城跡

大田原城~武蔵七党・丹党の一族である大田原氏が築城、326年間外様城主大名として存続。

大田原城跡



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【大田原城】

大田原城(おおたわらじょう)は、
1543年に大田原資清によって
下野国大田原の蛇尾川西岸、
比高約25mの龍体山に築かれた
日本の城(平山城)です。
大田原城 案内・説明板

【別名】
龍城、龍体城、前室城

【城郭構造】
平山城

【築城主】
大田原資清

【築城年】
天文12年(1543年)

【主な城主】
大田原氏

【廃城年】
明治6年(1873年)

【遺構】
土塁、堀

【指定文化財】
大田原市史跡

【大田原城について】
城郭配置は北から北曲輪、
本丸、二の丸、三の丸とし、
大手は西の奥州街道に面していました。
関ヶ原の戦い時の戦功による5千石加増により
大田原藩が立藩され、
明治維新まで累代大田原氏が
この城を拠点としてこの地を治めました。
大田原城は大田原資清によって築かれました。
天文12年(1543年)の築城以来、
明治4年(1871年)の
廃藩置県にいたる326年もの間、
大田原氏の居城でした。
江戸時代には奥州への備えとして
重視されており、
戊辰戦争の際には、
大田原藩は新政府軍についたため、
大田原城は対会津攻めの
重要拠点となりました。
大田原城址

慶応4年(1868年)5月、
旧幕府軍による攻撃を受けて
三の丸が炎上しました。
1873年、廃城令により
廃城となりました。

城址には本丸の土塁や堀切、
空堀、三日月堀などの遺構が残っており、
現在は龍城公園として
花見の名所になっています。
また、城の周辺には
鍵型に曲がった道など
城下町の面影が残っています。




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城址は昭和36年(1961年)
12月8日に
大田原市の史跡に指定され、
現在は龍城公園(城山公園とも)
として利用されています。
土塁には桜やツツジが植えられ、
花見の名所として大田原市民に
親しまれています。

大田原市旧市街地には
城下町時代の往時を偲ばせる
敵の来襲に備えた狭い道、
鍵型に曲がった道などの
面影が随所に残っているとのことです。
江戸時代中期の大田原城城門は
大田原氏の菩提寺でもある
大田原市光真寺の門として
移設されていましたが、
現在の光真寺大門は
文政8年(1825年)に
焼失したものを再建したものです。

【水口館・佐久山城跡】
大田原城の北1.5kmの
大田原市町島字水口の
水田地帯には
大田原城築城以前の
大田原氏の館であった
水口(みなぐち)館跡があります。
また、同市佐久山には
那須氏の那須資隆の
次男である那須泰隆(やすたか)が
文治3年(1187年)に築いた
佐久山城跡があります。
現在は御殿山公園となっています。
いずれも昭和36年(1961年)に
大田原城跡と共に
大田原市の史跡に指定されています。

【交通アクセス】
(電車)
JR東北本線「西那須野」東口駅から
関東バス「国際医療福祉大」行乗車、
「龍城公園前」下車徒歩5分程度。
「西那須野」駅から徒歩で1時間程度。




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【駐車場】
あり

【所在地】
〒324-0052 栃木県大田原市城山2丁目

【大田原氏】

大田原氏(おおたわらし)は
武家・華族だった日本の氏族です。
古くは「大俵氏」とも書かれていました。
中世以来下野国大田原を本拠とした豪族で、
江戸時代にも大田原藩主家として続き、
明治維新後、華族の子爵家に列しました。

【大田原氏の概要】
家伝によれば武蔵国阿保郷に
住した備前守忠清を祖とし、
その子孫が後に下野国那須の大俵に
移住して「大俵」を称し、
14代資清の代に「大田原」に
改姓したということです。
中世以来、那須氏の
有力部将那須七騎の一家として活躍。
天文12年(1543年)には
大田原資清が大田原城を
築城しています。
大田原城址
天正18年(1590年)の
小田原征伐の際に主家の那須家は
豊臣秀吉のもとに
参陣しなかったため所領を
没収されましたが、
大田原城主大田原晴清は
参陣したため所領を安堵されています。
その後関ヶ原の戦いで
東軍に属したことで
徳川家康より加増されて小大名に列し、
江戸時代を通じて
1万1417石の
大田原藩主家として続きました。

戊辰戦争では官軍に属しましたが、
会津藩兵によって
城下を焼き払われる
被害を受けました。
戦後、官軍への貢献により
賞典金5千両が下賜されました。
明治維新後、華族の子爵家に
列せられました。

【出自について】
「寛政重修諸家譜」の添書及び
稲毛田大田原家に伝わる
「大田原宗家家譜」によりますと、
その出自は平城天皇の第一皇子である
阿保親王の子で在原朝臣を
賜った在原業平にまで遡ります。
後に姓を阿保に改め、
大田原氏(大俵氏)を称するに
及んで丹治にしたとされています。
また「寛永諸家系図伝」では、
武蔵七党丹党の一族で
武蔵国榛沢郡阿保郷を本拠とする
阿保氏の分流とされており、
一時平姓を名乗ったとも
伝えられています。
いづれにせよ、
大田原氏の氏祖は
大俵忠清とされており、
忠清が下野国那須地方の大俵に
移住したことから大俵を
名乗ったと伝えられています。
またその後、大田原資清の代に
大俵から大田原に改めたと
伝えられています。




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【大田原氏の歩み】
「大田原家譜』によりますと
「大俵康清は那須氏に仕え始めて
那須に移り、金田村水口城に住し」
とあることから、室町時代初期には
下野国那須の名族・那須氏に
仕官したと考えられています。
康清から数えて5代の胤清までは
水口城を本拠に勢力を拡大しましたが、
胤清の子・大田原資清は
奥州街道に面した
蛇尾川西岸の高台の要衝に
大田原城を築城し本拠を遷しました。
大田原氏の勢力はこの資清の代に
飛躍的に拡大されたのでした。

【那須氏の分裂】
当時は那須氏が
上下に分裂しており、
資清は上那須家の
那須資親に仕えました。
永い間実子に恵まれなかった資親は
結城政朝の次男・那須資永を
養子に迎えていましたが、
後に実子の那須資久が生まれると
胤清・資清親子は資久の擁立を画策。
永正11年(1514年)夏に
資親と資永の関係が悪化すると、
資親の命と称して
大関氏・伊王野氏・金丸氏・蘆野氏などの
那須党の有力諸氏を味方に引き入れ、
資永が籠る福原城を攻め滅ぼしました。

【下那須家によって統一】
けれどもその際に資永の謀略によって
資久が連れ去られ惨殺された為、
資親亡き後、那須氏は下那須家によって
統一されることとなったのでした。
永正15年(1518年)、
那須七騎の大関宗増・福原資安に
讒言を図られて窮地に
追い込まれた資清は
両家を攻略するも敗北。
その為に一時越前国に身を寄せます。
が、しばらくして旧領を奪還。
その後、娘を那須政資に嫁がせて
勢力を回復させます。

【大関・福原両氏を乗っ取る】
大関増次を討ち取り、
長男・高増を養子として
大関氏の名跡を継がせ大関高増としました。
また福原氏にも政資の命と称して
次男・資孝を養子に入れて福原資孝とし、
両家を傘下に収めることに成功したのでした。

喜連川五月女坂(早乙女坂)の戦い
その後、那須家の家督が政資から
那須高資に継承されると高資は
大田原氏の影響力を排除する
動きを見せますが、
天文18年(1549年)9月に
起こった喜連川五月女坂
(早乙女坂)の戦いでは
大田原・大関・福原を始め
那須七騎の諸氏が参陣し
勝利を収めています。
早乙女坂古戦場 手前

【那須家の実権を掌握】
天文20年(1551年)、
宇都宮氏の重臣である
芳賀高定の誘計に乗った
千本資俊により高資が
千本城にて謀殺されると、
資清は姉の子である那須資胤を
那須家の当主に据え
実権を手に入れます。
永禄3年(1560年)に資清が死去。
これを機に今度は資胤が
大関高増・福原資孝・大田原綱清等
大田原一族の影響力の排除を画策すると、
三家は佐竹氏と連合して
これに対抗し数度の合戦に及びます。
しかし周辺諸国からの介入が懸念された為、
興野氏や伊王野氏家臣の
稲沢氏等が会談を持ち、
資胤と三家を説得して
和平にこぎつけました。
これにより家臣団の結束力が高まり、
資胤の子・那須資晴の時代には
那須氏は安定期を迎えることとなりました。
三家はその後千本氏を滅ぼすなどして
勢力拡大に邁進していきます。

【那須氏、改易の危機】
天正18年(1590年)に
豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、
綱清の子・大田原晴清はいち早く
豊臣秀吉に恭順を誓いました。
けれども那須氏は去就を明らかにせず
小田原に参陣しなかった為に
戦後改易に処され、
那須氏の所領はそのまま
大田原氏に継承されることに
なったのでした。
が、晴清の嘆願により資晴には
旧領から5千石が与えられ、
家名存続が許されたのでした。

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、
上杉景勝の所領の様子を諜報し
徳川家康に報告を入れています。
同年6月には石川重次・内藤忠清等を
奉行とした歩卒1000人余りを
大田原城に迎え、陸奥国境の
城郭修造の任にあたっています。
更に同月、援軍として
皆川隆庸・服部正就(服部正成の長男)らが
大田原城に入り長筒の大砲10門が
配備されたのでした。
7月24日には
大関資増・伊王野資信らと共に
下野国小山に参じ徳川家康に謁見しています。
景勝南進の際には大田原城に
籠城するよう申し付けられ、
徳川家康からは正恒の太刀と
黄金100両を、
徳川秀忠からは金熨斗付きの
長船師光の刀を与えられています。
8月25日には徳川家康より書状で
上杉景勝の動向について
報告するよう命じられました。




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【大田原藩の立藩】
関ヶ原の戦いが終わると、
功績により下野国森田に
800石を加増され7900石となりました。
また慶長6年(1601年)7月、
服部正就が大田原城を去る際には、
対上杉用の備えとして持ち込まれた
徳川軍の大砲10門のうち3門が
そのまま大田原城に与えられました。
慶長7年(1602年)7月には、
関ヶ原で西軍に属して改易された
相馬義胤の居城・相馬中村城
守備にあたります。
その功により、同年12月25日に
下野国芳賀郡・那須郡及び
陸奥国磐城郡に4500石が加増され、
都合1万2400石を領する大名となり
大田原藩を立藩しました。
その後江戸時代を通じて
一度も領地替えの憂き目に
遭うことなく明治維新を迎えたのでした。
大田原城址

【関東在国の外様城主大名】
なお大田原藩は
「関東在国の外様城主大名」という
極めて特殊な藩です。
これは関ヶ原の戦いの際に、
大田原城が上杉家の南下を
食い止める最前線として
機能したことを徳川家康が
重視したためと推察されています。
また、旧主の那須家・
大田原家(森田大田原家1300石)・
福原家・蘆野家は名門家系を重んじる
幕府によって那須衆と称され
交代寄合に列せられています。

【幕末~明治維新】
大田原藩は戊辰戦争で官軍に属しました。
会津藩兵によって城下を
焼き払われる被害を受けています。
戦後、官軍への貢献により
大田原家には賞典金5千両が下賜されました。

最後の大田原藩主大田原一清(勝清)は、
明治2年(1869年)の
版籍奉還で華族に列するとともに
大田原藩知事に任じられ、
明治4年(1871年)の
廃藩置県まで藩知事を務めました。

明治17年(1884年)に
華族令の施行で華族が五爵制になると、
一清は旧小藩知事として
子爵家に列せられました。
その後一清は貴族院の
子爵議員に当選しています。

昭和前期に大田原子爵家の邸宅は
東京市世田谷区成城町にあったとのことです。

烏山城~下那須氏が築城した北関東有数の巨大城郭で国の史跡、蛇姫伝説があります。

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

那須神田城~那須氏最初期の居城であり、那須与一宗隆の生誕の地とされています。

白旗城(本城山)~「白旗」の地名は源頼義の前九年の役の戦揃えが由来、築城者の大関氏について。

黒羽城~大関高増が戦国期に築城し、黒羽藩として明治まで存続、松尾芭蕉も城下に滞在しました。

早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。

矢板城~源姓塩谷氏の重臣矢板重郎盛兼が築城との伝承、川崎城の北の守りの支城でした。

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