鎌倉殿の13人

稲毛重成と枡形城~秩父一族で畠山重忠とは従兄弟、相模川の橋を架橋したと伝わる人物です。




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稲毛重成

稲毛 重成(いなげ しげなり)は
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。
鎌倉幕府の御家人で
桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族です。
武蔵国稲毛荘を領しました。
父は小山田氏の祖である小山田有重
畠山重忠は従兄弟にあたります。

【生誕】
不詳

【死没】
元久2年6月23日(1205年7月11日)

【改名】
小山田重成、稲毛重成、道全(法名)

【別名】
小山田三郎、稲毛三郎、
稲毛入道、小沢入道

【墓所】
神奈川県川崎市多摩区 広福寺

広福寺と稲毛三郎重成

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
源頼朝源頼家源実朝

【氏族】
桓武平氏良文流
秩父氏、小山田氏、稲毛氏

【父】
小山田有重

【兄弟】
重成、榛谷重朝、田奈有朝、
小山田重親、森行重

【妻】
北条時政の娘

【子】
小沢重政、女(宇都宮頼綱室)、
女(綾小路(源)師季室)

【生涯】
当初、小山田重成を名乗っていました。
父である小山田有重は兄の畠山重能と共に
秩父一族の争いである
大蔵合戦において勢力を強め、
保元の乱・平治の乱後に
平家の郎党として在京しました。

治承4年(1180年)8月の
伊豆における源頼朝挙兵では
平家方として源頼朝と敵対しましたが、
同年10月、隅田川の長井の渡しにおいて、
畠山重忠ら秩父一族と共に
源頼朝に帰伏し、
御家人として東国に下向したと
見られています。
その後、源頼朝の正室である
北条政子の妹を妻に迎えました。

多摩丘陵に所在した武蔵稲毛荘は
保元の乱以前に立荘され、
稲毛重成は源頼朝から
これを安堵され進出しました。
「吾妻鏡」において稲毛重成は
榛谷御厨に進出した弟の榛谷重朝とともに
「小山田」姓で呼ばれていますが、
寿永3年(1184年)以降には
「稲毛」姓で呼ばれ、
この頃に進出したと見られています。
また、同荘の枡形山に
枡形城(現生田緑地)を築城したということです。

枡形城址

「吾妻鏡」によりますと、
養和元年(1181年)、
前年に所領として加えられた
多磨郡の土地が、
本来は平太弘貞の所有である事が発覚し、
源頼朝の怒りを受けます。
「吾妻鏡」では翌年の
養和2年4月5日に
源頼朝が江ノ島参詣の帰路に
金洗沢において催した
牛王物に際して恩賞を賜っており、
この頃には赦免したと見られています。
文治3年(1187年)、
弓術の行事に参加し、
源頼朝より弓三張が下賜されています。
神鳥前川神社を創立しています。

鎌倉時代の山城・丘城

治承・寿永の乱においては
秩父一族は畠山重忠、
稲毛重成・榛谷重朝兄弟らが
東国へ参陣しており、
稲毛重成は榛谷重朝とともに
寿永3年(1184年)正月の
木曾義仲追討において
宇治方面を進んだ源範頼の軍に加わっており、
続く一ノ谷の戦いにおいても活躍しています。




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【河越重頼の死と奥州合戦と上洛】
文治元年(1185年)10月、
源頼朝の弟である源義経
後白河法皇と結び源頼朝に反旗し、
同年11月12日には
源義経の舅である河越重頼が
所領を没収され殺害されています。
これにより秩父氏の家督は
畠山重忠が継承し、
稲毛重成の立場も向上したとのことです。
文治5年(1189年)7月には、
榛谷重朝とともに源義経を匿った
奥州藤原氏の討伐に参陣しています。
建久元年(1190年)の
源頼朝上洛に供奉。

【妻の死と出家】
建久6年(1195年) 6月、
源頼朝の再上洛に随行し、
その帰路、美濃国で妻の危篤を知ります。
源頼朝から駿馬が下賜され
急ぎ本領へもどります。
同年7月、
妻の病没を悲しみ出家して
法名を道全と名乗っています。
以降、稲毛入道、
小沢入道と呼ばれています。

広福寺 入り口

相模川にかけた橋】
建久9年(1198年)、
稲毛重成は亡き妻のために
相模川に橋をかけましたが、
この橋の落成供養に出席した
源頼朝は、帰りの道中で落馬し、
間もなく死去しています。
なお、大正1年(1923年)に
関東大震災の液状化現象によって
茅ヶ崎市下町屋1丁目の地中から
出現した「旧相模川橋脚」
(国の史跡および天然記念物)は、
稲毛重成が架橋した
この橋ではないかと考えられています。

旧相模川橋脚

【畠山重忠の乱と稲毛重成の誅殺】
元久2年(1205年)6月22日、
畠山重忠の乱が起こり、
北条時政の謀略によって
従兄弟の畑やな重忠が滅ぼされました。
その原因は稲毛重成の謀略によるもので、
稲毛重成が舅の北条時政の意を受けて
無実の畠山重忠を讒言したと謀られ、
翌23日、三浦義村によって
弟の榛谷重朝、その子・太郎重季、
次郎秀重が謀殺されてしまいます。
稲毛重成は大河戸行元によって殺害。
子の小沢重政は宇佐美祐村に討たれたのでした。

【政子が孫を猶子とする】
11月3日、
一族の小沢信重が乳母夫を務める
2歳の姫を伴って京から鎌倉を訪れます。
姫は源師季(綾小路師季)と
稲毛重成の娘の間の子で、
北条時政の外曾孫でもありました。
稲毛重成の災禍を恐れて
隠れ住んでいましたが、
哀れんだ北条政子が
綾小路の姫を自身の猶子として、
稲毛重成の遺領武蔵国小沢郷を与えました。
また、一族の大半が讃岐に落ち
現在の香川県まんのう町には
稲毛姓が残っているとのことです。

墓所は神奈川県川崎市多摩区の
館跡と伝わる広福寺にあります。
内室の北条政子の妹の墓も共にあります。

稲毛三郎重成の墓

<稲毛三郎重成之墓・内室之墓>
稲毛三郎重成之墓・内室之墓

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
村上 誠基(むらかみ まさき)さんが
演じられます。

【広福寺 (川崎市)】

広福寺(こうふくじ)は、
神奈川県川崎市多摩区にある
真言宗豊山派の寺院です。

【歴史】
承和年間(834年⇒848年)、
慈覚大師円仁によって開山されました。
その後、鎌倉時代
長弁阿闍梨によって中興されました。
当寺境内は鎌倉幕府御家人の
稲毛重成の屋敷跡であり、
稲毛重成が長弁阿闍梨を招聘して
中興したものであるとのことです。

広福寺(川崎市)

墓地の奥の方には、
稲毛重成の墓があります。
また本堂には、
稲毛重成の坐像と
稲毛一族の位牌が
祀られているとのことです。

広福寺(川崎市)

【文化財】
◆木造聖観音立像
(神奈川県指定重要文化財
昭和41年7月19日指定)

◆木造地蔵菩薩立像
(神奈川県指定重要文化財
昭和41年7月19日指定)

広福寺(川崎市) 境内

【所在地】
〒214-0032 神奈川県川崎市多摩区枡形6-7-1

【交通アクセス】
向ヶ丘遊園駅より徒歩10分程度。




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【駐車場】
参拝者用の駐車場の有無は未確認ですが、
付近の道路は道幅が狭いうえに、
急勾配と急カーブのある坂道で、更には
小田急線の踏切があり、
この踏切はすぐに遮断機が下ります。
お寺側の土地がほぼ山道となっています。
また専修大学が近くにあり、
大学生を含めた通行人の往来も多いです。

広福寺(川崎市) 猫

しかもこの付近のエリアは
時間帯によって
一方通行の道もあります。
このように車での通行は
それなりの高難度なので、
車でお越しの際には、
お寺とは小田急線の
線路を隔てた場所にある
コインパーキングに
駐車することをお勧めします。
お寺側よりも
小田急線の線路を渡った場所には
平坦な土地があり、
コインパーキングもあります。
ちなみに五反田川沿いにある
コインパーキングに停めました。
そこからご痰が側に架かる橋⇒
横断歩道⇒小田急線の踏切⇒
お寺迄歩きました。
踏切を渡ったすぐ目の前には
セブンイレブン川崎枡形6丁目店があります。
お寺のあとに更に坂道を上って
枡形城址(生田緑地)に行きました。

【枡形城】

枡形城(ますがたじょう)は
神奈川県川崎市多摩区にあった日本の城です。

【城郭構造】
山城

【天守構造】
なし

【築城主】
稲毛三郎重成

【築城年】
建久年間

【主な城主】
稲毛三郎重成、
小田原北条氏

【廃城年】
不明

【遺構】
堀切

【枡形城について】
枡形城は多摩丘陵の先端に位置し、
四方を断崖で囲まれた天然の要害の地です。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、
秩父党の流れをくむ
小山田有重の子である
稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、
江戸時代に書かれた
「新編武蔵風土記稿」に記されています。
それから戦国時代前期となる
室町時代の
永正元年(1504年)9月、
山内上杉氏の討伐を狙っていた
伊勢盛時北条早雲)が
軍勢を進めて今川氏親と共に
枡形城に入りました。
そして、扇谷上杉朝良を助けて、
山内上杉顕定の軍と
多摩川の河原で戦い、
激戦の末、山内上杉軍を破ったと
「宗長手記」や「松蔭私語」では記されています。

枡形城 枡形門

また、「新編武蔵風土記稿」では、
戦国時代真っ只中の永禄12年(1569年)、
甲斐の武将である武田信玄
小田原へ出兵してきた時、
この土地の豪族であった
横山式部少輔弘成は、
枡形山に土塁を築いて
小田原北条氏のために
守りを固めたと伝えています。

横山式部少輔弘成の墓も
前述の広福寺にあります。
横山式部少輔弘成の墓

戦国時代以降は廃城となり、
現在は生田緑地の一部となっています。
城跡には枡形山展望台が作られ
公園として保存されています。
展望台からは晴れていて空気が澄んでいれば
スカイツリーが見える、とのことです。

枡形山 展望台

【場所・地形】
小田急線向ケ丘遊園駅の西南
約800mの丘陵地に
枡形(ますがた)山があります。
山頂は東西130m、
南北80mで眺望もよく、
四方は容易に寄りつけないような
断崖で囲まれた要害の地をなしています。
枡形山という地名は、
こうした地形が枡の形に
似ていることから名付けられたともされています。
枡形山は天然の要害をなした山城として、
鎌倉時代から戦国時代の武将たちに
たびたび利用されてきたものと考えられます。

枡形山 山頂

【現在の枡形城】 
現在、枡形城跡は生田緑地の中に
公園として保存されています。
展望台、子供達の遊具、
男女別の水洗トイレがあります。
飲み物の自動販売機もあります。
山頂の広場には碑が建てられ、
郷土の生んだ文学者・伊藤葦天の句が刻まれてます。

生田領地 案内図
 
「馬場あとも やかたあとも 秋の風」
(引用:川崎市教育委員会HPより)

【歴史】
建久年間、稲毛三郎重成により築城されました。

永正元年(1504年)、
立河原の戦いの際には、
扇谷上杉方の援軍として出陣した
伊勢盛時(北条早雲)、今川氏親が入りましたる。

永禄12年(1569年)、
武田信玄の小田原攻め三増峠の戦い)に際し、
防衛のため横山式部少輔弘成が土塁を築きました。




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【所在地】
〒214-0032 神奈川県川崎市多摩区枡形6丁目26−1
(生田緑地内)

【交通アクセス】
小田急線
「向ヶ丘遊園駅」南口下車、徒歩15~20分程度。

【駐車場について】
「生田緑地」の駐車場はあります。
「東口駐車場」「西口駐車場」(いずれも有料)。
目的が「枡形城址(枡形山展望台)」
のみの場合は、
前述の「広福寺」の所をご覧ください。

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