鎌倉殿の13人

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

鎌倉 井戸



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北条時房

北条 時房(ほうじょう ときふさ)は
鎌倉時代初期の武将です。
北条時政の子。
北条政子北条義時・阿波局の異母弟となります。
鎌倉幕府初代連署でした。

【連署】
連署(れんしょ)とは、
鎌倉幕府の役職です。
執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、
実質上の「副執権」となります。
元応3年(1224年)、
北条泰時が叔父の北条時房を任命したのが最初です。
幕府の公文書に執権と連名で
署名したためにこの名があります。
執権複数制とも称されます。

北条義時の死去の直後、
上横手雅敬によって連署の設置は
北条政子の死後に行われたことが
論証されたとのことです。
発足当初は連署という職名は存在しておらず、
初代連署であった北条時房もまた
「執権」として扱われていたとのことです。
鎌倉幕府には「両執権体制」が敷かれていました。
しかしながら、実質的には
北条泰時の権限の方が優越であったとのことです。
けれども、複数の執権体制が置かれたことは、
合議制を尊重する北条泰時の姿勢、
信条の反映であったのでした。
北条氏一門の中の有力者が就任しました。
連署は武蔵守に任官され、
相模守となった執権と共に
「両国司」(「沙汰未練書」)と呼ばれたとのことです。

【時代】
鎌倉時代初期

【生誕】
安元元年(1175年)

【死没】
延応2年1月24日(1240年2月18日)

【改名】
時連、時房、称念

【別名】
北条五郎、大仏殿

【官位】
遠江・駿河・相模・武蔵守、
正四位下

【幕府】
鎌倉幕府六波羅探題南方
連署

【主君】
源頼朝源頼家
源実朝⇒藤原頼経
【氏族】
桓武平氏、北条氏

【父】
北条時政

【母】
不明

【兄弟】
宗時、政子、義時、時房、
政範、阿波局、時子他

【妻】
正室:足立遠元の娘

【子】
時盛、時村、資時、朝直、
時直、時定、時広、
一条頼氏室、
北条朝時室、
安達義景室他

【北条時房の生涯】
文治5年(1189年)、
三浦義連(佐原義蓮)を烏帽子親に元服し、
時連(ときつら)と名乗りました。
同年、奥州合戦に従軍します。

【源頼家の側近として】
建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、
源頼家が第2代鎌倉殿になりますと、
蹴鞠に堪能なことから側近として随従しました。
源頼家が重用した比企能員の息子達とも
気脈を通じていましたが、
北条氏一門のための間諜の役割を
果たしていたとも考えられています。




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【「時房」と改名】
建仁2年(1202年)に時房と改名します。
時連から時房に改名した経緯について、
平知康から「時連」の「連」は
銭の単位を意味する「貫」を連想し
印象が悪いと指摘されており、
この平知康の発言を耳にした
源頼家から改名を提言されたという逸話があります。

【比企能員の変後】
建仁3年(1203年)の比企能員の変により
源頼家が追放されますが、
北条時房はこれに連座せず
北条氏一門として
次第に重きをなすようになるのです。

畠山重忠の乱】
元久2年(1205年)、
畠山重忠の乱では兄の北条義時と共に
畠山重忠討伐に反対しましたが、
父である北条時政の命により
関戸の大将軍として出陣したのでした。

【牧氏事件】
牧氏事件で父の北条時政が失脚しますと、
8月9日の臨時除目で叙爵し、遠江守に任じられました。

【武蔵守に就任】
同年9月21日に駿河守に遷任し、
承元4年(1210年)正月14日、
武蔵守となりました。
兄である北条義時は相模守であり、
北条氏は兄弟で幕府の枢要国である
武蔵・相模の国務を掌握したのでした。

和田合戦
建暦3年(1213)、
和田義盛が討伐された和田合戦にも従軍し、
若宮大路で奮戦し武功を挙げます。
戦後、その功績を賞され
上総国飯富の荘園を拝領します。

【源実朝の暗殺後】
建保7年(1219年)、
源実朝が暗殺されると上洛し、
朝廷と交渉を行った末、
摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて
鎌倉へ帰還したのでした。

【承久の乱】
承久3年(1221年)、
承久の乱では、北条泰時とともに
東海道を進軍して上洛しました。
北条泰時と同様に京に留まり、
初代六波羅探題南方となりました。

【六波羅探題】
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、
鎌倉幕府の職名の一つです。
承久3年(1221年)の承久の乱ののち、
幕府がそれまでの京都守護を改組し
京都六波羅の北と南に設置した出先機関です。
探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、
それまでは単に六波羅と呼ばれていたとのことです。

【六波羅探題の場所】
朝廷の動きをいち早く掴める
白河南の六波羅にあった
平清盛邸の跡地を拠点にしました。

【六波羅探題のはじまり】
北条泰時・北条時房の二人が
六波羅の北と南に駐留して、
西国の御家人の監視と再編成および
承久の乱の戦後処理を含めた
朝廷の監視を行いました。
これが六波羅探題の始まりとなります。

【探題の役職】
探題は執権・連署に次ぐ重職とみなされ、
伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が
選ばれて政務に当たったとのことです。
探題には北条氏一族でも
将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、
鎌倉に帰還後には
執権・連署にまで昇進する者が多くいたとのことです。

【兄の北条義時の死去と連署就任】
元仁元年(1224年)に
兄である北条義時が死去すると
先に鎌倉へ帰還した3代執権となった
北条泰時の招聘で鎌倉に戻り、
北条泰時を補佐するため請われて
同年初代連署に就任したのでした。

なお、「吾妻鏡」では
伊賀氏の乱最中の6月28日に
北条政子邸で大江広元の同席の下に
北条泰時と北条時房が「軍営御後見」に任じられ、
それが事実上の執権就任ともされています。

【主導権争い?】
当初は、北条氏の嫡男である北条泰時と
一門の長老である北条時房の間で
主導権を巡る争いがあったと見られています。
翌年の元仁2年(1225年)の元旦の
垸飯の沙汰を行った後に
一旦上洛しています。
けれども同年に大江広元と
北条政子が相次いで死去すると再び鎌倉に戻り、
以後は北条泰時と共に鎌倉で政務を執ったのでした。




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政所別当に就任】
貞永元年(1232年)に将軍である
藤原頼経が従三位に叙位されて
政所を設置できるようになると、
北条泰時と共に政所別当に就任しましたが、
北条泰時は筆頭の別当を北条時房に譲ったのでした。

【最期】
延応2年(1240年)1月に死去しました。
享年は66歳でした。
北条時房死去後の連署は
1247年に甥である北条重時が
就任するまで空席となりました。

【時房の死は後鳥羽上皇の祟り?】
 北条時房が亡くなる1年前の
延応元年(1239年)2月22日、
承久の乱で隠岐に流された
後鳥羽上皇が崩御しています。

同年の12月に急死した三浦義村と、
翌年1月の北条時房の急死は、
後鳥羽上皇の祟りと噂されたとのことです。

【北条時房の人となり】
容姿に優れていたとのことで、
所作もよく、源頼家、源実朝の和歌、
蹴鞠の相手をつとめました。
また後鳥羽上皇の前でも蹴鞠を披露し、
それを上皇より気に入られて
出仕するよう命じられ、
京都で活動していたことがあります。
この京都での活動、経験は、
後に北条時房が六波羅探題として
手腕を発揮する際に生かされたとのことです。

【北条泰時との関係】
北条泰時との関係についての
専門家の見解として
最高のパートナーであるとともに、
互いに最強のライバルでもあったという
評価があります。
互いに協調に努めながらも
必ずしも確執が無かった訳では
無いということです。
その評価されるに至る出来事として
嘉禄元年(1225年)
12月20日の出来事が上がっています。
この日、北条泰時主導で
宇都宮辻子御所への移転が行われ、
翌日の評定始の席で北条泰時が今後はすべて
賞罰は北条泰時自身で決定する旨を宣言します。
すると23日に北条時房は突然病気になり
29日に行われた藤原頼経の元服を欠席しています。
この北条時房の行動の意味は、
北条時房の北条泰時への
反発の意味を含んでいたとされています。

更にもう一つの出来事として
北条時房の没後、
北条泰時が六波羅探題を務める
北条時房の長男・時盛(後の佐介家)を排して、
自分の娘婿である四男・朝直(後の大仏家)
を重用しています。
これは北条時房流を分裂にさせて、
北条泰時流(後の得宗家)の安定化を
図っていると見られています。

【北条時房の逸話】
ある時北条泰時が病に罹患して重篤化します。
一方北条時房は同僚達を集めて
酒宴を催していました。
「泰時が危ういのに何故酒宴などできるのか」
と問い質されたところ、
北条時房は
「御家人を統率する泰時が生きているからこそ、
こうして酒宴に興じられる、
泰時が身罷っては、
おちおち酒宴もできなくなってしまう」
と語ったとのことです。




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【北条時房邸跡・小池民部屋敷跡】
<所在地>
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9

なお、小池民部とは
攝津守小池民部大夫藤原久時といいます。
源頼朝の招請に依り鎌倉に下向し、
この地に住んでいました。
代々、鎌倉神楽の伝承家として
鶴岡八幡宮の社官を務めていました。
現在もご子孫が鎌倉に暮らしています。
この場所に、
北条時房は居館を構え、
自身の一族とともに
居住していたとのことです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
瀬戸康史(せとこうじ)さんが演じられます。

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足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

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