鎌倉殿の13人

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

小笠原長清館跡



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【小笠原清長】

小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、
平安時代末期から
鎌倉時代前期の甲斐国の武将でした。
甲斐源氏の一族である
加賀美遠光の次男となります。
信濃守護家小笠原氏
弓馬術礼法小笠原流の祖です。

【生誕】
応保2年3月5日(1162年4月20日)

【死没】
仁治3年7月15日(1242年8月12日)

【改名】
豊松丸、加賀美長清、小笠原長清

【幕府】
鎌倉幕府 阿波国守護

【氏族】
甲斐源氏加賀美氏、小笠原氏

【父】
加賀美遠光

【母】
杉本義宗の娘

小笠原長清の母は杉本義宗の子である
和田義盛の娘の説もあります。
けれども和田義盛と小笠原長清は
年齢が15歳しか違わないため、
杉本義宗の娘で和田義盛の妹とも考えられています。
また、「笠系大成」では
三浦義澄の娘とする説を載せています。

【兄弟】
秋山光朝、
小笠原長清
南部光行
加賀美光経
大弐局

【妻】
上総広常の娘、
藤原邦綱の娘?、
家女房

【子】
小笠原長経、八代長光、
小田清家、伴野時長、
大井朝光、伴野教意、
伴野為長、大井行長、
鳴海清時、大蔵清家、
大倉長隆、八代長文、
伴野行正、大倉行信、
伴野行意、

【小笠原清長の生涯】
高倉天皇に滝口武者として仕えた
父親である加賀美遠光の所領のうち、
甲斐国巨摩郡小笠原郷
(現・山梨県北杜市明野町小笠原)
を相続して、元服の折に高倉天皇より
小笠原の姓を賜ったとされています。

ただし、「吾妻鏡」において小笠原長清が
小笠原を名乗るのは元暦元年(1184年)以降で、
建久6年(1195年)までは
加賀美と小笠原の名乗りが混在しています。
なお、巨摩郡の小笠原という地名は
現在の山梨県内に2か所知られております。
そのうち小笠原長清が領した小笠原は
今の南アルプス市小笠原にあった
原小笠原荘と今の北杜市明野町小笠原にあった
山小笠原荘のどちらにあたるかで
研究者の間で論争になっていました。
古文書の研究から南アルプス市小笠原が
正しいとされています。

南アルプス市

源頼朝挙兵の際、19歳の小笠原長清は
兄である秋山光朝とともに
京で平知盛の被官であったとされており、
母の病気を理由に帰国を願い出て許され、
主家である平家を裏切り、
治承4年(1180年)の
富士川の戦いで源頼朝の下に参じたと
伝えられています。
また同じく平知盛の被官であった
橘公長らを鎌倉御家人に
引き入れる仲介を担ったとのことです。

平家越

治承・寿永の乱において戦功を重ね、
養和元年(1181年)2月1日には
源頼朝の仲介で有力御家人であった
上総広常の娘を妻としています。
なお、2年後に上総広常は
源頼朝に誅殺されますが、
小笠原長清夫妻は罪に問われず
小笠原長清の妻が父である上総広常の
所領の一部を継承しています。
その後、文治元年(1185年)、
父である加賀美遠光は源頼朝の推挙で
信濃守に任じられ、のちに小笠原長清も
信濃守に補任されました。

父である加賀美遠光が信濃守護職となった際、
小笠原長清は信濃国伴野荘の地頭となりました。

「吾妻鏡」によりますと、
小笠原長清は弓馬の術に優れ、
建久4年(1193年)3月21日に
鎌倉の鶴岡八幡宮にへ奉納された
流鏑馬においては22人の射手が選ばれていますが、
この時に小笠原長清は
武田信光とともに射手を務めたということです。
また武田信光・海野幸氏・望月重隆と並んで
「弓馬四天王」と称されて、
26歳のときに源頼朝に出仕し、
鎌倉幕府の御家人としての
小笠原氏の基礎を築き上げました。

流鏑馬

建久5年(1194年)、
源頼朝が東大寺再建の木材調達と
造像を御家人に賦課した際には
多聞天を担当しています。

東大寺 多聞天

源頼朝没後、子の小笠原長経が
二代将軍源頼家の近習であった事から、
建仁3年(1203年)9月の
比企能員の変に連座して処罰されたため、
一時小笠原氏は没落しますが、
姉妹である大弐局は二代将軍源頼家と
三代将軍源実朝の養育係を務めて
小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、
嫡男の伴野(小笠原)時長は
次期将軍三寅の鎌倉下向の
随兵を務めて鎌倉での活動が見られます。




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建保4年(1216年)には
源頼朝の菩提供養の御願寺の建立を
源実朝に申請し、許可を得ています。

承久3年(1221年)6月の承久の乱では、
幕府方の東山道大将軍として
子息8名と共に京へ攻め上って功績を挙げ、
「七ケ国管領」となります。
同年7月、京方の公卿源有雅を
甲斐山梨郡稲積荘の小瀬村で処刑しています。
同年に阿波国守護となります。

仁治3年(1242年)7月15日、
信濃にて81歳で死去しました。

小笠原長清の子孫は武田氏に滅ぼされましたが、
江戸時代に大名に復帰した小笠原氏、
阿波で細川氏に仕えた三好氏などがいます。

【小笠原長清公館跡】 
小笠原小学校付近の小字を「御所庭」といいます。
甲斐国志には
「御所ノ庭 村ノ西ニ在リ
松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ
相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭ニニシテ」
と記されているとのことです。
小学校周辺は「御所庭ごしょうのにわ」や
「的場」という地名が残っており、
小笠原長清公の館跡と伝えられています。
校舎の壁には鎌倉武士の
笠懸のレリーフが描かれています。

【所在地】
〒400-0306 山梨県南アルプス市小笠原769−3

専用の駐車場はありません。

【小笠原氏】

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、
武家・華族だった日本の氏族。
清和源氏の河内源氏の流れをくみ、
武家の有職故実を伝える
一族としても知られています。
江戸時代には小倉藩など4つの藩の藩主を
世襲した譜代大名でした。
維新後華族に列し、
小倉小笠原家は伯爵家、
他の3つは子爵家となりました。
通字は、「長」・「貞」・「忠」
などです。
家紋は三階菱です。

【小笠原の地名】
小笠原氏の家名のもとになった
「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、
小笠原牧や山小笠原荘があった
現在の山梨県北杜市明野町小笠原と、
原小笠原荘があった現在の
山梨県南アルプス市小笠原に
居館があったとされています。
なお、今日の研究では
原小笠原荘が小笠原氏の
本貫であったと考えられています。

南アルプス市

【小笠原氏についての概要】
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、
加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたりますが、
格式や勢力の上では
決して武田氏に劣ることなく、
全国各地に所領や一族を有する大族です。
鎌倉時代から信濃に本拠を移し、
室町時代には幕府から
信濃の守護に任ぜられました。
嫡流は信濃と京都に分かれ、
庶流は信濃国内はもちろん、
阿波、備前、備中、石見、三河、
遠江、陸奥にも広がっていきました。
戦国時代には小笠原氏の宗家は
武田氏に所領を奪われて
没落しましたが、
安土桃山時代に再興し、
江戸時代には譜代大名となりました。

【小笠原流】
室町時代以降、武家社会で
有職故実の中心的存在となり
家の伝統を継承していったことから、
時の幕府からも礼典や
武芸の事柄においては重用されました。
これが今日に知られる
小笠原流の起源となります。
煎茶道や兵法などにも
小笠原流がありますが、
その起源は多様です。

また、抹茶の茶道においては、
江戸時代に千利休三世の
千宗旦の高弟で四天王と呼ばれた
山田宗徧を迎えて宗徧流茶道を保護し、
村田珠光の一の弟子と呼ばれた
古市澄胤の後裔を迎えて
小笠原家茶道古流を興しました。

<有職故実>
有職故実(ゆうそくこじつ)とは、
古来の先例に基づいた、朝廷や公家、
武家の行事や法令・制度・風俗・
習慣・官職・儀式・装束などのことです。
また、それらを研究することです。
「有識」とは過去の先例に関する知識を指し、
「故実」とは公私の行動の是非に関する
説得力のある根拠・規範の類を指します。
そうした知識に通じた者を
有識者(ゆうそくしゃ)と呼んでいました。
後に転じて「有職」と呼ぶようになりました。

<公家故実>
平安時代の中期から
先例を伝える知識の体系化が進み、
藤原忠平の執政期に儀礼の基本形が確立。
後に官司請負制が浸透すると、
有職故実を家職とする
家(徳大寺家(九条流)、
大炊御門家(御堂流))も現れました。

<武家故実>
平安時代には、
武人の故実(武官故実)は、
紀氏と伴氏が伝えていましたが、
武士の台頭とともに衰えました。

鎌倉時代には、
源頼朝が故実に通じた武士を重んじ、
故実の復元を図っています。
以降、京都から断片的に流入した
武官故実と関東在来の武士の慣習が合わさって、
武家故実が体系化されていきました。
武家故実の中でも
弓馬や軍陣における実践的な故実と
幕府や主君の前における
儀礼や作法などの故実が存在していましたが、
戦法の変化によって
前者は形式的なものになったのに対して、
後者は公家故実とも融合して、
室町時代に小笠原流や伊勢流が生まれました。

江戸時代以後、古典研究の発展に伴って
民間でも有職故実の研究をする者が現れ、
世襲化されて学問としては
停滞が見られた公家や
武家の有職故実の伝統に囚われない
独自の研究が見られています。




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【小笠原氏の始まり】
小笠原氏の祖の小笠原長清は、
滝口武者として高倉天皇に仕えた
加賀美遠光の次男として
甲斐国に生まれました。
小笠原長清は「平家物語」に
「加賀美小次郎長清」の名で登場しており、
加賀美遠光の所領の
甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称しました。
なお南部氏の祖の南部光行は小笠原長清の弟です。
平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した
元暦2年・寿永4年(1185年)に、
信濃国を知行国とした源頼朝によって
加賀美遠光は信濃守に任ぜられ、
小笠原長清はこの地盤を受け継ぎ、
小笠原氏は信濃に土着していきます。
なお小笠原氏の家紋である三階菱は、
本来は加賀美氏の家紋でした。
現在では加賀美遠光ゆかりの寺院のみが、
三階菱の中に「王」の文字を入れた
原型を用いています。

小笠原長清の子孫には
小笠原氏が守護となった
阿波に土着した者がおり、
阿波小笠原氏となりました。
また、阿波小笠原氏の一部は
元寇の戦功により
石見に所領を得て、
石見小笠原氏となりました。

【阿波小笠原氏】
阿波小笠原氏の祖は小笠原長清の子供の
小笠原長経の次男、小笠原長房です。
承久3年(1221年)の承久の乱後、
兄である小笠原長忠が
阿波国守護に任ぜられましたが、
小笠原長忠が本国である
信濃国への帰国を希望したために、
代わって小笠原長房が
守護となったとされています。
ただし、今日の研究では実際には
小笠原長房が長男で
小笠原長忠は三男であったとする説があり、
また小笠原長忠の系統は
京都を活動の中心としていた
可能性が高いと見られています。

文永4年(1267年)に幕府の命令を奉じて、
三好郡郡領・平盛隆を討ち、
褒賞として美馬郡と三好郡に
26000町余りの所領が与えられ、
岩倉城を拠点としました。

阿波の小笠原氏は
南北朝時代には南朝に属したとされています。
その子孫の多くは室町時代には
国人化して阿波の守護を務めた
細川氏に仕えたとされています。
代表的な例としては三好氏、安宅氏、
一宮氏(小笠原成助)、
大西氏(大西覚養)、
赤沢氏(赤沢宗伝)などが挙げられます。
ただし、それぞれの出自には諸説あります。
その他の阿波小笠原氏の支流にも
七条氏・高志氏などがあるとのことです。

三好長慶像 肖像画

【石見小笠原氏】
阿波守護職となった
小笠原長房 (阿波小笠原氏)の子、
小笠原長親が弘安の役の軍功によって、
石見国邑智郡村之郷を得て、
移り住んだ事に始まるとされています。
小笠原長親は地元の有力国人である
益田氏当主兼時の息女を室に迎え、
弘安の役の後の不安定な
石見国周辺の海岸を警護しました。
南北朝時代の当主であった小笠原長胤は
武家方に従って活動、
川本温湯城を居城としました。
戦国時代に入ると
石見銀山の支配を巡って
対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、
当主の小笠原長雄はその間を転々とし、
最終的には大内氏の後を継いだ
毛利氏に仕えました。

佐毘売山神社 石見銀山

天正20年(1592年)に
国替えにより出雲国神門郡神西に
移封されたことで石見国を去ります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の
毛利氏の防長移封の際には
一度毛利氏を離れましたが帰参し、
石見小笠原氏は長州藩士として明治を迎えました。

【京都小笠原氏】
小笠原氏には宗家の信濃小笠原当主である
小笠原貞宗の弟の小笠原貞長の流れがあります。
小笠原貞長は新田義貞と戦って討死し、
その子である小笠原高長は
京都に住んで足利尊氏
弓馬の師範であった説があります。
以後、幕府に奉公衆として仕えました。
京都に住んだ小笠原貞長の系統は、
兄である小笠原貞宗の系統を
信濃小笠原氏とするのに対して、
京都小笠原氏と呼ばれています。

京都小笠原氏の一族は
将軍側近の有力武将として
重きをなすとともに、
幕府初期から的始めなどの
幕府儀礼に参加しています。




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【小田原北条氏】
なお、小笠原政清は
同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に
娘を嫁がせたとされており、
彼女の所生とされる北条氏綱以降の
小田原北条氏歴代当主は
京都小笠原氏の血を引いていた事になります。

小田原城址 天守閣

【永禄の変で状況が一変】
京都小笠原氏の一族は、
嫡流は幕臣として続きました。
小笠原稙盛が永禄8年(1565年)の
永禄の変で将軍足利義輝とともに討死すると、
小笠原稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、
後に細川氏(後の熊本藩主細川氏)に仕えました。
小笠原稙盛は永禄の変後に
足利義栄に従ったため、
足利義昭の時代に
所領を没収されたとする説もあります。

足利庭園

細川ガラシャの介錯】
小笠原秀清は関ヶ原の戦いの際に
細川ガラシャの介錯を務め殉死し、
小笠原秀清の子孫は
江戸時代には熊本藩の家老を務めました。

細川ガラシャ・宮津

【小田原北条氏を頼る】
また、庶流の小笠原元続は
将軍足利義澄の死去後に幕府を離れ、
縁戚の小田原北条氏を頼りました。
小笠原元続の子の小笠原康広は
北条氏康の娘婿となりました。

徳川家康に仕える】
小田原征伐で小田原北条氏の嫡流が滅亡すると、
小笠原康広の子の小笠原長房は
徳川家康の家臣となり、
子孫は旗本として存続し、
江戸時代の歴代の当主は縫殿助を称しました。

【縫殿助家】
旗本となった小笠原長房の子孫は
家禄780石余、
縫殿助を称した当主が多いため
縫殿助家とも呼ばれました。
小笠原長房の曾孫の小笠原持広は
享保元年(1716年)に
将軍徳川吉宗の命により
家伝の書籍91部と
源頼朝の鞢(ゆがけ)を台覧に供しました。
これは徳川吉宗が射礼や犬追物など
弓馬の古式の復興に熱心で
諸家の記録を調べていたためです。
「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」
旨の言葉があったということです。
後に徳川吉宗は近侍の臣らを
小笠原持広の弟子として
射礼を学ばせています。
小笠原持広は弓場始(的始め)の式に
伺候するとともに、
小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを
上覧に入れるなどしました。

子孫も同様な役を勤め、
幕末には小笠原鍾次郎が
講武所で弓術教授を勤めましたが、
この家は維新期に断絶となりました。
縫殿助家と共に徳川幕府の師範家となっていた
旗本小笠原平兵衛家(赤沢氏)が、
現代では小笠原流
(弓馬術礼法小笠原教場)宗家となっています。

【信濃小笠原氏】
【鎌倉時代】
小笠原氏の惣領職は初代の小笠原長清から
小笠原長経に受け継がれましたが、
比企能員の変に連座して失脚し、
庶流の伴野時長に移りました。
小笠原長経は承久の乱の功績で
阿波国の守護に任ぜられ、
同地に根拠を移します。
しかし伴野時長の娘が安達泰盛の母であり、
伴野時長の孫・伴野長泰は
安達泰盛の従兄弟として
霜月騒動に巻き込まれ戦死したため、
惣領は小笠原長経の曾孫にあたる
小笠原長氏に戻りました。
小笠原長氏は承久の乱後に
信濃国に帰国した小笠原長忠の孫とされていますが、
小笠原長忠の子で小笠原長氏の父にあたる
小笠原長政は京都の六波羅探題で
評定衆を務めていたことが
確認できるため、
京都が拠点であった可能性が高いです。
また、小笠原長忠の拠点であったとされる
信濃国伊賀良荘(現在の長野県飯田市)も
実際には北条氏の滅亡後に
討幕の恩賞で
小笠原氏の所領として
与えられたとみられるため、
小笠原長経系の信濃小笠原氏の成立は
惣領の移転よりも更に後の
建武政権期に下る可能性もあるとのことです。
なお小笠原氏惣領の所領は
小笠原長清の所領がある
甲斐国巨摩郡にあったとみられています。




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宝治元年(1247年)の宝治合戦では
小笠原七郎が三浦泰村に味方して敗北。
建治元年(1275年)5月の
「造六条八幡新宮用途支配事」によりますと
鎌倉中小笠原入道跡が百貫を納めています。

【信濃国の室町時代】
室町時代にも小笠原一族は
幕府の奉公衆等となって活躍し
信濃守護に任じられています。
しかし、応永7年(1400年)に
足利義満に仕え婆娑羅の
小笠原長秀(長基の次男)が
信濃国守護に任じられて入国すると、
村上氏、仁科氏、諏訪氏、滋野氏、
高梨氏、井上氏など、
信濃国人の大半が反発して大塔合戦を起こし、
これに大敗した小笠原長秀は
京都に逐電し守護職を罷免されました。
信濃守護職は斯波氏を経て
室町幕府の料国(直接統治)とされましたが、
信濃小笠原氏の家督を継いだ小笠原長秀の弟の
小笠原政康が応永32年(1425年)に
信濃守護職に任命されてからは
信濃小笠原氏の守護職の地位が安定化しました。
けれども小笠原氏の守護職復帰後も
村上氏・諏訪氏ら信濃国人との間に
封建的な主従関係が
確立できたとはいえず、
守護権力が弱体化した
状態が続くことになるのでした。

【信濃国の諸事情】
信濃小笠原氏が度々
守護職が外された理由としては、
信濃小笠原氏の統治能力の
問題だけではありませんでした。
信濃が室町幕府の勢力圏と
鎌倉府の管轄地域の境目にあり、
その管轄が幕府と
鎌倉府の間で変更されたり、
自立性の強い信濃国人が
守護による統治を嫌って
幕府の直接統治を
望んだことなどがあげられます。

【信濃小笠原氏の3家分立】
信濃小笠原氏の家督を継いだ
小笠原長秀の弟の小笠原政康は、
応永32年(1425年)に
信濃守護職に任命され、
信濃国内、甲斐国、武蔵国を転戦し、
庶流の跡部氏を甲斐に送り込みました。
しかし、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で
6代将軍足利義教が暗殺されると
畠山持国が台頭し
小笠原長将(長秀の兄)の子の
小笠原持長が家督相続を主張して
内乱を起こします。
文安3年(1446年)に
小笠原政康の子である
小笠原宗康を漆田原の戦いで討ち取って南下し、
国府を奪い府中小笠原氏を起こしました。

しかし、小笠原宗康は戦死前に
伊那郡伊賀良荘の
松尾小笠原氏である
弟の小笠原光康を後継者に定めており、
府中小笠原氏に対向しました。
また、府中から小笠原光康の元に逃れた
小笠原政秀(宗康の子)も
鈴岡小笠原氏を起こし
小笠原氏は3家に分裂しました。

【鈴岡小笠原氏の滅亡】
鈴岡小笠原政秀は、
寛正2年(1461年)の
小笠原光康の死により
小笠原家の惣領の家督を継承したと見られ、
府中小笠原清宗(持長の子)から
府中を奪い返して、
小笠原3家を統一し、
文明5年(1473年)には
幕府から信濃国守護に任ぜられました。
けれども、筑摩郡の国衆の支持を得られず、
鈴岡小笠原政秀は更級郡牧之島城に逃れた
府中小笠原長朝(清宗の子)と和睦し、
明応元年(1492年)の
幕府の近江遠征には(長享・延徳の乱)には
府中小笠原長朝が出兵しました。

松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は
鈴岡小笠原政秀と共闘し、
応仁の乱中の文明5年(1473年)、
東軍の要請で木曽家豊と共に
美濃国に遠征しましたが、
文明12年(1480年)に
鈴岡小笠原政秀と合戦となり戦死しました。
松尾小笠原家長の子である
松尾小笠原定基は、
明応2年(1493年)に
鈴岡小笠原政秀を暗殺し、
鈴岡小笠原氏は滅亡しました。
鈴岡小笠原氏の滅亡後も
松尾・府中両小笠原氏の争いが続きました。

【松尾小笠原氏】
松尾小笠原定基(小笠原家長の子)は、
娘を木曽義在に嫁がせて
木曽氏と婚姻関係となり
東濃の領地を維持し、
府中小笠原長朝の侵攻を撃退し、
三河国にも遠征しましたが、
天文3年(1534年)、
子の松尾小笠原貞忠が
府中小笠原長棟(貞朝の子)や
鈴岡小笠原氏の親族の下条氏に攻められて
松尾城が落城し、甲斐国に落ち延びていきました。

【徳川氏の家臣になる】
天文23年(1554年)、
松尾小笠原信貴(定基の子)及び
小笠原信嶺父子が武田氏の伊那侵攻で
信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復しました。
小笠原信嶺はその後、
織田信長の甲州征伐の時には織田氏に降伏し、
本能寺の変の後、徳川氏の家臣となりました。

【大名になる】
徳川家康の関東移封の際、
武蔵国本庄城に移り、
1万石ながら大名となりました。




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【松尾小笠原氏の江戸時代】
江戸時代には、
小笠原信之(信嶺の婿養子)が
そのまま譜代大名となります。
この家系は本庄、古河、関宿、高須を経て、
越前国勝山(現在の福井県勝山市)
2万2000石に移りました。
元弘3年(1333年)の
小笠原宗長宛て足利高氏の書状に始まり、
天正3年(1575年)の
小笠原信嶺宛て武田勝頼の書状まで、
信濃守護小笠原氏が伝えた
計185通の文書群「勝山小笠原文書」は
この家系に伝わり、
のちに東京大学史料編纂所に所蔵されました。

明治時代になると、
勝山藩主家は華族令により
子爵に列せられました。

【府中小笠原氏】
府中小笠原氏は
統一を果たした長棟の没後、
その長男である小笠原長時の時代に
甲斐国の武田晴信(信玄)が
信濃の領国化を開始し(信濃侵攻)、
小笠原長時は小県郡の村上義清らと連携して
抵抗しましたが、
天文19年(1550年)には
本拠の林城が陥落すると
信濃から駆逐されました(「高白斎記」)。

このころ中央では第13代将軍である
足利義輝を推戴する三好長慶
勢力をもっていましたが、
三好氏は小笠原一族を称し
小笠原長時を庇護し、
小笠原長時と三男の小笠原貞慶
三好氏や京都小笠原氏など
同族間で連絡拠点とする京に滞在し
在京奉公を行いました。
永禄4年(1561年)には
北信豪族を庇護し
武田氏と川中島の戦いを繰り広げていた
上杉謙信に小笠原長時の
帰国支援が命じられましたが、
川中島合戦は永禄4年を境に収束し、
小笠原長時の帰国は実現はしていません。

その後は将軍の足利義輝の没落と
御館の乱により小笠原長時は会津へ逃れます。
天正10年(1582年)、
武田遺領を巡る
天正壬午の乱においては
小笠原長時の弟である
小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、
小笠原旧臣の助力を得て
木曾義昌から深志城(松本城)を奪還します。
洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、
小笠原長時の3男の小笠原貞慶は
徳川家康に仕え、
小笠原旧臣の支持を得て
深志城を奪還しました。

天正18年(1590年)には
小笠原貞慶の長男である小笠原秀政
下総古河(現在の茨城県古河市)3万石を与えられ、
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、
翌年の慶長6年(1601年)には
信濃国飯田(現在の長野県飯田市)5万石に
加増の上で転封となりました。

【府中小笠原氏の江戸時代】
江戸時代には、
府中小笠原氏からは
四家が大名となりました。
いずれも譜代大名)です。
府中小笠原氏では
小笠原秀政が松平信康の娘の登久姫と婚姻し、
有力な譜代大名となりました。
小笠原秀政は下総国古河から
信濃国飯田を経て、
慶長18年(1613年)には
父祖縁の地である
信濃国松本(現在の長野県松本市)
8万石に転封となります。
小笠原秀政と長男の小笠原忠脩は
慶長20年(1615年)の
大坂夏の陣で討死し、
小笠原忠脩の長男の小笠原長次は幼年であったため、
小笠原秀政の次男の小笠原忠真が家督を相続しました。
小笠原忠真は元和3年(1617年)に
播磨国明石(現在の兵庫県明石市)に
10万石に転封となりました。




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寛永9年(1632年)に
豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)に
15万石に転封となりました。
同時に小笠原秀政の三男の小笠原忠知には
豊後国杵築(現在の大分県杵築市)4万石
(細川氏が豊前国主であったころの小倉藩飛び地)が、
小笠原忠脩の長男の小笠原長次には
豊前の南半分にあたる
豊前国中津(現在の大分県中津市)8万石が与えられ、
さらに小笠原秀政の四男で
能見松平家を継いでいた
松平重直が豊前国竜王 (現在の大分県宇佐市)
3万7千石に転封となり、
一族で豊前周辺を固めました。
また、寛文11年(1671年)には
小笠原忠真の四男の小笠原真方が
兄の小笠原忠雄から1万石を分与され
小倉新田藩(千束藩)を立藩しました。

小笠原忠真系は幕末まで小倉藩主として継続、
小笠原忠知系は転封を重ねて
最終的には肥前国唐津(現在の佐賀県唐津市)6万石に、
小笠原長次系は悪政や無嗣による改易で
最終的に播磨国安志
(現在の兵庫県姫路市)1万石に移りました。
小笠原長次系の歴代当主は
小笠原秀政ゆかりの信濃守を称しました。

明治時代になると、
小倉藩主家は華族令により伯爵、
分家の唐津・安志・千束藩主家は
いずれも子爵に列せられています。

【遠江小笠原氏】
府中小笠原氏の一族
(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が
小笠原氏の内紛を逃れて、
やがて今川氏に仕え、
遠江小笠原氏(高天神小笠原氏)
となったとされています。
系図上はここが嫡家となるとのことです。
高天神城の戦いで知られています。

小笠原義頼の子供以降、
江戸時代には紀州徳川家に仕えました。
のち紀州藩主であった徳川吉宗が
将軍に就任した際、
200人ほどの紀州藩士が幕臣となりました。
その中には「吉宗公御一代記」
で知られる小笠原政登や小笠原胤次がいます。




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【幡豆小笠原氏】
霜月騒動で戦死した
伴野長泰の孫である伴野泰房は
三河国太陽寺荘に逃れ、
幡豆小笠原氏の祖となりました。

永正11年(1514年)、
小笠原定正が寺部城(幡豆城)を奪い
居城としたとされています。
海に面する城を中心に
海上交易などを行っていたとされ、
海賊衆として今川氏に仕えていました。
その後徳川氏に転じ、
徳川家の海賊衆として
三河湾や遠州の海上防衛を行っていました。
当主の小笠原信元は陸上でも
数々の合戦に参加しています。
そのまま幕臣となり、
信元や孫の小笠原信盛など、
江戸幕府の船手頭として知られています。

また、家康の数々の戦闘に参加した
小笠原安元・安次の系統も
この幡豆小笠原氏であり、
欠城は幡豆城の小笠原氏と密接に
連携していたとされています。

流浪していた小笠原長時が同族の誼で一時滞在し、
また、長時親子を徳川家康に取り持ったのが
この小笠原氏だとする話が残っています。

徳川家康により任命された
初代の長崎奉行であった小笠原一庵も、
幡豆小笠原氏の一族とされています。

甲斐源氏・武田一族の中でも
長く存続し、各地へ子孫を増やしていった
小笠原一族は華やかではありませんが
武家の一番(?)の目標である
「お家存続・子孫繁栄」を達成し、
ある意味、一番の勝ち組だったかもしれませんね。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

加賀美遠光~甲斐源氏で武田信義の叔父又は弟、小笠原氏・奥州南部氏の祖でもあります。

大弐局 ~加賀美遠光の娘で兄弟には小笠原氏・南部氏がおり、源頼家・源実朝の養育係を務めた女性です。

秋山光朝~加賀美遠光の長男、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた源頼朝に疎まれ謀殺されます。

武田信成~武田信時の系統で安芸守護武田氏から甲斐国守護武田宗家となりました。

甲斐・上野城(甲斐・椿城)~築城は小笠原氏の子供の上野氏でその後に秋山氏、大井氏の居城となります。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

上総広常~房総平氏の惣領家で源義朝の郎党~平家政権の打倒よりも関東の自立を目指し殺される

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

安達盛長~源頼朝を流人時代からの側近で生涯に渡って支え続け厚い信頼を得た人物。

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