城跡

安濃城~中世末期として県内最大級の丘陵城郭、築城は長野一族の細野氏、出自は工藤祐経の三男。

安濃城跡(遠景) 三重県



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【安濃城】

 
安濃城(あのうじょう)は
三重県津市安濃町安濃字城山に
存在した日本の城(山城)です。
主郭跡にある阿由多神社に
奉納された大般若経600巻は
津市の指定有形文化財に
指定されています。

【城郭構造】
不明

【築城主】
細野藤光

【築城年】
弘治年間(1555年~1558年)ごろ

【主な城主】
細野藤光

【廃城年】
天正18年(1580年)

【遺構】
曲輪、空堀、土塁、屋敷地

【城の概要】
安濃城(あのうじょう)は
三重県津市安濃町安濃にある、
安濃川からの標高33mの
丘陵字城山に存在した
山城(丘陵城郭)です。
中世末期の伊勢国最大級の
城郭ともいわれております。
安濃川に沿った丘陵に築かれ、
本丸をはじめ、居館跡、
家臣館跡などがよく残っています。
主郭には阿由多神社が祀られ、
その周りに土塁や
深い空堀が巡らされていました。
安濃城跡(遠景) 三重県

【築城】
弘治年間頃(1555-1558年)に
長野氏の別家である細野氏が、
藤光の時代に
安濃郡長野村(津市美里町北長野)の
細野城から移り、その地に屋敷を構え、
その子である九郎右衛門藤敦が
城郭として屋敷を拡充したと
言われています。
東西に長い地形や
家臣が暮らす所である郭が
並べられた形状が
長野氏系の城の特徴であり、
安濃城跡にもみられます。
現存している遺構は
拡充したその時のものであると
考えられています。

織田信長軍による攻め入り】
北勢地域の諸城を攻略していた
織田信長軍は永禄11年(1568年)に
更に南に下って、
中勢地域の長野氏を滅ぼそうとしました。
そのためにまずは、
長野氏の別家である
細野氏を滅ぼすことを企てたのでした。
その企て通りに細野氏を
滅ぼすため織田信長軍は、
織田氏の宿老であった
滝川一益に安濃城を攻めさせます。
けれども、伊勢国最大級の城郭とも
呼ばれる安濃城の防備はとても固く、
容易には落ちませんでした。
この戦いの後に長野氏と織田信長は和解し、
結果として織田信長の弟である
織田信包が長野氏の養子に迎えて
収まったのでした。




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【焼き打たれて落城】
しかし、長野氏と織田信長の和解成立後も
細野氏は反信長を貫き、
天正8年(1580年)2月2日に
津城にいた織田信包軍の攻撃を受け、
藤敦は守ることができず、
城に火をつけて逃亡したため
本城は滅びたとされています。
城主であった藤敦らは
一身田(津市)にある専修寺に逃れた後に、
近江日野城主や伊勢松阪主、
陸奥黒川城主であった武将の
蒲生氏郷豊臣秀吉らに仕えたと
いわれています。

【構造】
三重県下最大級の中世末期の
丘陵城郭であり、高さとしては、
最も低いところでは30m、
最も高いところでは60mを誇ります。
西の阿由多神社を中心に
居館があったと思われる土塁と
堀による郭が連なっており、
特に南西の堀は大規模で
この城の見どころとなっています。
城の範囲としては東西に500m以上、
南北には300以上存在し、
空堀は非常に深く、
10m以上の深さが
あったとされています。

【跡地】
<阿由多神社>
安濃城の主郭跡にある神社です。
明治41年(1908年)に、
安濃・内多・太田・清水・曽根の
5つの村祠を合祀しており、
ご祭神は阿由太神を主神とし
他に25柱を祀っています。
明治初めまでは
藤塚の奥社付近に
建築されていたと考えられ、
現在地には合祀で
明治42年(1909)に
造建されたと言われていますが、
明治以前の詳細は不明です。

【文化財】
<大般若経600巻>
城主細野氏の子孫で、
安濃村から江戸・京へ出た
豪商荒木光品により、
享保20年(1735年)に
大般若経600巻が
阿由多神社に奉納されました。
家業の成功を感謝して
奉納されたと考えられています。
1998年4月1日に
津市の指定有形文化財に指定されました。

【交通アクセス】
(電車)
近鉄名古屋線「津」駅からバスで
1時間20分程度、
降りて徒歩15分程度。

(車)
津インターチェンジから10分程度。

【所在地】
〒514-2302 三重県津市安濃町安濃1556
安濃区集落センター

【長野氏(長野工藤氏)】

藤原南家乙麿(乙麻呂)流の一族で、
曾我兄弟に殺された工藤祐経
三男である祐長が、
伊勢平氏残党の討伐のため、
伊勢国長野の地頭職となって
安濃郡・奄芸郡の2郡を給わり、
その子である祐政が
長野に来住して長野氏を名乗ったのが、
長野氏の起源となります。

【長野氏のあゆみ】
鎌倉時代から
伊勢国中部の有力国人として
君臨しましたが、
南北朝時代に入ると、
南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出。
このため、長野氏は北朝方にくみして
伊勢の覇権を争いました。
ちなみに、この時代に書かれた
「梅松論」にも
「長野工藤三郎左衛門尉」
という名乗りの人物が
登場しているとのことです。
長野氏は北畠氏の傘下となりました。

北畠晴具の没後まもなく、
尾張の織田信長が伊勢に侵攻してきます。
北畠晴具の後を継いだ北畠具教と、
長野氏の当主である長野具藤は
織田軍に抵抗しましたが、
織田信長の攻勢の前に敗れ、
北畠氏は織田信長の次男・茶筅丸を、
長野氏は織田信長の弟・信包を
養嗣子として迎えた上で
家督を譲ることを余儀なくされ、
北畠・長野両家は今度は
織田氏によって傘下に
置かれたのでした。

三瀬の変
一族の長野左京亮
織田方に積極的に接近し、
1576年11月、
織田信長の命令で北畠具教の暗殺に
関わったとされます。
一説には北畠具教を槍で
殺害したのは
長野左京亮であるともされています。
前当主である長野具藤は
田丸城で北畠一族もろとも
殺されました。
長野左京亮は、豊臣秀吉と
織田信雄との間で争いがおこると、
当初は織田信雄方に付き後に
豊臣秀吉方に寝返りましたが、
後に同じ長野工藤氏
一族である家所氏に殺されました。




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その後、当主である織田信包も後に
織田姓に復したことで、
国人領主としての長野氏は滅亡しました。
その後も長野氏の一族や家臣団は
織田信包に仕え続けたため、
旧長野氏一派による
伊勢中部の支配体制自体は
継続したものの、
1594年に織田信包が
豊臣秀吉に改易されたため、
それに伴い長野氏の一族や家臣団は
離散となったとのことです。

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