【神梅城(深沢城)跡】
神梅(かんばい)城、または深沢城といいます。
【形態】
崖端城(山城)
【標高(比高)】
362m( 60m )
【築城主】
阿久沢氏
【築城(開始・完了)年】
永禄年間(1558年~1570年頃)
【廃城年】
天正18年(1590年)頃か
【主な城主】
阿久沢氏、由良氏、阿久沢氏
【遺構】
曲輪、土塁、堀、切岸
【神梅城跡について】
神梅(深沢)城は阿久沢氏の居城として知られています。
阿久沢氏は渡良瀬川上流域とその山間部を拠点として、
沼田から赤城山東側山麓を通り関東平野に抜ける
「根利通(ねりみち)」と呼ばれる地域を支配していました。
よってこのことから上杉氏・由良氏・北条氏に囲まれ、
従属先を変えつつも自立性を保っていました。
豊臣秀吉の「小田原征伐」では阿久沢氏は
小田原城に籠城しましたが、降伏後は帰農し、
城も廃城となりました。
現在城址には正圓寺があり、
寺の南西の崖に面した低い位置が本丸跡です。
遺構として、
土塁や堀を確認することができます。
また正圓寺には阿久沢氏代々の墓があります。
【所在地】
〒376-0143 群馬県桐生市黒保根町宿廻563
【駐車場】
正圓寺と道路を隔てた本丸跡の上に
駐車スペースがあります。
【場所や地形】
渡良瀬川支流の深沢川に面した
断崖の上に築かれています。
正圓寺の南西の崖に面した低いところに本丸があります。
現在は看板が設置されています。
従って二の丸よりも低い位置にあります。
土塁はなく、幅の広い空堀が
周囲に巡らされてあります。
本丸の南側は、空堀が帯曲輪のような形状で回りこみ、
外側の崖に面して土塁があります。
南西の端より下側に降りる道があります。
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【城と歴史と阿久沢氏】
阿久沢氏が支配した、
赤城山東麓を沼田へ抜ける根利道(ねりみち)の入り口。
築城年代は概ね永禄年間(1558年~1570年)頃に
阿久沢氏によって築かれたとされています。
根利道は沼田~桐生をショートカットで結ぶ山道ですが、
今でも集落があります。
上杉謙信にとっては新潟から関東へ進撃する場合、
前橋が敵の手に落ちる可能性を想定すると、
この道の重要度はかなり増すこととなります。
【上杉謙信と根利道】
天正2年(1574年)、
上杉謙信が越山(毎年恒例の謙信の関東出陣を越山と言う)し、
膳城、山上城、女淵城を落とし、
北条方である太田金山城・由良氏を攻めに向かう際に、
神梅城(深沢城)に詰め寄ったとされています。
この一帯を治める阿久沢氏は服属を申し入れてきましたが、
上杉謙信側はこれを信用せず、
上杉の手の者を深沢城に押さえとして置いたとされています。
阿久沢氏は険しい根利道を熟知した黒川衆のまとめ役でした。
上杉謙信にしてみれば支配駐留には難しい土地であり、
彼らを敵に回せば根利道の利用が困難になるため、
気軽に攻め滅ぼすわけにも行かなかったと推測されています。
【由良氏との対立】
元亀4年(1573年)。
阿久沢氏や松島氏ら黒川谷(渡良瀬川上流)を
拠点とする武士たち(黒川衆/神梅衆)は
桐生氏に従っていましたが、
その桐生氏が由良氏に滅ぼされました。
けれども、もともと桐生氏からも半独立状態だった
黒川衆の武将たちは、独自に北条や上杉とも通じていました。
上杉謙信の軍が去った数年後、
黒川衆は由良氏と直接衝突し、
深沢城一帯での合戦もあったとのことです。
其の後天正7年(1579年)には和解してその配下となり、
北条⇒由良⇒黒川衆の関係となったとのことです。
天正12年(1584年)、
由良氏が北条と敵対した時には、
阿久沢氏は北条氏側の武将として
由良氏の五覧田城を攻略し、
その功で北条氏から所領を安堵されました。
これにより、北条氏から見れば、
戦国大名である由良氏と同格ということになりました。
その後の阿久沢氏は、
北条氏が真田氏の沼田領を攻める争いに、
毎回加わっていました。
けれども、真田の老臣・矢沢頼綱の守る沼田城が、
たびたび押し寄せた北条の軍勢に敗北することは、
ありませんでした。
そして天正18年、
小田原の役で北条氏が滅びると、
北条氏方として小田原に参戦していた阿久沢氏も没落し、
神梅城(深沢城)も廃城となりました。
【阿久沢氏】
阿久沢氏(あくざわし/あくざわうじ)は、
上野国勢多郡苗ヶ島、黒保根、
宿廻などを本貫地とした武家でした。
愛久沢、悪澤、芥澤とも。
本姓は不詳です。
のちに藤原氏、清和源氏桃井氏とも称していたとされています。
宮城村及び赤城山東麓勢多郡東村、
黒川谷黒保根村の小領主の姓。
出自については、三善氏流、在原氏流、藤原九条氏家流、
清和源氏 桃井氏族、安倍氏裔など諸説あるそうです。
【阿倍氏説】
平安後期、前九年の役で
源義家に敗れ捕虜となった安倍宗任らの引き連れた朗党、
もしくは鳥海行任(松島氏)らを都まで
連れて行くことが出来ずに上洛途中、
上野国山中渡瀬渓谷に至りました。
大軍を引き連れての上洛は不可能なので愛久沢(あくざわ)、
松島両氏の一族家臣80~90人ほどはこの地に残り
大半の従者達は奥州に帰ったとされていますが、
一部はそのまま住み土着したとのことです。
源義家は奥州と都の中継地点として、
文書その他の連絡用務を果たすよう諭し、
両氏にこの地の永代安堵証文を授けたとのことです。
愛久沢氏が西隣の黒保根村を、
松島氏が東村を支配したそうです。
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【桃井氏説】
また室町時代に桃井氏(足利氏の庶流)の流れをくむ
愛久沢信濃前司の子息、
出羽七郎直純が初めて愛久沢を称したとされています。
桃井一族は南北朝時代は一族は
南朝方・北朝方に別れて戦いました。
南北朝統一後も新田氏及び一族は
討伐の対象でしたが、
足利持氏が恩赦で隠れ住んでいた出羽七郎直純に
旧領安堵したため持氏に足利鎌倉で仕えたとされています。
永享の乱ののち上野国赤城山に戻ったとされています。
【戦国時代以降】
戦国時代以降は永録4年の関東幕注文には
桐生衆の中に阿久沢対馬守が見え、
上杉謙信に属していました。
金山城主の由良氏と領地境で争っていました。
阿久沢氏の活動は黒川谷から赤城山麓を越えて
利根郡へと及んでいたとのことです。
また神梅城主であった阿久沢氏六代左馬助は
小田原北条氏方として黒川谷を支配し、
永禄12年の越相同盟交渉の際、
沼田へ向かう北条方使節の送迎にかかわり、
帰属した際に初めは『愛』久沢から、
『阿』久沢へと姓を改めたとのことです。
阿久沢氏第七代、阿久沢能登守道伴の代、
天正2年に上野国に進出してきた上杉謙信に
神梅城(深沢城)を追われましたが、
天正12年に弟の彦次郎らとともに城を奪回しています。
天正18年、小田原城陥落後、
神梅(大間々町)の同地にて帰農しました。
この他一族には群馬県前橋市宮城の阿久沢氏が
末裔とのことです。
<地図>
青印は正圓寺の駐車スペースです。
本丸跡は青印の下の方向です。
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