徳川家臣

木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。

木曽義昌公(木曽)銅像



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木曾義昌

木曾 義昌(きそ よしまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。
信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主でした。
幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。
木曾義康の長子です。
弟に上松義豊がいます。
正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。
子に岩姫、千太郎、義利、義春、義通、
娘(毛利高政正室)などがいます。

【生誕】
天文9年(1540年)

【死没】
諸説あり

【別名】
義政

【墓所】
東漸寺(千葉県旭市網戸)

【官位】
左馬頭、伊予守

【主君】
木曾義康⇒武田信玄武田勝頼
織田信長北条氏直
徳川家康豊臣秀吉徳川家康

【氏族】
木曾氏(藤原姓)

【父】
木曾義康

【兄弟】
義昌、上松義豊、岩姫

【妻】
真竜院(真理姫

【子】
岩姫、千太郎、義利、義春、義通
娘(毛利高政正室)

【木曾義昌の生涯】
木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる
名族を自称していますが、
そのような内容の系図が
南北朝時代に作成されたのではないかと
指摘されているとのことです。
ただし直系の先祖は
藤原北家秀郷流を称しています。

【出自】
天文9年(1540年)、
木曾義康の嫡子として誕生しました。
当初は小笠原氏や村上氏らと共に
甲斐の武田信玄の信濃侵攻に
対抗していましたが、
弘治元年(1555年)に
更なる侵攻を受けて武田家に降伏しました。




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【武田信玄の娘・真理姫との婚礼】
木曾氏が隣接する美濃・飛騨との
国境地帯を押さえていたため、
武田信玄は、木曾義昌に
三女(四女または五女との異説あり)の
真理姫を娶らせ、
武田家の親族衆として木曽谷を安堵しました。
なお、この真理姫の輿入れについては、
同時代の確実な史料で
確認することはできません。
けれども実際には主だった家臣や
親族を甲府に人質として置き、
木曽の治世はすべて武田家の
監視の元で行われたのであって、
甲斐国の属国化を余儀なくされたのでした。
これにより木曾谷は、
武田家の美濃や飛騨への侵攻における
最前線基地となったのでした。
永禄3年(1560年)、
御嶽山に登拝して崇敬したことが
知られています。

【飛騨攻めと家臣・山村氏への恩賞】
元亀3年(1572年)秋、
武田信玄は西上するために、
木曾義昌に長坂峠を越えさせて、
日和田口(高根村)から
飛騨に攻め込ませて三木氏を攻撃させました。
土豪の檜田次郎左衛門尉は、
これを防いだものの戦死しました。
武田信玄は、この功績により、
木曾義昌家臣の山村良利と
子の山村良候に
美濃蘇原荘安弘見郷300貫と
千旦林村と茄子川村の地を与えたとのことです。

武田勝頼への不満】
天正元年(1573年)8月、
木曽義昌が美濃国恵那郡の
河折籠屋を攻め落とし、
さらに苗木遠山氏の苗木城を攻めました。
天正2年(1574年)には
武田信玄の命により
美濃国恵那郡の阿寺城を攻め、
城主の明照遠山氏の遠山友重は討死を遂げました。
武田信玄の死後、高天神城の戦いに敗北して
凋落を見せはじめた武田家の行く末に
不安を抱くと共に、
義兄の武田勝頼による
新府城造営の賦役増大と
重税に不満を募らせた木曾義昌は、
天正9年(1581年)8月26日に
苗木遠山氏の遠山友忠より
織田信忠からの武田攻めの
準備に関する書を送られています。

【武田勝頼からの離反とその代償】
天正10年(1582年)1月、
遠山友忠を通じて
織田氏の調略に応じ実弟である
上松義豊を人質に出し、
武田勝頼から離反しました。
これを契機に織田信長の
甲州征伐のきっかけを
作ることとなったのでした。
武田勝頼は人質として送られていた
70歳の母、側室、13歳の嫡男・千太郎、
17歳の長女・岩姫を新府城で処刑した上で
武田信豊を将とする討伐軍を
木曽谷に向けて派遣しましたが、
木曾義昌は地の利を得た戦術と
織田信忠の援軍を得て
鳥居峠でこれを撃退したのでした。




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【武田家滅亡後】
【織田信長への出仕】
武田家滅亡後は、
織田信長に出仕しました。
織田信長は木曾義昌に
梨子地の太刀と黄金100枚を与えました。
さらに信濃で二郡を与えるとの
内命を伝えたとされ、
深志城(後の松本城)に
城代を置いて木曽の他・
松本・安曇地方経営の拠点としました。
けれどもしかし僅か3ヶ月後に
本能寺の変が勃発すると、
信濃国内も新たな
支配権を巡って混乱となりました。
木曾義昌も北信濃の所領を放棄して
美濃へと逃げる森長可の命を狙いましたが、
企みに気付いた森長可に
木曽福島城に押し入られ、
逆に子の岩松丸(後の木曾義利)
の身柄を拘束されてしまいました。

【深志城を奪われる】
岩松丸を人質に取られたことで
木曾義昌はやむなく遠山友忠など
森長可をよく思っていなかった
近隣の諸将にも森軍に
手出しをしないように依頼して回り、
むしろ森長可の撤退を助ける役目を
負わされました。
また、変後の信濃の混乱を
好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が
越後国の上杉景勝の後援を受けて
前信濃守護・小笠原長時の弟である
洞雪斎を擁立し、木曾方は深志城を奪われ、
本領木曽谷へ撤退する羽目になったのでした。

天正壬午の乱
武田家の遺領を巡り
上杉景勝と徳川家康・北条氏直の三者が争うと、
木曾義昌は当初は北条氏直に
従っていましたが、
8月の甲州黒駒合戦での
小田原北条軍の敗北と、
旧主の織田信孝の意向を仰ぎ、
9月には徳川家康に寝返ります。
そして他の信濃国衆から集めた人質を引き渡し、
その代わりに再度安曇・筑摩両郡および
木曽谷の安堵を受ける約定を得ました。

小牧・長久手の戦い
ところが、徳川家康が小笠原長時の子である
貞慶の深志城復帰を認めたことから、
天正12年(1584年)、
徳川家康と羽柴秀吉の対立による
小牧・長久手の戦いに呼応して、
三男・義春を人質として羽柴秀吉に恭順。
徳川勢を妻籠城にて迎え撃ち、
撃退しています。
天正14年、豊臣秀吉と
徳川家康の講和により、
木曾氏を含めた信濃の諸将は
徳川家康の傘下に入り、
地方的な武将としての
木曾氏の独立性は失われたのでした。
豊臣秀吉の小田原攻めには
病床におり出陣はできませんでした。

【下総国阿知戸1万石】
天正18年(1590年)、
徳川家康の関東移封に伴い、
徳川家康から
下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)
1万石が与えられて木曽谷を退きました。
領主にとって木曾の土地資源は、
今日でも全体の九割五分を占める
山林であることから、
木曾の山林に着目した豊臣秀吉から
木曾を没収され
阿知戸を与えられたとする説もあります。
同年12月、下総国三川村に到着します。
東園寺に居住し、芦戸地域を整備し、
天正19年(1591年)3月、
芦戸城(阿知戸)に入ります。
城の南には市場を開けるように
町作りが計画されました。
天正18年12月12日、
千村良重に対して、
十日市・へびぞね700石の知行と
箕広66貫文の代官職をあてがいました。




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【名君として】
木曾義昌は貧しかった阿知戸の城下町や
道路の整備、湿地帯の灌漑工事、
田畑の開拓事業を推進し、
名君ともうたわれました。

【最期と墓所】
没年は、文禄4年(1595年)2月13日、
同年3月17日、
慶長元年(1596年)7月13日の三説があります。
家督は木曾義利が継承しました。
なお、東漸寺の供養は
3月17日に行っていると案内板にはあります。

法名は東禅寺殿玉山徹公大居士。
墓所は千葉県旭市網戸の
東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、
遺体は城の西方椿海に水葬され、
干潟になってから改めて墳墓をつくったのでした。

木曽義昌公 水葬跡石塔

寛文11年(1671年)、
椿海(椿湖)は干拓され
干潟8万石と称される田園地となりました。
現在、その一角に木曾義昌公史跡公園が造られ、
木曽義昌の銅像があります。

【子孫】
木曽義昌の死後、木曾義利は
叔父である上松義豊を殺害するなどの
乱暴な振る舞いにより、
慶長5年(1600年)に
改易に処されたとされています。
木曾義利は浪人し、その後蒲生氏を頼り、
蒲生氏の伊予松山転封に随行、
そのまま同地に居住したとされていますが、
阿知戸を退去した後の
木曾義利に関しては、
確たる史料に基づく消息は残ってはいません。
改易に際しても、
「下総国に流罪」とする説と単に
「追放」とする説があります。
また、寛永16年(1629年)に
伊予松山で没したとする説もありますが、
確証は無いとのことです。
その子の玄蕃義辰(よしとき)は
久松松平家に仕えましたが
後に故あって浪人し、
その子らは最終的には親族であった
千村氏・山村氏を頼り
後ろ盾に頼むことにより
尾張藩ほかに召し抱えられたとのことです。




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【真理姫と三男と四男】
木曾義昌には他に三男・義春(義成)と
四男・義一(義通)がいました。
義春は大坂の陣における
豊臣秀頼の浪人募集に応じ
大坂城に入って戦死しました。
義一は母の真竜院と共に
木曽谷で隠遁しとされていますが、
その後や子孫に関しては伝わってはいません。
が、その折の心情を切々と訴え
哀れを誘う書状が木曽には残されています。

真理姫は正保4年(1647年)に亡くなりました。
享年は98歳で、武田信玄の子供の中では
最長命とされています。
木曽の上村家敷地一角には
五輪塔からなるお墓があります。
また木曽福島の大通寺、
旭市の東漸寺にも供養塔があります。

【継承した木曾衆】
大名家としての木曽家は消滅しましたが、
その名跡と領地(総禄高16,200石にのぼる)は
家臣(親族)であった千村氏・山村氏などの
木曾衆が継承しました。
甥・義重の子である
上松義次は上杉定勝の近習となり、米沢藩に仕えたということです。

東漸寺(旭市)と木曽義昌公 水葬跡石塔~木曽義昌公と正室の真理姫の供養塔及び水葬跡石塔を訪ねました。

興禅寺にある木曽義仲公之墓、木曾義康・木曽義昌父子、山村氏歴代の墓地もあります。

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