【糟屋有季】
糟屋 有季(かすや ありすえ)は、
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将で、
鎌倉幕府の御家人でした。
相模国大住郡糟屋荘(現伊勢原市一帯)
の荘司である糟屋盛久の子です。
妻は比企能員の娘です。
【時代】
鎌倉時代前期
【生誕】
未詳
【死没】
建仁3年9月2日(1203年10月8日)
【別名】
藤太、有末
【官位】
兵衛尉
【幕府】
鎌倉幕府
【主君】
源頼朝、頼家
【氏族】
藤原北家良方流、糟屋氏
【父】
糟屋盛久
【妻】
比企能員の娘
【子】
有久、有長、久季、一条高能側室
【糟屋有季の生涯】
糟屋有季の父親である糟屋盛久は
治承4年(1180年)の源頼朝挙兵では、
平家方として石橋山の戦いで
大庭景親の軍に従っていました。
その後源頼朝に臣従したと見られています。
糟屋有季は寿永2年(1183年)、
源義経率いる源義仲討伐軍に属し、
宇治川の戦いに加わっています。
【源義経探索】
文治2年(1186年)、
失脚して都落ちした源義経探索のため、
比企朝宗の手勢に属して上洛し、
源義経の郎党である
佐藤忠信、堀景光を捕らえています。
文治5年(1189年)7月、
奥州合戦に従軍しました。
【梶原景時の変】
源頼朝死後の正治2年(1200年)、
梶原景時の変で
梶原景時討伐軍に属して賞を受け、
また梶原景時の朋友である
安房判官代隆重を捕らえています。
【比企能員の変】
建仁3年(1203年)9月2日、
比企能員の変が起こり、
比企能員の娘婿だった糟屋有季は
比企一族と共に北条義時率いる大軍と
戦って討ち死にしました。
糟屋有季が源頼家の子一幡を逃がすべく
小御所に立て籠もり、
敵方に命を惜しまれて逃げるように
呼びかけられたが答えず、
最後まで奮戦して討ち死にした様子が
「愚管抄」に記されています。
【糟屋有季の子供たち】
糟屋有季の子である糟屋有久らは
一条高能の側室となっていた
姉妹を頼って上洛し、後鳥羽上皇に仕えました。
「愚管抄」に小御所での糟屋有季の動きを
中心に記されているのは、筆者の慈円が、
上洛した糟屋有季の遺族の証言を
伝え聞いた事によるものと見られています。
【糟屋(糟谷)氏】
糟屋氏(かすやし / かすやうじ)は、
日本の氏族の一つです。
平安時代末期に相模国大住郡糟屋荘
(現神奈川県伊勢原市一帯)を本拠とした豪族です。
【藤原北家良方流】
系図によりますと、藤原良方の子の
藤原元方が、糟屋の地で土着して
糟屋氏の祖になったということです。
【元々は佐伯氏】
その元方は前九年の役で
源頼義の軍に従った
坂東武士の一人佐伯元方で、
婚姻か主従関係によって
藤原氏に姓を変え、
糟屋氏の祖となったと考えられています。
【糟屋庄の庄司】
その佐伯元方の孫の世代になる
糟屋盛季が安楽寿院公文別当であった
相模守の藤原親弘によって
院領荘園として成立した糟屋庄の
庄司として取り立てられました。
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【糟屋盛久】
糟屋盛季の孫の世代になる糟屋盛久も
相模権守として
国衙在庁官人荘官を務めています。
その子である糟屋有季は
源頼朝に臣従して
鎌倉幕府御家人として活躍しました。
糟屋有季が比企氏の女婿であった事から、
比企能員の変で北条氏と対立し、
糟屋有季は討たれ、
一族は鎌倉を去って京の朝廷で
後鳥羽院の武士として仕えました。
その後承久の乱で京方として敗北し、
糟屋有季の子らはことごとく
討ち死にしています。
しかしながら、
糟屋久季は生き延びた説があり、
その子孫に賤ヶ岳の
七本槍の1人に数えられている
糟屋武則がいるとも伝えられています。
【糟屋有季の兄弟たち】
また糟屋有季の兄弟が
糟屋庄の地名を名字とし分家しています。
四宮・新開(池端)・白根・伊木(沼目)・
城所・櫛椅(串橋)・善波などです。
これらは今でも伊勢原市及びその周辺の
地名としてあります。
<一族>
糟屋盛久(糟屋権守)
糟屋有季
糟屋有久⇒美丈夫だったらしい。
糟屋有長
糟屋久季⇒生き延びた説有り。
【横山党の糟屋氏】
武蔵七党のひとつ横山党からも
糟屋氏が出ています。
横山党の祖である小野(横山)義孝の孫である
横山経兼には、数人の男子がいました。
その嫡子である横山孝兼は横山氏を継ぎ、
二子の光致は金氏、三子盛経が
相模国大住郡糟屋庄に住して
糟屋次郎を称したとのことです。
糟屋盛経は鎌倉幕府に仕えて御家人となり、
筑後竹野庄小金丸の地頭になったとのことです。
もしかしたら、糟屋氏はある時から
横山党の糟屋氏になったのかもしれません。
住したところが一緒ですからね。
ちなみに糟屋盛久の妻は、
横山党本家の横山隆兼の娘です。
更に糟屋有季の弟である四宮光久も
横山党の横山時兼の娘を妻にしています。
そのため、和田合戦では、
和田義盛側についた糟屋一族がいます。
一方で北条側についた糟屋一族もいました。
【糟屋氏の居館跡】
糟谷有季(糟谷左衛門尉有季)の
館跡(糟屋館跡)は、
神奈川県伊勢原市の東海大病院東側にある
相模・丸山城(まるやまじょう)とされてきました。
相模・丸山城は平山城で、
別名は糟屋城・千鳥ヶ城とも呼ばれています。
標高は35m、比高は10mほど、
台地の先端にあり、
麓には低湿地帯を備えた要害で、
現在は主郭南側を国道246号線が
東西に貫通しています。
現在は丸山城址公園として
遊具も設置されるなど整備されており、
かなりの改変はされていますが、
公園内の主郭周囲には
土塁などが比較的良好に残されています。
2008年の発掘調査では、
堀幅約16m、深さ7.5mの
大規模な障子堀も確認され、
現在は埋め戻されています。
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国道246号の西側にある本郭と
考えられている丸山城址の発掘調査では、
鎌倉時期以外にも
戦国時代の頃の遺物も出ており、
あいにく「糟谷館」である
決定的な証拠は見つからなかったということです。
城域も、もっと広かったとされ、
東海大のほうから南側の台地集落にある
高部屋神社も、丸山城の一部だったと
推測されています。
【駐車場】
丸山城址公園に無料駐車場があります。
10台ほど駐車できます。
【トイレ】
あります。
【城所(きどころ)氏】
糟屋盛久の子供で、糟屋有季の
兄弟となる盛直(盛員)が
分家して城所氏を名乗ったとされています。
そして城所城を築城したとされています。
時代は南北朝時代である
観応年間(1350年から1352年)、
城所城主は城所藤五郎正揚であったそうです。
そして城所藤五郎正揚の子供である
城所直賢の代になって
城所氏は三河に移り、
その後は廃城になったと見られています。
なお、城所藤五郎正揚が
城所盛直(盛員)の直系の子孫であるが、
庶流の子孫であるか、
養子に入ったのかなど一切は
わかっていません。
【城所城跡(明王山浄心寺)】
浄心寺が開山される前、
観応(かんのう)年間(1350年)のころ、
城所には城所籐五郎正揚(きどころとうごろうまさやす)
という足利尊氏の家来が館を構えていました。
この館は現在の浄心寺境内に
あったといわれています。
当時の館の歴史的記録として、
正和3年(1214年)、
文和年間(1352年)頃の
板碑が3枚出土しています。
城所城(館)は糟屋氏の一族がこの地に移り住み、
城所氏を称して館を築いたのが
はじまりとされています。
約200年にわたってこの地を治め、
南北朝時代には足利尊氏に従って功を挙げると、
三河に所領を得て移り住んだということです。
戦国時代には岡崎城の東方の守備を固める
出城として使われたと推定されています。
城址は現在の浄心寺の背後にある
丘陵上にありましたが、
昭和41年(1966年)に
東海道新幹線建設に伴う
土砂採取のため
遺構はなくなってしまいました。
【縄張形態】
平城
【標高(比高)】
32m(22m)
【築城主】
城所盛直(盛員)か?
【遺構】
なし
【所在地】
〒254-0005 神奈川県平塚市城所375 浄心寺
【交通アクセス】
<電車・バス>
「バス亭」⇒「城所入り口」
◆小田急小田原線「伊勢原」駅南口⇒平塚駅北口行き
(平90)(平91)
(平89)(東海大学病院発)
(伊03)伊勢原車庫行⇒1時間に1本程度(昼間)
(伊18)高村団地行⇒1時間に1本程度(昼間)
(伊19)ふじみ野行⇒1時間に1本程度(昼間)
※「伊勢原」駅南口より徒歩30分程度。
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◆JR東日本・東海道線「平塚」駅北口⇒
伊勢原駅南口行
(平90)(平91)
東海大学病院行(平89)
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