史跡・城跡

玄葉尾城~賤ケ岳の戦いの柴田勝家の本陣~築城は柳ヶ瀬氏?朝倉方?佐久間盛政?朝倉家大敗の刀根坂のそば

玄蕃尾城



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玄蕃尾城
玄蕃尾城(げんばおじょう)は、
福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあった山城です。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、
柴田勝家の本陣が置かれた場所です。
1999年7月13日に
「玄藩尾城(内中尾山城)跡」として国の史跡に指定。
2017年4月6日、「続日本100名城」に選定されました。

<概要>
標高420mの柳ヶ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、
織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台となった刀根越がすぐ南にあります。
IMG_7527
また北国街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置。
さらに南側の行市山には、
中尾山と行市山を結ぶ軍道を整備したと伝わる
勝家の家臣・佐久間玄蕃允盛政の砦があったと伝わっています。
賤ヶ岳の戦いの際に勝家・秀吉の両軍が布陣した山城の中でも、
玄蕃尾城は空堀の深さ、土塁の高さが際立っており、
現在でもその遺構がよく残っています。
定期的な草刈り整備が行われており、
縄張り構造が非常によく分かる状態で維持されています。

<山城の構造>
基本構造は南北に並んだ主要な4つの郭から構成されています。
土橋で連結され、その広がりは南北約2250m、東西約150mです。
すべての郭を高土塁で囲み、
主要な部分は土塁と空堀の多重防御を施しています。
また、主郭には2つの馬出郭、1つの張出郭が備わっており、
腰郭も近傍に位置します。
主郭の北東隅には、方形の一段高くなった箇所があり、
櫓もしくは天守のような建造物があったと推定されています。
主郭部の南側には、
食い違いや曲がった隘路を設けた虎口郭が2つ直列しており、
刀根越からの敵を迎え撃つ造りとなっています。
主郭部北側の搦手の郭は最大の広さを持ち、
兵糧などの物資や兵の駐屯のためのスペースと推測されています。
全体として完成度が高く、山城の最高水準の到達点の一つであるといえます。

戦国時代の山城の構造が綺麗に残っているので、
訪れた方々は感激するそうです。

<歴史>
≪築城時期≫(A)(B)有り
(A)
朝倉氏の山城を勝家軍が整備』
ア:
15世紀、豪族柳ヶ瀬秀行が築城。
イ:
朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。
疋壇対馬守久保は疋田城を築城しています。
ウ:
朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。
エ:
天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。
オ:
天正10~11(1582~1583年)年頃、
羽柴秀吉との戦いに備え、
勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。




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(B)
『賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城』
賤ヶ岳の戦いに関わる出来事
天正11年(1583年)3月 勝家が中尾山に本陣を置く。
天正11年4月 秀吉が大垣に出陣した隙に、
勝家軍が進撃するも、反撃にあい、総崩れ、勝家は北ノ庄へ敗走。

玄葉尾城のある場所は
織田信長軍が逃げる朝倉勢を追撃した
「余呉」「柳ヶ瀬」「刀根坂」ルートにあります。
戦のための砦として整備を行い、
現在残っている遺構の多くは柴田勝家の時代だと
推測されますが、
玄葉尾城の前身として、朝倉が家臣が国境守護のために
築いていた砦である可能性は高い、と思いました。

また、それより以前、はるか昔からこの地に住んでいた
古代豪族の系統の「柳ヶ瀬秀行」が柳ヶ瀬山に城を築いた、という
記録が残っています。
けれども柳ヶ瀬秀行は京極家の内紛のために戦死してしまい、
一度お家が断絶しているため、
それ以上の事が不明です。
記録にある「柳ヶ瀬城」がどこにあるのかも不明です。
柳ヶ瀬秀行が築城したと伝わるほぼ同時期には、
朝倉氏の家臣の疋壇対馬守久保が
近くに位置する「疋田城」を築城しています。
「疋田城」と同様に「玄葉尾城」は交通の要に位置する場所。
初めからの築城は、
古くから住む一族が築いたのではないか・・と考えてしまいます。

【交通アクセス】
北陸自動車道敦賀インターチェンジ ⇒国道8号を滋賀方面へ
⇒ 福井県道140号⇒ 柳ヶ瀬トンネル手前の左手林道へ⇒
駐車場(ICから車で所要30分)⇒ 刀根越を経由し玄蕃尾城へ(徒歩30分)
柳ヶ瀬隧道碑付近
右側⇒柳ヶ瀬隧道碑
左側⇒玄葉尾城跡への林道(駐車場あり)
IMG_7532

<駐車場までの行き方>
柳ヶ瀬トンネル入り口に玄葉尾城の標識があり⇒
標識部分から林道へ入りましたら⇒
茶色の案内看板に沿って⇒
南へ約2km弱進みますと駐車場到着。
IMG_7529

<トイレと受付ポスト設置(続100名城のスタンプ)>
平成31年42日より、玄蕃尾城跡駐車場にトイレと受付ポストを設置。
平成31年度(令和元年度)は4月2日から11月末まで設置する予定。
(積雪状況により短縮する場合有)

敦賀市による国指定史跡 玄葉尾城の案内




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<地図>
柳ヶ瀬隧道碑付近

柳ヶ瀬隧道は信号があって、赤信号は何と6分30秒。
これはトンネル内は一方通行の為です。
林道から柳ヶ瀬隧道前に出ると丁度信号機があるそうです。
IMG_7528
<撮影ポイント>
玄蕃尾城(柳ヶ瀬トンネル)のトンネル手前入口入る

勿論、お時間・体力・気力・登城準備などを
されている方は実際に登城されることをお勧めします。
長袖・長ズボン・トレッキング用シューズ・ヒル除け・飲料水など
そして何と言っても・・・
<諸注意>
クマ出没!!!

鈴やラジオなど音を出る物を携帯して鳴らしながら登城することをお勧めします。

<続日本100名城スタンプ設置場所>
(1)林道突き当たり車止め見学受付ポスト

敦賀市による国指定史跡 玄葉尾城の案内

(2)余呉湖観光館
〒529-0521 滋賀県長浜市余呉町下余呉1938

【柳ヶ瀬トンネル(県道140号線)】
トンネルがある福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線は、
かつての日本国有鉄道北陸本線(鉄道営業末期は柳ヶ瀬線)の旧ルートで、
鉄道路線時代のトンネルを現在もそのまま使用しています。
従いまして、単線トンネルであったので幅員は車1台分ほどしかありません。
しかも灯火は少なく、ほぼ真っ暗な状態です。
かつてはトンネル内で対向車と鉢合わせになった場合、
トンネル内に2箇所ある離合箇所まで
どちらかがバックしなければなりませんでした。
現在は両入口に信号機を設置して交互通行となりました。
大型車、自転車などの軽車両、歩行者は通行できません。

<北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故>
鉄道トンネル時代の1928年(昭和3年)12月6日
勾配の続く山岳トンネルであった故に
機関車の空転により走行不能となりました。
やがて蒸気機関車の噴煙がトンネル内に充満し、
複数の乗務員が窒息死するという事故が起きてしまいました。
この事故を北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故といいます。




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朝倉景連
朝倉景連(あさくら かげつら)は、戦国時代の武将。
朝倉氏の家臣・同名衆・越前国朝倉山城主。
越前朝倉氏の家臣・朝倉景伝または
朝倉景宗の子として誕生しました。
代々一乗谷の奉行人として活躍し、
景連は主君・朝倉義景の頃に
前波景定、小泉長利、河合吉統らと共に執務にあたっています。
但馬国の赤渕神社に書状を送るなど
外交面でも貢献したと伝わっています。
弘治元年(1555年)の朝倉宗滴を総大将とした
加賀一向一揆攻めに従軍、津葉城を落とす活躍を見せています。
永禄4年(1561年)4月6日に、
義景が犬追物を開催した際に、
奉行職に任じられた景連は500余人の家来と共に、
主君の義景を上回る豪勢な主従の出で立ちで現れ、
周囲を驚かせています。ま
た、永禄5年(1562年)に
義景の妻・近衛殿ノ御息女の叔父・大覚寺儀俊を
もてなすために開かれた宴の記録にも、景連の名が記されています。
永禄9年(1566年)を最後に奉行人から名が消え、
永禄11年(1568年)の足利義昭の義景邸御成りの際に
伺候した同名衆の中に見当たらず、入っていないことから、
この頃に没したのではないかと推測されています。

佐久間盛政
佐久間 盛政(さくま もりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
織田氏の家臣。御器所西城主。御幸塚城主。大聖寺城主。初代金沢城主。
佐久間氏の一族。官途および通称は玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称されました。
佐久間盛次の子。
佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたります。
天文23年(1554年)、
尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれました。
「身長六尺」(約182センチメートル)と『佐久間軍記』に記されてあり
かなりの巨漢であったそうです。
織田家臣時代は戦に明け暮れていました。
永禄11年(1568年)の観音寺城の戦い(対六角承禎)が初陣となります。
天正3年(1575年)、叔父・柴田勝家が
越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めるようになります。
天正8年(1580年)11月、
加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、
加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えらます。

鳥越城の戦いなどで「鬼玄蕃」へ
天正9年(1581年)、勝家が安土城に赴いた留守を狙って
上杉景勝らが加賀に侵入し、白山城(舟岡城)を攻め落とします。
この時、救援に向かった盛政が到着したときには
既に落城していましたが、盛政はそのまま上杉軍に挑みかかり、
これを破ってしまいました。
また、二度敗北を喫するなど苦戦したものの加賀一向一揆を壊滅させています
(鳥越城の戦い)。
この際の戦ぶりにより「鬼玄蕃」と恐れられるようになったと伝わります。

<賤ケ岳の戦い>
柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、
天正11年(1583年)ついに近江国余呉湖畔で対陣します。
当初、両者は持久戦の構えを取っていましたが、
従兄弟で勝家の養子でありながら
秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が
密かに盛政の陣に駆け込み、
秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えます。
そこで盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案。
はじめは、これに反対した勝家でしたが、
盛政の強い要望により妥協し、
「砦を落としたらすぐ戻る」という条件つきで承諾。
盛政の急襲作戦は見事に成功し、
盛政は賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導きます。
盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、
次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかりました。
そして賤ヶ岳砦の陥落も間近になりました。

<形勢逆転>
ところが、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、
日没頃より砦から退去する筈だった桑山隊と合流して
攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗します。
この機を待っていた秀吉が、
かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきます
(美濃大返し)
よって盛政は敵中に孤立し、前田利家らの部隊が撤退したため、
盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれてしまいます。
結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、
盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとします。
けれども、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられます。




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<最期>
浅野長政に「鬼玄蕃と称されたのに、なぜ自害しなかったのか」と言われましたが、
源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、
木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成した」
と言い返し、周囲を納得させたそうです。
秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので
家臣になれと強く誘いますが、
盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、
秀吉の好意を感謝しながらも拒否して死罪を要求します。
秀吉は盛政の説得を諦め、
その心情を賞賛してせめて武士の名誉である切腹を命じますが、
盛政は敗軍の将として処刑される事を望みます。
更に秀吉に
「車に乗せ、捕縛されている様を上下の者に見物させ、引き回してほしい。
秀吉殿の威光も更に天下に響き渡るでしょう」と述べたそうです。
秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈りますが、
盛政はこれも拒否して、戦場のように目立ちたい、とのことで、
大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を希望します。
秀吉は希望通りの新小袖2組を与えたとあります。
その後、宇治・槙島に連行されて斬首されました。
享年30とも27,29とも伝わります。

<子孫>
盛政には虎姫という娘がいました。
秀吉の命により中川清秀の次男秀成に嫁ぎ、
豊後岡藩主の妻となります。
その縁で盛政の菩提寺は、大分県竹田市の英雄寺です。
秀成は虎姫の死後、5男の内記に
盛政の家を復興させようと佐久間勝之(盛政の弟)の娘と結婚させましたが、
中川家の事情や二人の間に子も出来ずにいたので離縁します。
勝之の娘はその後、岡藩・家老職の一つ熊田家の熊田藤助
(後に中川姓を藩主より下賜され中川資重と改名)と再婚します。
その子が佐久間姓を継ぎ、現在その子孫が大分県にいらっしゃるそうです。

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