【ジョン万次郎】
ジョン万次郎(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次郎)は
江戸時代末期(幕末)から明治にかけて
アメリカ合衆国と日本で活動した日本人です。
アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)
という愛称でも呼ばれていたそうです。
土佐国(現・高知県)出身でした。
帰国後は本名として
中浜 万次郎(なかはま まんじろう)を名乗りました。
なお、「ジョン万次郎」という呼称は、
昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した
「ジョン萬次郎漂流記」(井伏鱒二)
で用いられたことで広まったもので、
それ以前には使用されていなかったとのことです。
日米和親条約の締結に尽力し、
その後、通訳・教師などとして活躍しました。
【ジョン万次郎の人生】
【生まれと幼少期】
万次郎(旧字体:萬次郎)は、
文政10年1月1日(新暦換算:1827年1月27日)、
土佐国幡多郡中ノ浜村(なかのはまむら)
(幕藩体制下の土佐高知藩知行中ノ浜村。
現在の高知県土佐清水市中浜〈なかのはま〉に該当します。)で
半農半漁で暮らす貧しい漁師の家の次男として
生まれたとされています。
父親の名前は悦介(えつすけ)、
母親の名前はは汐(しお)といいました。
【9歳で家族を養い、読み書き覚える暇なし】
万次郎が9歳のとき父が亡くなり、
また、母と兄が病弱であったため、
幼い頃から働いて家族を養ったそうです。
寺子屋に通う余裕がなかったため、
読み書きもほとんどできなかったとあります。
10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに出ました。
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【14歳の時に漂流】
天保12年1月5日(1841年1月27日)、
早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)、
14歳になっていた万次郎は、
足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に
炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだそうです。
仲間の構成は、
船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、
筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、
同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、
もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、
そして炊係の万次郎(14歳)であったそうです。
ところが、万次郎達は足摺岬の
南東15キロメートルほどの沖合で操業中、
突然の強風に船ごと吹き流され、
航行不能となって遭難してしまいました。
5日半(資料によっては10日間)を漂流した後、
伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し、
この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら
143日間を生き延びたそうです。
【アメリカの捕鯨船に助けられる】
同年5月9日(1841年6月27日)、
万次郎達は、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が
新鮮な植物を調達しようと島に立ち寄った際、
乗組員によって発見され、救助されたそうです。
けれどもしかし、その頃の日本は鎖国していたため、
この時点で故郷へ生還する術はなく、
帰国の途に就いた捕鯨船に同乗したまま
アメリカへ向かわざるを得なかったのでした。
【ハワイで万次郎以外は下船】
翌年の天保13年(1842年)、
ハワイのホノルルに寄港した折、
救助された5名のうち万次郎を除く4名は
この地で船を降りています。
寅右衛門はそのまま移住し、
重助は5年後に病死、
筆之丞(伝蔵)と五右衛門は
のちに帰国を果たしたそうです。
【万次郎はアメリカ本土を目指す】
一方、ただひとり万次郎は捕鯨船員となって船に乗り続け、
アメリカ本土を目指すことになりました。
その理由としては、
船長のホイットフィールドに
頭の良さを気に入られたためでもあったようですが、
一番の理由としては、本人が希望した処遇であった模様です。
航海中の万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、
世界における日本の小ささに驚いていたとも。
【ジョン・マン】
また、航海中、アメリカ人の乗組員からは、
船名にちなんで
「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれたそうです。
【船長の養子としてアメリカライフを送る】
同年、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、
ホイットフィールド船長の故郷である
マサチューセッツ州ニューベッドフォードの
フェアヘブンに帰港しました。
当時この地はアメリカにおいて捕鯨の一大拠点でした。
アメリカ本土に渡った万次郎は、
船長の養子となって一緒に暮らすことになりました。
天保4年(1843年)にはオックスフォード学校、
弘化元年(1884年にはバートレット私塾で
英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んだそうです。
万次郎は、寝る間を惜しんで熱心に勉強し、
見事に首席となったとのことです。
民主主義や男女平等など、
日本人にとって新鮮な概念に触れる一方で、
人種差別も経験したとのことでした。
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【捕鯨生活と帰国】
学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選びました。
やがて船員達の投票により副船長に選ばれたとのことです。
弘化3年(1846年)から数年間は
近代捕鯨の捕鯨船員として生活していました。
【帰国に向けて金を採掘】
嘉永3年(1850年)5月、
日本に帰る事を決意しました。
帰国の資金を得るため、
ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、
サクラメント川を蒸気船で遡上し、
鉄道で山へ向かいました。
数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就きました。
【そして帰国に向けて出航】
そして、そこで得た
弗600の資金を持ってホノルルに渡り、
土佐の漁師仲間と再会したのでした。
1850年12月17日、
上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、
購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて
日本へ向け出航したのでした。
【帰国するも薩摩藩からの尋問】
嘉永4年(1851年)2月2日、
薩摩藩に服属していた琉球に
アドベンチャー号で上陸を図り、
番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られました。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、
薩摩藩の取調べを受けたのでした。
【薩摩藩からの厚遇】
薩摩藩では中浜一行を厚遇し、
開明家で西洋文物に興味のあった
当時の藩主である島津斉彬は自ら万次郎に
海外の情勢や文化等について質問したとのことです。
島津斉彬の命により、
藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、
その後、薩摩藩はその情報を元に
和洋折衷船の越通船を建造したとのことです。
島津斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、
後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いています。
【次は長崎へ】
薩摩藩での取調べの後、
万次郎らは長崎に送られ、
江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受けました。
長崎奉行所で踏み絵により
キリスト教徒でないことを証明させられました。
更に外国から持ち帰った文物を没収された後、
土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、
とうやく土佐に向ったのでした。
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【土佐へ、そして故郷への帰還】
高知城下において吉田東洋らにより
藩の取り調べを受け、
その際に中浜を同居させて
聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、
後に「漂巽紀略」を記しました。
約2か月後、帰郷が許され、
帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、
漂流から実に11年目にしてようやく
故郷に帰ることができたのでした。
【帰国後の活躍】
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、
藩校「教授館」の教授に任命されました。
この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを
教えていたとのことです。
【「中濱」姓、授かる】
嘉永6年(1853年)、
黒船来航への対応を迫られた幕府は
アメリカの知識を必要としていたことから、
万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、
直参の旗本の身分を与えられたとのことです。
その際、生まれ故郷の地名を取って
「中濱」の苗字が授けられました。
万次郎は江川英龍の配下となり、
軍艦教授所教授に任命されました。
造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、
同時に、英会話書「英米対話捷径」の執筆、
「ボーディッチ航海術書」の翻訳、
講演、通訳、英語の教授、
船の買付など精力的に働きました。
この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが
万次郎から英語を学んでいたとのことです。
【万次郎の結婚と周囲の思惑】
安政元年(1854年)、
幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚しました。
藩校「教授館」の教授に任命されましたが、
役職を離れました。
理由の1つとしては、中浜万次郎が
アメリカ人と交友することをいぶかしがる者が
多かったことにありました。
また当時、英語をまともに話せるのは
中浜万次郎1人であったため、
マシュー・ペリーとの
交渉の通訳に適任とされましたが、
オランダ語を介しての
通訳の立場を失うことを恐れた老中が
スパイ疑惑を持ち出したため、
結局ペリーの通訳の役目から下ろされたのでした。
けれども実際には日米和親条約の平和的締結に向け、
陰ながら助言や進言をするなど尽力しました。
万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、
西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案。
中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は
安政6年3月(1859年4月)、
品川沖を出港して小笠原諸島へと向かいました。
けれども暴風雨により船は損傷し、
航海は中止となりました。
【再びアメリカへ】
万延元年(1860年)、
日米修好通商条約の
批准書を交換するための遣米使節団の1人として、
咸臨丸に乗りアメリカに渡りました。
船長の勝海舟が船酔いがひどく、
まともな指揮を執れなかったため、
万次郎は代わって船内の秩序保持に努めたそうです。
万次郎はアメリカ人との交友を
日本人船員に訝しがられることを恐れ、
付き合い方には注意していたとされています。
サンフランシスコに到着後は、
使節の通訳として活躍しました。
帰国時に同行の福澤諭吉と共に
ウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰りました。
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【小笠原諸島等の開拓調査】
文久元年(1861年)には
外国奉行・水野忠徳に同行し、
小笠原諸島などの開拓調査を
咸臨丸を含む四隻の艦隊で行いました。
これは万次郎が小笠原付近に知識があったこと、
当時小笠原に住んでいた
アメリカ人やイギリス人との面識もあり、
通訳もできるために選ばれたそうです。
文久2年、幕府の軍艦操練所教授となり、
帆船「一番丸」の船長に任命されました。
翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行いました。
江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図したものの、
政情不安のため幕府の許可が下りず、
翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に
英語の教示を行ったりしたとのことです。
【土佐藩の開成館設立準備】
慶応2年(1866年)、
土佐藩の開成館設立にあたり、
教授となって英語、航海術、測量術などを教えました。
また、藩命により後藤象二郎と
長崎と上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入しました。
慶応3年(1867年)、
薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、
航海術や英語を教授しました。
けれども同年12月、
武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻ってきました。
【明治維新・後の東大の英語教授に】
明治維新後の明治2年(1869年)、
明治政府により開成学校(現・東京大学)の
英語教授に任命されました。
【普仏戦争視察団、恩人に再会】
明治3年(1870年)、
普仏戦争視察団として大山巌らと共に
欧州へ派遣されましたが、
発病のため戦場には赴けずロンドンで待機していました。
帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し、
身に着けていた日本刀を贈ったそうです。
この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、
第二次世界大戦の最中にあっても展示されていましたが、
その後に何者かに盗まれ行方不明になり、
現在はレプリカが展示されているとのことです。
更に帰国途上にハワイにも立寄、
旧知の人々と再会を果たしました。
【脳溢血後は静かに暮らす】
帰国後に軽い脳溢血を起こしました。
数か月後には日常生活に不自由しないほどに
回復しましたが、以後は静かに暮らしました。
時の政治家たちとも親交を深め、
政治家になるよう誘われたそうですが、
教育者としての道を選びました。
【死去と墓所】
明治31年(1898年)、72歳で死去しました。
現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、
墓石は東京大空襲で傷ついてしまったとのことです。
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【社会的影響】
嘉永5年(1852年)、
土佐藩の絵師・河田小龍(川田維鶴)により
漂流記「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」が
まとめられました。
中浜万次郎から聞いた世界観に影響を受けた一人に
坂本龍馬がいると言われています。
アメリカの様々な文物を紹介し、
西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた
幕末の志士や知識人達に
多大な影響を与えたとされています。
これらのことから激動の幕末における
万次郎は影の重要人物であるとも言われています。
【人物】
おごることなく謙虚で、
晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、
役人に咎められても続けていたそうです。
好物の食べ物は、甘いものや、
うなぎの蒲焼だったという逸話が残っています。
外国の文物を説明する際、
鉄道など言葉に置き換えて説明することが難しいものは
絵を描いて図解を試みたそうですが、
絵が不得意で幼児並の絵を描くことしか出来ず、
ずいぶん苦労したとも伝えらえています。
【万次郎が持ち込んだ「日本初」】
◆「ABCの歌」⇒日本に初めて紹介。
◆「ネクタイ」⇒日本で初めてネクタイをした人物ともいわれています。
◆「鉄道・蒸気船」⇒初めてこれらの乗り物に乗った日本人。
◆「捕鯨」⇒日本人で初めて近代式捕鯨に携わった人物。
◆「ゴールドラッシュ」⇒
日本人で初めて
アメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わりました。
◆「新アメリカ航海術」を和訳。
【ジョン万次郎と英語】
<発音>
ジョン万次郎は、
英語を覚えた際に耳で聞こえた発音を
そのまま発音していました。
これは現在の英語の発音辞書で教えているものとは
大きく異なっているとのことです。
けれども、実際に現在の英米人に
中浜万次郎の発音通りに話すと、
多少早口の英語に聞こえるものの、
正しい発音に近似しており
十分意味が通じるという
実験結果があるとのことです。
<文章の和訳は不得手>
万次郎は武士階級ではなく漁民でした。
また幼い時より、寺子屋に通わず、
働いていました。
従って、少年期に漢文などの
基本的な学識を身につける機会がないまま
米国に渡ったため、口語の通訳としては有能でしたが、
一方で文章化された英語を日本語(文語)に
訳することが不得手だったそうです。
そのため西洋の体系的知識を
日本に移入することが求められた明治以降は
能力を発揮する機会に恵まれなかったとされています。
晩年にアメリカ時代の友人が訪ねてきましたが、
すでに英語が話せなくなっていたそうです。
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【ジョン万次郎生家】
平成22年10月31日、
茅葺木造平屋建ての生家が復元されました。
入場無料・年中無休・午前8時から午後5時まで。
【所在地】
高知県土佐清水市中浜
<場所>
青印が復元された生家です。
道がかなり狭く、また専用の駐車場はありません。
路駐をされて見学されている方が多いです。
【ジョン万次郎資料館】
【開館時間】
午前8時30分~午後5時
定休日 無し
【料金】
大人⇒440円(団体:350円)
小中学生⇒220円(団体:180円)
(団体は15名以上同一入場)
◆福祉割引
県内高齢者(長寿手帳持参者)、
障害者
(身体障害者手帳・
療育手帳・精神障害者保健福祉手帳、
戦傷病者手帳又は被爆者健康手帳)を提示ください。
及び上記手帳を保持者の介護者1名
大人⇒220円
小中学生⇒110円
【所在地】
〒787-0337 高知県土佐清水市養老303
【電話】
0880-82-3155
【交通アクセス】
◆土佐くろしお鉄道中村駅より車(バス)で約45分
◆土佐清水市街地から車(バス)で約5分
<場所>
青印は駐車場出入り口付近。
公式サイトです⇓⇓
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