鎌倉殿の13人

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

島根県の海




後鳥羽院

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、
1180年8月6日〈治承4年7月14日〉⇒
1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、
日本の第82代天皇
(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉⇒
1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。
諱は尊成(たかひら・たかなり)。

高倉天皇の第四皇子です。
母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)です。
後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たります。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られています。
鎌倉時代の承久3年(1221年)に、
鎌倉幕府執権の北条義時に対して
討伐の兵を挙げましたが、
朝廷側が敗北したため、
隠岐に配流され、延応元年(1239年)に
同地で崩御しました。

【神器なき即位】
寿永2年(1183年)7月25日、
木曾義仲の軍が京都に迫ると、
平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れました。
これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では
平家追討を行うべきか、
それとも平和的な交渉によって
天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで
意見が分かれたとのことです。
この過程で木曾義仲や源頼朝への
恩賞問題や政務の停滞を解消するために
安徳天皇に代わる「新主践祚(せんそ)」
(践祚とは皇嗣(こうし)が天皇の地位をうけつぐこと)
問題が浮上していました。
8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と
安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託しました。
結果は後者でしたが、
既に平家討伐のために新主践祚の意思を固めていた
後白河法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果を
ようやく得たということです。
後白河法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問しました。
九条兼実はこうした決断の下せない
後白河法皇の姿勢に不満を示しましたが、
天子の位は一日たりとも
欠くことができないとする立場から
「新主践祚」に賛同し、
継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、
その後剣璽を受けたとする先例があります。
(「継体天皇先例説」、
ただし「日本書紀」にはこうした記述はなく、
九条兼実の誤認とも考えられています)と勅答しています。
(「玉葉」寿永2年8月6日条)。
10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、
更に博士たちに勘文を求めました。
そのうちの藤原俊経が出した勘文が
「伊呂波字類抄」「璽」の項に用例として残されています。
「神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」
(現代語訳:ウキペディア)

と述べて、神器なき新帝践祚を
肯定する内容となっています。

【尊成親王を即位させる】
新帝の候補者として木曾義仲は
北陸宮を推挙しましたが、
後白河法皇は安徳天皇の異母弟である
4歳の尊成親王を
即位させることに決めました。
この即位については
丹後局の進言があったということです。
8月20日、
後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)
の院宣を受ける形で践祚し、
その儀式は剣璽関係を除けば
譲位の例に倣って実施されたということです。
即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、
同様に神器のないままに実施されたのでした。





【在位期間の重複】
安徳天皇が退位しないまま
後鳥羽天皇が即位したため
寿永2年(1183年)から平家滅亡の
文治元年(1185年)まで
在位期間が2年間重複しています。

【宝剣見つからず】
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、
神器のうち宝剣だけは海中に沈んだまま
ついに回収されることがありませんでした。
文治3年(1187年)9月27日、
佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて
捜索は事実上断念されたのでした。
以後も建久元年(1190年)1月3日に行われた
天皇の元服の儀なども
神器が揃わないまま行われたのでした。

【みなし宝剣】
承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、
すでに上皇になっていた後鳥羽天皇は
奇しくも三種の神器が京都から
持ち出される前月に伊勢神宮から
後白河法皇に献上された剣を
宝剣とみなすことにしたのでした。
けれども、後鳥羽天皇は
その2年後の建暦2年(1212年)になって
検非違使であった藤原秀能を
西国に派遣して宝剣探索にあたらせています。

剣と勾玉

【三種の神器が揃わないことが承久の乱の遠因?】
伝統が重視される宮廷社会において、
皇位の象徴である
三種の神器が揃わないまま
治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、
このことは一種の劣等感
であり続けたとのことです。
また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に
神器が揃っていないことと
天皇の不徳が結び付けられる場合があったのでした。
後鳥羽天皇は、こうした不徳や劣等感を
克服するために強力な王権の存在を
内外に示す必要があり、
それが内外に対する強硬的な政治姿勢、
ひいては承久の乱の遠因になったとする
考え方があるとのことです。

【後白河院政とその後】
建久3年(1192年)3月までは、
後白河法皇による院政が続きました。
後白河院の死後は関白である
九条兼実が朝廷を指導しました。
九条兼実は後白河法皇が忌避した
源頼朝への征夷大将軍の授与を実現しましたが、
源頼朝の娘の入内問題から
関係が疎遠となりました。
これは土御門通親の策謀によるといわれています。

竹藪

【建久七年の政変】
建久7年(1196年)、
土御門通親の娘に皇子が産まれたことを機に
政変が起こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、
九条兼実の娘である任子も
中宮の位を奪われ宮中から追われたのでした。
なお、この政変には源頼朝の同意があったとも
云われています。

後鳥羽上皇の院政】
建久9年(1198年)1月11日、
土御門天皇に譲位し、
以後、土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇と
承久3年(1221年)まで、
3代23年間に亘り
太上天皇として院政を敷きます。
上皇になると土御門通親をも排し、
殿上人を整理して
(旧来は天皇在位中の殿上人は
そのまま院の殿上人となる慣例でした)
院政機構の改革を行うなどの
積極的な政策を採り、
正治元年(11999年)の
源頼朝の死後も台頭する
鎌倉幕府に対しても強硬な路線だったのでした。

【名実ともに治天の君に】
建仁2年(1202年)に
九条兼実が出家し、土御門通親が急死しました。
既に後白河法皇も源頼朝も死去しており、
これで後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となりました。
翌年の除目は上皇主導で行われ、
藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記しています。
(「明月記」建久3年1月13日条)。
また、公事の再興・故実の整備にも
積極的に取り組み、
廷臣の統制にも意を注いだのでした。
その厳しさを藤原定家は
「近代事踏虎尾耳」
(「明月記」建暦元年8月6日条)と評しています。
後鳥羽上皇は水無瀬(みなせ)(大阪府三島郡島本町)や
宇治(京都府宇治市)などに華麗な離宮を営み、
あるいは各地へしばしば遊山旅行に出かけています。
熊野参詣は10か月に一度という頻度でした。
その途次で催された歌会の懐紙が
熊野懐紙とよばれて伝存しています。

宇治 平等院鳳凰堂

源実朝3代将軍になる】
その後、源千幡が3代将軍になると、
上皇が自ら「実朝」の名乗りを定めました。
(「猪隈関白記」建仁3年9月7日条)
源実朝を取りこむことで
幕府内部への影響力拡大を図り、
幕府側も子供のいない源実朝の後継に
上皇の皇子を迎えて政権を安定させるという
「宮将軍」の構想を打ち出してきたことから、
朝幕関係は一時安定期を迎えます。

【鎌倉幕府への反感と呪詛】
けれども上皇は、意のごとくならない
幕府への反感をしだいに募らせていったのでした。
承元2年(1208年)に詠まれた
「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」
という歌にも、
上皇のそうした心情を
読み取ることができるとのことです。
またその前年、上皇は
最勝四天王院を建立しましたが、
これは幕府を調伏あるいは
呪詛するためであったと伝えられています。

【源実朝の暗殺と朝幕関係の悪化】
そして承久元年(1219年)、
源実朝が甥の公暁に暗殺されると
幕府はかねての黙契によって、
後継将軍として上皇の皇子の東下を
要請しましたが、上皇はこれを拒絶。
幕府の瓦解を期待したのでした。
一方上皇は、寵姫の伊賀局の所領である
摂津国長江(兵庫県尼崎市)、
倉橋(大阪府豊中市付近)両荘の
地頭の廃止を要求しましたが、
幕府に拒否されました。
かくして上皇は、
順徳天皇や近臣たちと謀って、
武力による討幕計画を
推進することになったのでした。





【内裏守護・源頼茂の討死】
承久元年(1219年)、
内裏守護である源頼茂が
西面武士に襲われて内裏の仁寿殿に籠って
討死を遂げ、その際の火災によって
仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、
内裏内の多くの施設が焼失しました。
この原因については源頼茂が
将軍の地位を狙ったとする説や
源頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからなど
諸説あります。
このため、後鳥羽上皇は堀川通具を
上卿として内裏再建を進め、
全国に対して造内裏役を
一国平均役として賦課しました。
しかしながら、
東国の地頭たちはこれを拒絶しました。
よって最終的には西国からの費用で
再建されることになったのでした。
この背景として朝幕関係の悪化があったのか、
朝廷や幕府に強制的に徴収する力がなかったのか
については不明です。
この内裏再建が承久の乱以前に完成したのか、
乱によって中絶したのかについては
定かではありません。
けれどもこの内裏再建が朝廷主導による
内裏造営の最後のものとなったのでした。

【承久の乱】
承久3年(1221年)5月14日、
後鳥羽上皇は、時の執権である
北条義時追討の院宣を出し、
山田重忠ら有力御家人を動員させて
畿内・近国の兵を召集して
承久の乱を起こしました。
けれども幕府の大軍に完敗したのでした。

わずか2か月あとの7月9日、
19万と号する大軍を率いて上京した
北条義時の嫡男である北条泰時によって、
後鳥羽上皇は隠岐島に配流となりました。
(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)
父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、
関与しなかった土御門上皇も
自ら望んで土佐国に遷っていきました。
これら三上皇のほかに、
院の皇子である雅成親王は但馬国へ、
頼仁親王は備前国にそれぞれ配流となりました。
さらに、在位わずか3か月足らずの
仲恭天皇(当時4歳)も廃され、
代わりに高倉院の孫である
茂仁王が皇位に就き、
その父で皇位を践んでいない
後高倉院が院政をみることになりました。

【崩御】
後鳥羽院は隠岐に流される直前に
出家して法皇となりました。
「明月記」の記録によりますと、
文暦2年(1235年)の春頃には
摂政である九条道家が
後鳥羽院と順徳院の還京を提案しましたが、
北条泰時は受け入れませんでした。

四条天皇代の延応元年(1239年)2月20日、
配所にて崩御しました。
宝算は60歳でした。
同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られました。

島根県 夕暮れの海

【「後鳥羽院」の追号】
「平戸記」によりますと
北条泰時が死亡した
仁治3年(1242年)の6月に、
九条道家が追号を改めることを提案し、
あらためて「後鳥羽院」の追号を
贈ることとなったのでした。
ただし、これを提案したのは
土御門定通とする説もあるとのことです。
後高倉皇統の断絶によって
後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった
仁治3年(1242年)7月、
正式に院号が「後鳥羽院」とされたのでした。

 





【文武両道・多芸多能の人】
後鳥羽院は文武にわたって多芸多能でした。
中でも歌人としては当代一流であり、
「新古今和歌集」の撰定には自ら深く関与し、
琵琶、箏、笛、蹴鞠、囲碁、双六にも打ち込みました。
また流鏑馬、犬追物、相撲、水泳など武芸を好み、
北面に加えて西面の武士を置き、
さらには自ら盗賊追捕(ついぶ)の
第一線に加わったこともあったのでした。

文学の面においては、
「新古今和歌集」撰集に際し、
後鳥羽院自ら撰者らとともに
撰集の作業に加わり、
序・詞書(ことばがき)も後鳥羽院の立場で記し、
勅撰集中もっとも複雑長期にわたる
成立の歴史を有するものとなったのでした。
後鳥羽院は都でも隠岐でも
歌合を催し、都での華やかな新古今歌風に対し、
隠岐では
「軒は荒れて誰かみなせの宿の
月過ぎにしままの色やさびしき」などのように、
懐旧の念による切実な望郷の心情のみられる歌が多いです。
家集に「後鳥羽院御集」「遠島御百首」、
秀歌撰に「時代不同歌合」があります。
歌学書としては「後鳥羽院御口伝」があり、
藤原定家との和歌観の相違を知ることができます。
日記には「後鳥羽院宸記」があります。

【歌人として】
後鳥羽院がいつごろから
歌作に興味を持ちはじめたかは明らかではありません。
通説では建久9年(1198年)1月の譲位、
ならびに同8月の熊野御幸以降、
急速に和歌に志すようになり、
正治元年(1199年)以降盛んに
歌会・歌合などを行うようになったのでした。
後鳥羽院は当初から、
当時新儀非拠達磨歌と
毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、
ことにその中心人物だった
藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、
正治2年(1200年)7月に主宰した
正治初度百首和歌では、
式子内親王・九条良経・藤原俊成・慈円・
寂蓮・藤原定家・藤原家隆ら、
九条家歌壇の御子左家系の歌人に
詠進を求めています。
この百首歌を機に、
後鳥羽院は藤原俊成に師事し、
藤原定家の作風の影響を受けるようになり、
その歌作は急速に進歩していくのでした。
同年8月以降、正治後度百首和歌を召します。
対象となった歌人は
飛鳥井雅経・源具親・鴨長明・後鳥羽院宮内卿ら
後鳥羽院の近臣を中心とする新人でした。
この時期、後鳥羽院は熱心に新たな歌人を発掘して
周囲に仕えさせており、
これが後に九条家歌壇、御子左家の
歌人らとともに
代表的な新古今歌人として
成長する院近臣一派の基盤となるのでした。

【和歌の志を深めて】
2度の百首歌を経て
和歌に志を深めた後鳥羽院は
勅撰集の撰進を思い立ち、
建仁元年(1201年)7月、
和歌所を再興します。
寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、
源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、
藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、
源具親、藤原雅経、鴨長明、
藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)、
開闔(かいこう)は源家長です。

【千五百番歌合】
またこれより以前に
未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰しました。
当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、
歌合形式で判詞を加えるという
空前絶後の企画でしたが、
この歌合は、新古今期の歌論の充実、
新進歌人の成長などの面から見ても
日本文学史上大きな価値を持つとのことです。

【「新古今和歌集」撰進】
さらにこのような大規模な企画を経て、
同年11月には藤原定家、藤原有家、源通具、
藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、
「新古今和歌集」撰進がはじまりました。
同集の編集にあたっては、
「明月記」そのほかの記録から、
後鳥羽院自身が撰歌、配列などに深く関与し、
実質的に後鳥羽院が
撰者の一人であったことも明らかになっています。

【連歌での賭け事をした後鳥羽院】
また、室町時代の皇族である
貞成親王(後花園天皇実父)が著した日記
「看聞日記」応永31年2月29日条
(高松宮家旧蔵本)には
後鳥羽院の宸記(日記)のうち、
建保3年5月15日・19日および11月1日条の
一部が引用されているとのことです。
そこには、後鳥羽院が御忍びで
地下連歌の席に出向いて、
当時自らが出していた銭禁令
(宋銭禁止令)に反して
銭を賭けて勝利したこと、
後日このことを「見苦し」と
しながらも再び連歌で
賭け事をしたことが記されているとのことです。





【怨霊としての後鳥羽院】
配流後の嘉禎3年(1237年)に
後鳥羽院は
「万一にもこの世の妄念にひかれて
魔縁(魔物)となることがあれば、
この世に災いをなすだろう。
我が子孫が世を取ることがあれば、
それは全て我が力によるものである。
もし我が子孫が世を取ることあれば、
我が菩提を弔うように」との置文を記したとのことです。
(ウキペディアより)

また同時代の公家である
平経高の日記「平戸記」には
三浦義村や北条時房の死を
後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、
怨霊と化したと見られていました。
顕徳院から後鳥羽院への追号の変更は
そうした怨霊説の払拭の意味もあったと
考えられています。
けれども別の角度からの見方として
怨霊説は後鳥羽院が生前に志向していた
順徳天皇系による皇位継承には
有利な言説で、土御門天皇系である
後嵯峨天皇の即位に対する
批判の根拠に成り得たからとする
説もあるとのことです。

【皇室の菊紋のはじまり】
刀を打つことを好み、
備前一文字派の則宗をはじめとして
諸国から鍛冶を召して月番を定めて
鍛刀させたと伝えられています。
また自らも焼刃を入れ、
それに十六弁の菊紋を毛彫りしたということです。
これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶとのことです。
これが皇室の菊紋のはじまりであるとのことです。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条泰時~3代執権で道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した人物。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

糟屋有季~糟屋(糟谷)氏の所領は伊勢原市一帯で横山党とも繋がりがあります。糟屋氏一族の城所城跡があります。

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