城跡

勝幡城~織田信長誕生の城、二重の堀に囲まれた館城で尾張の中近世史上、重要な城跡と見られています。

勝幡城跡(愛知県)



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勝幡城

勝幡城(しょばたじょう)は、
尾張国の海東郡と中島郡に跨る地域にあった日本の城です。
勝幡城についての説明
【城郭構造】  
平城

【築城主】
織田信定

【築城年】
永正年間

【主な城主】
織田信定、
織田信秀
織田信長
武藤雄政

【廃城年】
天文7年(1538年)?

【遺構】
石碑、木碑

【指定文化財】
市指定史跡

【勝幡城の概要】
稲沢市指定史跡となっています。
勝幡城があったのは
現在の愛知県愛西市勝幡町と
稲沢市平和町六輪字城之内に跨る「勝幡」で、
中心地は現在の城之内付近と
推定されています。
二重の堀で囲まれた館城であり、
規模・構造についてですが、
「勝幡村古城絵図」には
「本丸は東西29間、南北43間、
幅3間の方形土塁」、
「尾陽雑記」には「東西48間、南北70間、
大手口東西二重堀、四方に惣堀有、
惣構の外南北120間、東西114間」
との記載があるということです。

【「織田弾正忠家」の拠点】
清洲三奉行の一家
「織田弾正忠家」の拠点でありました。
商業地・津島を支配下に置いた
織田弾正忠家の経済力を
象徴するような平城となっていました。
公家の山科言継は、天文2年(1533年)に
織田信秀によって招かれた際に
勝幡城の規模と出来栄えに
驚いたことを、自身の日記である
「言継卿記」に残しているとのことです。

【当時と現在の河川状況】
勝幡城跡付近の近くを
三宅川・日光川・領内川が流れています。
これらの流路は江戸時代の
改修工事によって大きく変化しており
当時の河川状況とは異なるとのことです。
勝幡駅周辺案内図
特に日光川は萩原川(足立川)を
改修して誕生した河川で
勝幡城付近の河道は新規に
開削しており、勝幡城の城郭の
多くの部分は新たに開削された
地域に位置していたと考えられています。
三宅川は現在より
西側の稲沢市平和町領内付近まで
流れて萩原川と合流して
天王川へと流れており、
勝幡城のすぐ近くを流れて
外堀の役目をしていたと
推定されています。




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【勝幡城を示すもの】
日光川の開削に加えて、
その後の周辺の開発もあり
遺構等は残されておらず、
城跡を示すものとしては
城の中心地と思われる付近に
「勝幡城址」の石碑、
「勝幡城址」の石碑
勝幡城の南端と考えられる位置に
「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」
の石碑が置かれています。
なお以前は「文化財史跡勝幡城址」
の木碑も置かれていました。
「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」
また、勝幡城址の石碑近くの
日光川の嫁振橋の東側には
「勝幡城復元図」が、
名古屋鉄道勝幡駅前には
推定復元模型が置かれているとのことです。
<織田信秀と土田御前と信長像>
勝幡駅前にあります。
織田信秀と土田御前と信長像(勝幡駅前)

【勝幡城の歴史】
勝幡城は永正年間(1504年⇒1521年)に
織田信定(あるいはその父・良信)が、
大中臣安長の屋敷跡に
築城したとされています。
織田信定は岩倉城主織田敏信の弟で、
はじめ小口城主となり
木下城主を兼ねていました。
が、勝幡城を築城して居住し、
享禄元年に没したといわれています。
織田信定の嫡子である織田信秀は、
永正5年にこの城に生まれ、
父の没後その後を継ぎ、
尾張守護斯波氏の三奉行として、
清須に勤仕したとのことです。

周辺の地域は元々は
「塩畑(しおばた)」と呼ばれていた
とのことですが、縁起が悪いという理由で
織田信定あるい嫡子であった織田信秀が
「勝ち旗」の意で「勝幡」と
改名したと伝えられています。

那古野城を奪った時期と信長誕生時期】
織田信定の跡を継いだ織田信秀が
今川氏豊から那古野城を攻め取ると、
織田信秀は那古野城に移り、
勝幡城には家臣の
武藤雄政(武藤掃部)を
城代として置いたとのことです。
那古野城を奪った時期は
天文元年(1532年)が
通説となってましたが、
近年では天文7年(1538年)
であったと考えられています。
また、織田信秀の嫡子である
織田信長の生誕地は那古野城説が
これまでは通説とされていましたが、
新たな説では織田信長生年の
天文3年(1534年)時点では
那古野城を奪っていないため
勝幡城説が妥当と
考えられるようになりました。

【勝幡城の廃城】
弘治元年(1555年)に
織田信長が主家の大和守家を滅ぼし、
拠点を那古野城から清洲城へと移しました。
それに伴って武藤掃部は
尾張野府城へと転属されたため、
勝幡城は次第に衰退して
やがて廃城となったとのことです。

【櫓台の基石】
昭和54年(1979年)に
排水工事中に大きな基石が発見されました。
出土箇所は勝幡城の
古図面との照合により
櫓台に位置することが確認されました。
現在では基石は愛西市佐織支所に
保管されています。

【城域】
勝幡城の城域は、
愛西市・稲沢市に広がっており、
城の中心は平和町城西(現在の城之内)
付近と推定されています。
「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の
碑のあるあたりは城跡の
南端部分と考えられています。
尾張の中近世史を考えるうえで、
重要な城跡であるとみられています。

【所在地】
〒492-0000 愛知県稲沢市平和町城之内105

【交通アクセス】
(電車)
名鉄津島線「勝幡」駅から
徒歩約10~20分。




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【駐車場】
専用の駐車場はありません。
短時間停車か、
勝幡駅周辺の有料駐車場の利用になります。
駅から歩道などに勝幡城方面への案内があります。

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