鎌倉殿の13人

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

梶原御霊神社




梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
鎌倉幕府の御家人です。

石橋山の戦い源頼朝を救ったことから重用され
侍所所司、厩別当となりました。
また当時の東国武士には珍しく
教養があり、和歌を好み、
「武家百人一首」にも選出されています。
源義経と対立した人物として知られていますが、
源頼朝の信任が厚く、
都の貴族からは「一ノ郎党」
「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていたそうです。
鎌倉幕府では源頼朝の寵臣として権勢を振るいましたが、
源頼朝の死後に追放されてしまい、
一族とともに滅ぼされました。

梶原御霊神社 本殿

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
保延6年(1140年)?

【死没】
正治2年1月20日(1200年2月6日)

【別名】
平三(へいざ、へいぞう)

【墓所】
◆梶原山公園の梶原堂
◆鎌倉市深沢小学校敷地内の五輪塔
※事前に学校側の許可が必要です。
◆東京都大田区の万福寺
◆兵庫県南あわじ市の神宮寺

【幕府】
鎌倉幕府侍所所司、厩別当
十三人の合議制

【主君】
源頼朝→頼家

【氏族】
桓武平氏良文流鎌倉氏・梶原氏・酒匂氏

【父】
梶原景清

【母】
横山孝兼の娘

【兄弟】
景実、景時

【子】
景季、景高、景茂、景義、景宗、景則、景連

【梶原氏は鎌倉氏の一族】
梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ
鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族です。
曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で
源義家のもとで戦い、
武勇を謳われた鎌倉景正がいます。
梶原氏の祖である景久の従兄弟です。
梶原氏は大庭氏らとともに
源氏の家人でしたが、
平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていました。

<鎌倉景正(景政)夫妻を祀る梶原御霊神社>
梶原御霊神社 鳥居

大庭景義(景能)・大庭景親・梶原景時らは
いずれも鎌倉景政(景正)の3世孫となるそうです。

石橋山の戦い】
治承4年(1180年)8月、
源頼朝が挙兵して伊豆国目代である
山木兼隆を殺害しました。
梶原景時は大庭景親とともに源頼朝討伐に向い、
石橋山の戦いで寡兵の源頼朝軍を打ち破ります。
敗走した源頼朝は山中に逃れます。
但し「愚管抄」では
「サテ治承四年ヨリ事ヲ起シテ打出ケルニハ。
梶原平三景時。土肥次郎実平。
舅ノ伊豆ノ北條四郎時政。」とあり、
挙兵当初から実は源頼朝に従っていた
可能性があるとのことです。

大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索しました。
「吾妻鏡」によりますと、
この時、梶原景時は飯田家義ともども
源頼朝の山中の在所を知るも
情をもってこの山には人跡なしと報じて、
大庭景親らを別の山へ導いたということです。

梶原御霊神社 境内

【「源平盛衰記」より】
「源平盛衰記」ではより詳しく
この場面が述べられています。
敗軍の源頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長
6騎と、しとどの岩屋の臥木の洞窟
(現在の湯河原町)へ隠れました。
大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、
梶原景時がこれに応じて洞窟の中に入り、
源頼朝と顔を合わせました。
源頼朝は今はこれまでと自害しようとしますが、
梶原景時はこれをおし止め
「お助けしましょう。戦に勝ったときは、
公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、
洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、
向こうの山が怪しいと叫びました。
大庭景親はなおも怪しみ、
自ら洞窟に入ろうとしましたが、
梶原景時は立ちふさがり
「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。
入ればただではおかぬ」と詰め寄ったとか。
大庭景親は諦めて立ち去り、
こうして源頼朝は九死に一生を得たとのことです。

【安房国へ、そして鎌倉】
その後、源頼朝は安房国へ逃れて再挙し、
千葉常胤、上総広常ら東国武士が
続々とこれに参じて大軍に膨れ上がり、
10月には鎌倉に入っています。





【梶原景時、御家人になる】
源頼朝は平維盛率いる平氏軍を撃破し、
大庭景親は捕えられ斬られました。
12月に梶原景時は土肥実平を通じて
源頼朝に降伏します。
翌年の養和元年(1181年)正月に
源頼朝と対面し御家人に列しています。

【数々の役目を任される】
弁舌が立ち、教養のある梶原景時は
源頼朝に信任され、
鶴岡若宮の造営、囚人の監視、
御台所である北条政子源頼家の出産の奉行など
諸事に用いられました。
また時期は不明ですが、
梶原景時は侍所所司(次官)に任じられています。

【上総広常を誅殺】
寿永2年(1183年)12月、
上総広常と双六を打っていた梶原景時は、
にわかに盤をのりこえて
上総広常の頸をかき斬り討ち取りました。
上総音音広常に謀反の企てがあるとの噂があり、
源頼朝が梶原景時に命じて殺させたものでした。
後に謀反の疑いは晴れて源頼朝は後悔しましたが、
上総広常は鎌倉政権軍の中でも
飛びぬけて大きな兵力を擁しており、
そのために不遜な振る舞いが多く、
また上洛して平氏を倒すよりも
東国武士中心の関東での割拠を指向しており、
武家政権の樹立を目指す
源頼朝にとって危険な存在だったのでした。

【梶原景時の詳細な戦果の報告】
寿永3年(1184年)正月、
梶原景時父子は源義仲との宇治川の戦いに参陣。
源義経配下の嫡男である梶原景季は
佐々木高綱と先陣を争い武名を上げました。
戦後、源範頼・源義経・安田義定らは
戦勝を鎌倉へ報告しましたが、
いずれも「勝ちました」程度の
簡単なものだったそうです。
それに対して梶原景時の報告書だけが
源義仲の討ち取られた場所、様子、
おもだった敵方の武将の死者と
討ち取った者の名前など
詳細に戦果を記しており、
源頼朝はその事務能力や
実務能力の高さを喜んだとのことです。

明智光秀石田三成みたいですね。
このお二人も事務能力・実務能力が高く、
それ故に疎まれやすい御仁であった・・。

【所属を交替して「梶原の二度駆け」】
同年2月7日の一ノ谷の戦いでは
当初は梶原景時が源義経の侍大将で、
土肥実平が源範頼の侍大将になっていました。
しかし、各々気が合わず所属を交替しました。
源範頼の大手軍に属した
梶原景時、景季、景高父子は
生田口を守る平知盛と戦い、
大いに奮戦して
「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをしました。
合戦は源氏の大勝に終わり、
この戦いで梶原景季は平重衡を捕えています。





【5か国の守護を任命される】
2月18日、梶原景時は土肥実平とともに
播磨・備前・美作・備中・備後
5か国の守護に任じられました。

梶原景時は平重衡を護送して一旦、鎌倉へ戻ります。
4月に土肥実平とともに上洛して
各地の平氏所領の没収にあたりました。
8月に源範頼が平氏討伐のため鎌倉を発向し、
中国地方から九州へ渡る遠征に出ました。
この時源義経は源頼朝の勘気を受けて
平氏討伐から外されていました。
「吾妻鏡」に梶原景時の淡路島などでの活動が見られます。
また、源頼朝から源範頼に対して
土肥実平、梶原景時とよく相談して
遠征を遂行するようにとの命令があり、
源範頼に従って西国の占領にあたっていました。

【梶原景時と源義経の逆櫓論争】
兵糧や兵船の調達に難渋した源範頼が苦戦したことから、
元暦元年(1185年)正月、
源頼朝は源義経の起用を決めて
摂津国で軍を編成させ、
讃岐国屋島の平氏の本営を衝かせることにしました。
「平家物語」によりますと、
源義経の軍に属した梶原景時は
兵船に逆櫓をつけて
進退を自由にすることを提案したといいます。
これに対して源義経は、
そんなものをつければ兵が臆病風にふかれて
退いてしまうと反対します。
すると梶原景時は「進むのみを知って、
退くを知らぬは猪武者である」
と言い放ち義経と対立したといいます。
いわゆる、「逆櫓論争」と称された対立です。

【屋島の戦いと六日の菖蒲
2月、源義経は暴風の中をわずか
5艘150騎で出港して電撃的に屋島を落として、
梶原景時の本隊140余艘が到着したときには
既に平氏は逃げてしまっていたのでした。
梶原景時は「六日の菖蒲」と嘲笑されたのでした。

<六日の菖蒲>
同義語には「十日の菊」があります。
菖蒲は5月5日の「端午(たんご)の節句」に用いられ、
菊は9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」に用います。
それぞれ5月6日、9月10日に
用意したのでは間に合わないことから、
「時機をのがして役に立たないもの」
という意味になったとのことです。

【壇ノ浦の戦いでの先陣争い】
3月、源義経は長門国彦島に孤立した
平氏を滅ぼすべく水軍を編成して
壇ノ浦での戦いを挑みました。
「平家物語」によりますと、
軍議で梶原景時は先陣を希望したところ、
源義経はこれを退け、
自らが先陣に立つと言いったとのことです。
心外に思った梶原景時は
「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。
将の器ではない」と愚弄し、
源義経の郎党と梶原景時父子が
斬りあう寸前になったとのことです。
合戦は源氏の勝利に終わり、
平家はここに滅亡しました。





【梶原景時と源義経の対立は本当か?】
「平家物語」にある逆櫓論争や
先陣争いの史実性については
疑問とする見方があります。
「吾妻鏡」にある合戦の報告で
梶原景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、
武士たちは薄氷を踏む思いであります。
そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても
怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。
合戦が終わった今は
ただ関東へ帰りたいと願います」(大意)
という旨を述べている記述があります。
この記述を見ると
源義経と梶原景時に対立があったことは確かなようです。

「鎌倉ノ本体ノ武士」と称され、
文武両道で頼朝からの信任厚い人物が
「ただただ帰りたい」とまで言うとは、
対立だけではなく、源義経に対して
失望というか、見切りをつけたのだと思います。
そうであれば、同じ空間にはいたくないですしね。
とっとと帰りたい気持ちが理解できます。

【「梶原景時の讒言」について】
この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるものです。
「吾妻鏡」では、
「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは
景時だけではない」と
これに付記されているとのことです。
後に源義経が後白河法皇から
源頼朝討伐の院宣を得て挙兵した時も、
平家討伐戦で源義経が
華麗なる戦勝をしていたにもかかわらず、
源義経のもとへ応じる武士はわずかしかいませんでした。
また、「梶原景時の讒言」に対し、
梶原景時以外で源義経に同行していた将たちが、
源頼朝に対して源義経を弁護していると信用できる
史料が現在までないことも事実です。

源行家との同心疑惑】
源義経は源頼朝の怒りを受けて
鎌倉へ帰還することを許されず、
京へ追い返されました。
9月に梶原景季が上洛して
源頼朝からの源行家追討の命を伝えるべく
源義経の邸を訪れると
病として面会できなかったそうです。
一両日待って面会に行くと通され、
源義経は脇息にもたれて
灸を打ち衰弱した様子で
病が癒えるまで源行家追討は
待ってくれるよう言ったそうです。
鎌倉に戻った梶原景季がこのことを
源頼朝に報告すると、
梶原景時は面会を一両日待たせたのは
不審であるとし、
その間に食を断って
衰弱して見せたのだ、
源行家と同心しているのは
間違いないと言上したといいます。

【梶原景時の読みが当たる】
土佐坊昌俊が源義経暗殺に派遣されましたが、
返り討ちにあいます。
その後源経は院宣を得て源行家とともに
挙兵しましたが兵が集まらず失敗。
京を落ちて奥州平泉藤原秀衡のもとへ逃れます。

【源義経、死す】
文治5年(1189年)、
藤原秀衡の死後にその跡を継いだ
藤原泰衡に殺されました。
源義経の首は鎌倉へ送られ、
梶原景時と和田義盛がこれを検分しています。





【梶原景時の讒言①夜須行宗】
梶原景時の讒言と呼ばれるものには
夜須行宗と畠山重忠の事例があるとのことです。
夜須行宗が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願ってきたとき、
梶原景時は夜須という者の名はぞ聞いたことがないと
申し立てて訴訟になりました。
その後証人が出て夜須の戦功が明らかになり
梶原景時は敗訴となりました。
罰として梶原景時には
鎌倉の道路の普請が科せられたとのことです。

【梶原景時の讒言②畠山重忠
畠山重忠が罪を受けて謹慎させられ
千葉胤正に預けられました。
畠山重忠は罪を恥じて絶食してしまい、
源頼朝は畠山重忠の武勇を惜しみ
これを赦免とします。
畠山重忠は武蔵国の館に戻りましたが、
梶原景時はこれを不審として、
畠山重忠が恨みに思い
謀反を企てていると言上したとんことです。
源頼朝は畠山重忠へ使者を遣わせると、
恥辱と感じた畠山重忠は自害しようとします。
使者はこれを押しとどめて
申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得しました。
梶原景時が尋問役となりましたが、
畠山重忠は身の潔白を断固として反駁し、
源頼朝もようやく疑いを解いたのでした。
人望のある畠山重忠を陥れようとしたとして
梶原景時は御家人たちからひどく恨まれたのでした。

【梶原景時が赦免を願い出た人物たち】
その一方で梶原景時は
都築経家、金刺盛澄、
城長茂、曾我兄弟の赦免を
願い出ることもしています。

【畠山重忠と梶原景時の違い】
文治5年(1189)7月、
奥州合戦に梶原景時父子もこれに従軍。
藤原泰衡は敗走して殺され
奥州藤原氏は滅びました。
捕虜になった藤原泰衡の郎党である
由利八郎を梶原景時が尋問。
その傲慢な態度に由利八郎は怒り、
尋問に応じようとしなかったそうです。
代わって尋問にあたった
畠山重忠が礼法に則って
遇したため由利八郎は感じ入り
尋問に応じ
「(景時とは)雲泥の違いである」
と言ったとのことです。

【源頼朝との和歌】
建久元年(1190年)、
源頼朝が初めて上洛すると
梶原景時はこれに供奉し、
途中の遠江国橋本宿で
遊女を集めての宴で源頼朝と
梶原景時が和歌を交わしています。
また、「沙石集」に奥州合戦の際に
源頼朝と交わした和歌が残されています。

【右近衛大将拝賀の随兵】
12月1日、
右近衛大将拝賀の随兵
7人の内に選ばれて参院の供奉をしました。
他の6名は、
北条義時
小山朝政、
和田義盛、
土肥実平、
比企能員
畠山重忠。

さらに、これまでの勲功として
源頼朝に御家人10人の
成功推挙が与えられた時、
その1人に入りましたが子である
梶原景茂に賞を譲っています。

【徳大寺実定から和歌を学ぶ】
建久2年(1191年)、
徳大寺実定の死去の記事には
梶原景時と弟の梶原朝景が
徳大寺実定から学んだとの記述があり、
梶原氏は優れた歌人を輩出した
徳大寺家と交流を持ち和歌を学んでいたのでした。

【梶原八幡神社】
建久2年(1191年)に
鶴岡八幡宮の古神体を賜り
梶原八幡神社(八王子市)に奉祀しました。

梶原八幡神社

<神木梶原杉の碑>
梶原景時が鶴岡八幡宮を勧請した時に
植えたとされる杉が参道にありました。
東京都の天然記念物に指定され、
都内随一の大杉と云われてきましたが、
樹勢が衰えて昭和47年に伐採されました。
神木梶原杉の碑

【侍所別当に就任】
建久3年(1192年)、
梶原景時は和田義盛に代わって
侍所別当に就任しました。
「吾妻鏡」ではこの交代について、
梶原景時が一日だけでも仮に別当になりたいと懇願し、
和田義盛がそれならばと
暇のついでにこれを許しましたが、
梶原景時が奸計をもって
別当職を奪ってしまったとのことです。





【侍所別当就任の真相】
侍所別当という重職が
このような「暇だから」という
いきさつで交代するとは考えにくいそうです。
実際には源頼朝の意向によるもの、
と考えるのが妥当であるとのことです。
実際、戦乱の時代が終われば、
武人である和田義盛よりも、
武勇だけではなく、
事務能力・実務能力に優れ
(当時の坂東武者の中に、
文章を書ける者はほとんどいなかったそうです)、
また和歌のひとつもこなせる梶原景時は
源頼朝にとっては
得難い手駒であっただろうと推測されます。
後世の豊臣秀吉における石田三成、
徳川家康における本多正信の例と同じとのことです。
「愚管抄」でも「鎌倉ノ本体ノ武士
鎌倉殿頼朝の第一の家来の意味)」と評価されています。

【源頼朝の死去】
正治元年(1199年)正月に源頼朝が死去します。
梶原景時は引き続き宿老として
二代将軍となった源頼家に重用されました。
4月には若い源頼家の失政を理由に
政務が停止され十三人の合議制が置かれると
梶原景時もこれに列しました。

【梶原景時の変が起こる】
【背景として】
文武に優れた梶原景時は
鎌倉幕府侍所別当として
御家人たちの行動に目を光らせ、
勤務評定や取り締まりにあたる目付役でした。
鎌倉殿専制政治をとる
源頼朝にとっては
重要な役割を担った忠臣である一方、
御家人たちからは
恨みを買いやすい立場の人物でした。

そのまま「石田三成」ですね・・・。

正治元年(1199年)正月、
源頼朝が急逝し、嫡子である源頼家が家督を継ぎました。
けれども将軍独裁体制に対する
御家人たちの鬱積した不満により、
源頼家はわずか3ヶ月で
訴訟の採決権を奪われ、
代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、
将軍独裁は押さえられました。
源頼朝時代に続き、
源頼家が「一の郎党」として頼みとしていた
梶原景時もこれに加わったのでした。

【源頼家に見えていたもの】
母親の実家である北条氏とは異なる扱い。
若いながらも源頼家には
見えていたのだろうと思います。
信用できる人物と信用できない人物。
けれども、若くて生まれながらの「鎌倉殿」であった
源頼家は「信用できる人物」と
信用できない人物」、
そのまま正直に接してしまったのでしょう。
だから余計に「信用できない人物」にとっては
面白くなかったのでしょうね。

【きっかけは結城朝光の発言】
源頼家と有力御家人との
対立が元で不祥事が続きます。
合議制成立の半年後の秋、
将軍御所の侍所で結城朝光が、
「忠臣は二君に仕えずという。
故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、
ご遺言により叶わなかったことが
今となっては残念である」
と言ったことが梶原景時に伝わってしまいます。
結城朝光の言葉に激怒した梶原景時は、
この発言は源頼家への誹謗であるとして断罪を求めます。





【連判状】
けれども
御所に勤める女官であり、
北条時政の娘で源実朝の乳母でもある
阿波局が結城朝光に
「あなたの発言が謀反の証拠であるとして
梶原景時が将軍に讒言し、
あなたは殺される事になっている」
と告げます。
驚いた結城朝光は三浦義村に相談し、
和田義盛ら他の御家人たちに
呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、
梶原景時に恨みを抱いていた
公事奉行人の中原仲業に
糾弾状の作成を依頼したのでした。

10月28日、
千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・
三浦義村・畠山重忠・小山朝政・
結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・
比企能員・所左衛門尉(藤原)朝光・
二階堂行光・葛西清重・八田知重・
波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・
渋谷高重・山内首藤経俊・宇都宮頼綱・
榛谷重朝・安達盛長入道・佐々木盛綱入道・
稲毛三郎重成入道・安達景盛・岡崎義実入道・
土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・
曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・
天野遠景入道・工藤行光・中原仲業
以下御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が
一夜のうちに作成され、
将軍側近官僚である大江広元に提出されたのでした。
梶原景時を惜しむ大江広元は躊躇して
連判状をしばらく留めていたのですが、
和田義盛に強く迫られて
将軍の源頼家に言上しました。

・・・・石田三成と重なりますね。
もしかして、後世で徳川家康は
この事件を参考にしたのかしら?

【梶原景時を救えなかった源頼家】
11月12日、将軍源頼家は
連判状を梶原景時に見せて弁明を求めます。
けれども梶原景時は何の抗弁もせず、
一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向しました。
謹慎によって御家人たちの支持を得たので
梶原景時は12月9日に一端鎌倉へ戻りましたが、
源頼家は梶原景時を庇うことが出来ず、
18日、梶原景時は鎌倉追放を申し渡されました。
和田義盛、三浦義村が
梶原景時追放の奉行となって
鎌倉の邸は取り壊されました。
29日、結城朝光の兄小山朝政が
梶原景時に代わって
播磨国守護となり、
同じく梶原景時の所有であった
美作国の守護は和田義盛に与えられたのでした。

【上洛の途中で滅亡】
正治2年(1200年)正月、
梶原景時は一族を率いて
上洛すべく相模国一ノ宮より出立しました。
途中、駿河国清見関にて
偶然居合わせた吉香友兼ら
在地の武士たちと戦闘になり、
同国狐崎にて
嫡子・景季、
次男・景高、
三男・景茂が討たれ、
梶原景時は付近の西奈の山上にて自害しました。
一族33人が討ち死にしました。
その首は隠されていましたが翌日探し出され、
一族33名の首が路上に懸けられたとのことです。
源頼朝の死から1年後のことでした。

梶原御霊神社の石塔

【上洛の理由】
「吾妻鏡」では、
梶原景時が朝廷から
九州諸国の総司令に任命されたと
称して上洛し、九州の軍兵を集め、
武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしています。
けれども土御門通親や徳大寺家といった
京都政界と縁故を持つ梶原景時は、
都の武士として
朝廷に仕えようとしていたとの説もあるそうです。
梶原一族滅亡の地は
梶原山と呼ばれています。
なお、吉香友兼が三男の梶原景茂を打ち取った際、
吉香友兼が所持していた青江の太刀は、
吉香友兼の子孫である
安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、
国宝「狐ヶ崎」として現在に伝わっています。

【梶原一族滅亡後】
梶原景時滅亡後の
正治3年(1201年)正月23日、
梶原景時が庇護して
御家人となっていた城長茂が上洛し、
大番役で在京していた
小山朝政の宿所を襲撃します。
城長茂は後鳥羽上皇
源頼家追討の宣旨を
得ようとしましたが叶わず、
吉野で幕府軍に討たれています。
城長茂与党に加わっていた
藤原秀衡の子高衡もまた討たれました。

【建仁の乱】
一方越後国では城長茂の甥である
城資盛が蜂起しましたが、
幕府軍によって鎮圧されました。

【源頼家の暗殺】
梶原景時追放の3年後、
源頼家は北条氏によって
将軍職を追放されたのち、暗殺されました。
代わって弟で気性が大人しい源実朝が将軍に立てられ、
北条氏が幕府の実権を握る事になったのでした。

<梶原御霊神社の供養塔>
拝殿脇にある供養塔です。
梶原氏代々の供養塔とも、
また鎌倉幕府滅亡時の供養塔とも云われており、
実際に「建武元年十二月廿三日」と刻まれた五輪塔があります。
建武元年とは1334年で鎌倉幕府滅亡の翌年です。

梶原御霊神社の供養塔

【梶原景時追放の影に北条氏有り】
「吾妻鏡」では、梶原景時弾劾状に
北条時政・北条義時の名は記述されてはいませんが、
梶原景時の一行が襲撃を受けた
駿河国の守護は時政であり、
梶原景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は
北条時政の娘で、源実朝の乳母です。
この事件では御家人達の影に隠れ、
表には出てきてはいませんが、
梶原景時追放はその後続くことになる
北条氏による有力御家人排除
のはじめともされています。

【「吾妻鏡」による梶原景時評】
鎌倉幕府北条氏による
後年の編纂書である「吾妻鏡」では、
その死に際する記事で
「二代にわたる将軍の寵愛を誇って
傍若無人に振る舞い、
多年の積悪が遂に身に帰した」と記されています。





【「玉葉」による梶原景時評】
けれども公家九条兼実の日記
「玉葉(ぎょくよう)」によりますと
梶原景時追放の原因とされた讒言は、
将軍である源頼家に
その弟である源実朝を将軍に担ごうとする
陰謀があることを報告したものであり、
梶原景時追放の3年後には
北条氏の陰謀によって
源頼家が追放・暗殺され、
源実朝が将軍となり北条時政が
実権を握っていることから、
北条氏に不都合な
梶原景時追放の真相は歪曲され、
梶原景時を悪人として
断じていることが推測されています。

【阿波局の立ち振る舞い】
元々その職務から恨みを買いやすい
立場であった梶原景時への、
御家人たちの不満に火を付けて
煽ったのは北条時政の娘で
源実朝の乳母である阿波局であったからです。

・・・こうした立ち振る舞いは
いかにも「北条時政」の娘、
といった感じですね。
北条政子はどちらかというと
「直球」のイメージがあるので、
妹の阿波局の方が
父親の気性を継いだのかもしれません。

【「明月記」での梶原景時評】
鎌倉時代の公家である
藤原定家の日記で期間は
治承4年(1180年)から
嘉禎元年(1235年)までの
56年間にわたる克明な記録である
「明月記」では(正治2年正月29日条)は、
梶原景時が源頼家の勘当を蒙り逐電したため
全国警戒すべきことが沙汰され、
また院にも申し入れられたため
世間はすこぶる物騒がしいと記されています。
さらに噂では梶原景時は
既に討たれたらしいが
詳しいことは判らないとも書いてあります。

【「愚管抄」による梶原景時評】
、鎌倉時代初期の史論書で
作者は天台宗僧侶の慈円である
「愚管抄」(ぐかんしょう)では、
比企能員の変と
源頼家の暗殺についての記述に続けて、
時間をさかのぼり、
梶原景時の変についても記述されています。
それによりますと、
自らを「一ノ郎党」と思っていた
梶原景時は自分だけは特別だと考えて
他の郎党を侮る態度をとっており、
そのため彼らに訴えられて
さらに討たれそうになったため、
国を出て京へ上ろうとしました。
けれども途上で討たれ、
「鎌倉ノ本體ノ武士」である
梶原一族はみな滅亡したと記されています。
そのうえで梶原景時を死なせたことは
源頼家の失策であると評し、
源頼家殺害と
梶原景時滅亡の因果関係を
強く指摘しています。

鎌倉御家人のおきてとは、
決して「ナンバーワン」の御家人には
なってはいけないのです。
そしてたとえ「ナンバーワン」ではなくても
「目立って」はいけません。
その後、比企氏、畠山氏、和田氏、三浦氏と
粛清の嵐が続くのです・・・。

【梶原景時の後世の評価】
かつては伝統的な判官びいきの影響で、
源義経と対立した敵役として、
讒言によって人を陥れる人物という
イメージを持たれていました。
けれども近年になって、教養があり、
主君に忠実で事務能力に優れた
官僚(良い意味での)的人物とての評価が定着しつつあります。
(お、こうしたところも石田三成と一緒ですね)

【江戸時代】
梶原景時に対する適役の印象が
本格的に定着したのは、
庶民文化が隆盛した江戸時代でした。
分かりやすい勧善懲悪が好まれた歌舞伎や
講談で源義経を悲劇の英雄とする
判官贔屓とあいまって、
敵役の梶原景時はこれを陥れた悪人とされたのでした。

【明治時代】
明治になって梶原景時は
「讒言をもって人を陥れる人物」
と記述されるようになりました。

【太平洋戦争後】
戦後になると、研究者の間では
判官贔屓で記述することは減り、
作家や読者も旧来の一面的な
勧善懲悪的な観点でみることは少なくなりました。
そして逆に源義経の政治面での無能さが
指摘されるようになり、
その一方で梶原景時は
源頼朝の武家政権の確立のために
進んで憎まれ役を買った、
善人とは言えないまでも
優れた官僚的(良い意味で)な人物であると
評価されるようになったのでした。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
中村 獅童(なかむら しどう)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

梶原景時一之宮館跡(寒川)、鎌倉幕府の重臣である梶原景時の最初と最後の住まいでした。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

白幡神社(藤沢)・源義経首洗塚・伝義経首洗い井戸・弁慶塚、旧藤沢宿の源義経にまつわる史跡

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

山内首藤経俊~源頼朝からは無益な者との評価でも母のお陰で地位は保全されました。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

糟屋有季~糟屋(糟谷)氏の所領は伊勢原市一帯で横山党とも繋がりがあります。糟屋氏一族の城所城跡があります。

岩国城~築城は毛利氏一族の吉川広家で日本100名城、錦帯橋とお城の景観が特徴的です。

通化寺~天野隆重夫妻の墓・天野元嘉の墓・繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)及び天野氏館跡

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