けに特色があり、
平安貴族の好みを反映したものでした。
これに対して運慶の作風は、
何と言っても男性的な力強い表情が特徴的です。
また、様々な変化をつけた衣文、
量感に富む力強い体躯なども
特色として挙げられます。

【運慶作と確定している作品】
<奈良・円成寺 大日如来坐像>
(国宝)
安元2年(1176年)10月。
運慶の真作として確認できる最初の作品です。
手は智拳印を結びますが、
その位置は一般的な
大日如来像よりかなり高く、
それによって胸の前に
複雑な空間が生じています。
また、条帛をわざわざ別材で
接ぎ合わせ、より現実に近い
造形を試行しています。
台座蓮肉天板裏面に
運慶自署と思われる墨書銘があり、
これに拠り運慶は本像を
11か月かけて制作し、
仏像本体の代金として
上品8丈の絹43疋を
賜ったことがわかるとのことです。
当時この仏像のような
等身大の像の制作期間はおよそ
3か月程度とされています。
それよりも遥かに長い日数をかけて
造仏していることから、
運慶が他の仏師の助力を得ず
独力で制作したと考えられています。
願主ではなく仏像を作った仏師自らが
名を記した現存最古の例としても
貴重なものとなっています。
この銘文は大正10年(1921年)に
発見され、近代的な運慶研究の端緒となりました。

<静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像
不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像>

(国宝)
文治2年(1186年)
(不動・二童子・毘沙門天像像内納入木札墨書)。
5体は2013年(平成25年)に
国宝に指定されました。

<神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、
不動明王立像、毘沙門天立像>

(重要文化財)
文治5年(1189年)
(不動・毘沙門天像像内納入木札墨書)。
像底に「上げ底式内刳り」
を採用した最初の例となります。
一般に寄木造の仏像は、
内部を入念に内刳りして
椀を伏せたような構造になっています。
納入品は台座の上に置かれ、
それに被せるように
仏像が安置されます。
そのため火事などの緊急事態に遭うと、
像だけが救い出されても
納入品はそのまま置き去りに
されて失われてしまいがちでした。
そこで運慶は、内刳りに際して
膝の上の高さで
像の底を刳り残して、
納入品が像内に封入されるように
工夫したとのことです。
単純な工夫ではありますが、
他派の仏師たちが
この構造を採用するようになるのは
鎌倉時代後半になってからでした。




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<奈良・東大寺南大門 金剛力士立像>
(国宝)
建仁3年(1203年)。
運慶が中心となり、
快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作。
(「東大寺別当次第」、
阿形像持物金剛杵墨書、
吽形像像内納入経巻奥書)

東大寺南大門金剛力士像

<奈良・興福寺北円堂諸仏 >
建暦2年(1212年)。
「猪熊関白記」の記事により
運慶一門の作であることがわかっています。
弥勒仏及び両脇侍像、四天王像、
羅漢像2体(無著・世親像)の計9体の群像でした。
ただし、両脇侍像は失われ、
四天王像も所在不明となりました。
(もと興福寺南円堂に安置され、
同寺中金堂へ移動した四天王像を
旧北円堂像とする説もあります。
弥勒仏像台座反花内側の墨書に
各像の担当仏師の名が記されていますが、
判読不能箇所が多く、全容は不明です。

興福寺北円堂

<弥勒仏坐像>
(国宝)
運慶の指導のもと
源慶、□慶(1字不明、静慶か)らが制作しました。

<無著菩薩・世親菩薩立像>
(国宝)
運慶の指導のもと運□(1字不明)らが制作。
銘文に判読不能箇所がありますが、
運慶の5男運賀、6男運助らが関与したと推定されています。

以上の諸像の制作には、
複数の仏師が分担して関与してはいますが、
近現代の美術作品のように
個々の芸術家の作品ではなく、
工房主宰者である
運慶の作とみなされています。

<神奈川・称名寺光明院 大威徳明王像>
(重要文化財)
建保4年(1216年)(像内納入文書)。
東寺講堂の模刻像で現在は水牛座が亡失し、
同時に製作された大日如来像、
愛染明王像は現存はしていません。
空海作として子院一ノ室に伝来しました。

【運慶作と強く推定される作品】
作風、納入品、伝来などから
運慶ないし運慶工房作であることが
強く推定される作品としては
次のものがあるとのことです。

<奈良・興福寺 木造仏頭>
(重要文化財)
文治2年(1186年)。
興福寺西金堂(廃絶)旧本尊であった
釈迦如来像の頭部です。
仏頭のほか、仏手と、光背に
もと付属していた
飛天・化仏が残っています。
「類聚世要抄」に西金堂釈迦像を
運慶が造立したことが記されていますが、
これと現存の仏頭等との
関連についてはなお
慎重な見方があるとのことです。

興福寺 木造仏頭
(興福寺国宝館リーフレットより)

<和歌山・金剛峯寺 八大童子立像>
(国宝)
建久8年(1197年)。
「高野春秋」。
ただし、8体のうち2体は
南北朝時代の補作です。

<京都・六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像>
(重要文化財)
運慶が京都に建立した
地蔵十輪院の旧像とする説があります。




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<栃木・光得寺 大日如来坐像>
(重要文化財)
建久10年(1199年)以前。
東京国立博物館寄託。
栃木県足利市にあった樺崎八幡宮旧蔵で、
同八幡宮の前身である
樺崎寺に伝わったものと
推定されています。
樺崎寺を建立した
足利義兼の没年である
建久10年(1199年)が
制作の上限とされていますが、
異説もあります。

<愛知・滝山寺 聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像>
(重要文化財)
正治3年(1201年)(「滝山寺縁起」)

<東京・宗教法人真如苑蔵
(半蔵門ミュージアム保管) 大日如来坐像>

(重要文化財)
建久4年(1193年)。
もと個人蔵でした。
2008年3月に
クリスティーズ社の
オークションに出品され、
真如苑が三越に依頼して
1280万ドル(約12億5千万円)で入手。
その後東京国立博物館への
寄託(7年間)を経て、
東京都千代田区の半蔵門ミュージアムで公開。
「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」に見える、
樺崎寺安置の厨子に
建久4年(1193年)銘のあった
大日如来像に当たるもので、
その作風やX線写真によって
知られる像内納入品の状況から
運慶作品と推定する説があります

【運慶作とする説がある作品】
運慶の作とするには
確実性を欠くものや、
運慶派の流れをくむ
鎌倉期の仏師の作品として
文化財指定されているものには
次のものがあります。

<奈良・東大寺俊乗堂 俊乗上人(俊乗房重源)坐像>
(国宝)
建永元年(1206年)。
造像に関する直接の史料はありませんが、
「元亨釈書」などの
後世の資料や
その作風から運慶の作とする見方があります。

<奈良・興福寺 四天王立像>
(国宝)
もと興福寺南円堂に安置され、
同寺中金堂へ移動した四天王像です。
本来の安置堂宇については
諸説ありますが、
北円堂の無著・世親像と同じく
珍しくカツラが
材に使われていることなどから、
興福寺北円堂の旧像とする説があります。
とすれば、運慶指揮下に
運慶子息4人が分担して
(持国天-湛慶、
増長天-康運、
広目天-康弁、
多聞天-康勝)
制作した像に該当することになります。

興福寺 中金堂

<神奈川・瀬戸神社 舞楽面>
(重要文化財)
建保7年(1219年)頃。
社伝では源頼朝または源実朝の所用で、
北条政子の寄進とされています。
裏面に運慶作の追銘があり、
作風は運慶に極めて近いものです。




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<伝・浄瑠璃寺(京都府)旧蔵 十二神将像>
(重要文化財)
建暦2年(1212年)頃か。
東京国立博物館
(辰神・巳神・未神・申神・戌神の5躯)
と静嘉堂文庫美術館
(子神・丑神・寅神・卯神・午神・酉神・亥神の7躯)
に分蔵されています。
鎌倉時代初期、
運慶周辺の有力仏師の
作であることには
諸家の説が一致しています。
する[注 3]。
像高3尺に満たない小像ながら
本格的な寄木造とし、
布貼下地に彩色を施す
入念作であること、
浄瑠璃寺が運慶とゆかりの深い
興福寺の末寺であったことなどから、
本群像を運慶その人の
作とみなす研究者もいます。
「絵画叢誌」7号(1882年)、
「國華」109号(1898年)、
同誌116号(1899年)など
明治時代の文献には
「運慶作」とされています。
明治35年(1902年)11月22日付の
「毎日新聞」に、
十二神将のうちの
いずれかの像の胎内に
「上坊別当筆、大仏師運慶」
の銘があるとの
記事があることが、
2012年に再発見されました。
ただし、解体修理等によって
当該銘記が確認されたわけではありません。
2017年には、12体のうち
亥神像の胎内に
運慶没後5年の
安貞2年(1228年)とみられる
墨書の存在することが確認されています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
相島 一之(あいじま かずゆき)さんが
演じられます。

東大寺に行ってきました!~朝がおススメです!午前7時30分より

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