鎌倉殿の13人

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

鶴岡八幡宮 源氏池




【結城朝光】

結城 朝光(ゆうき ともみつ)は、
平安時代末期から
鎌倉時代中期にかけての武将及び有力御家人。
下総結城氏初代当主でした。

書物によっては小山朝光(おやま ともみつ)と
記されている場合もありますが、
結城家の家祖であるため、
後の名乗りである
結城朝光の方が、
世上よく知られた名前となっています。

【時代】
平安時代末期⇒鎌倉時代中期

【生誕】
仁安3年(1168年)

【死没】
建長6年2月24日(1254年3月14日)

【改名】
一万丸(幼名)、小山宗朝、
朝光、結城朝光、日阿

【別名】
七郎、結城上野入道

【戒名】
称名寺殿日阿弥陀仏

【墓所】
茨城県結城市浦町の称名寺

【官位】
上野介

【幕府】
鎌倉幕府 評定衆

【主君】
源頼朝、頼家、実朝

strong>【氏族】
藤原北家秀郷流小山氏、結城氏

【父】
小山政光

【母】
寒河尼
【兄弟】
小山朝政、
吉見朝信、
長沼宗政、
結城朝光、
久下重光、
島田政照

【妻】
伊賀朝光娘、
伊賀光泰娘

【子】
朝広、
平方朝俊、
寒河時光、
山川重光、
朝村、
朝長、
宗政、
宗泰、
小磯時広、
河原田朝綱

【生まれ】
仁安3年(1168年)、
鎮守府将軍である藤原秀郷を祖とする
下野国小山の豪族の
小山政光の子として誕生しました。
母は源頼朝の乳母であった
八田宗綱の娘の寒河尼です。

【烏帽子親は源頼朝】
治承4年(1180年)10月2日、
平家打倒に挙兵した源頼朝に
母親の寒河尼の引き合わせで臣従し、
源頼朝が烏帽子親となって元服します。

【寝所警護に選出】
養和元年(1181年)4月、
結城朝光は源頼朝の寝所を警護する
11名の内に選ばれました。
(「吾妻鏡」養和元年4月7日条)
なお、他の10名は、
北条義時・下河辺行平・和田義茂・
梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・
葛西清重・佐原義連・千葉胤正・
八田知重です。
主に有力御家人の二世世代であり、
将来を担う人材の育成という面も
あったと見られています。
文治5年(1189年)2月28日、
源頼朝が彗星を見るために
寝所から庭に出た際は、
御前を結城朝光と佐原義連、
御後を梶原景季と八田知重が
警護していたのことです。





【野木宮合戦】
寿永2年(1183年)2月23日、
鎌倉への侵攻を図った志田義広と
足利忠綱の連合軍を、
八田知家と父である小山政光、
兄である小山朝政、長沼宗政らが
野木宮合戦でこれを破りました。
志田義広との戦いに先んじて
源頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、
御剣役を務めていた結城朝光は
志田義広が敗北するという「神託」を告げ、
源頼朝から称賛されたとのことです。
なお結城朝光の御剣役の回数は
「吾妻鏡」において10回を数え、
御家人の中で最多でありました。
論功行賞で結城朝光は
結城郡の地頭職に任命されました。

鶴岡八幡宮(遠景)

木曾義仲・平家追討】
元暦元年(1184年)、
木曾義仲を追討するため
源範頼及び源義経軍に参加します。
宇治川の戦いで木曽軍を討滅した後、
平家追討軍に参加し、
元暦2年(1185年)3月の
壇ノ浦の戦いまで戦いました。

【源頼朝の使者として】
鎌倉に帰還後、同年5月、戦勝報告のため
東下した源義経を酒匂宿に訪ね、
源頼朝の使者として
「鎌倉入り不可」の口上を伝えています。

畠山重忠の危急を助ける】
文治3年(1187年)、
伊勢国沼田御厨の代官狼藉事件で
譴責された畠山重忠の処分について、
源頼朝に意見具申し、その危急を助けました。

【奥州合戦・大河兼任の乱】
文治5年(1189年)の奥州合戦では、
阿津賀志山の戦いにおいて
敵将である金剛別当秀綱を討ち取り、
その功により奥州白河三郡を与えられました。
翌年の建久元年(1190年)、
奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加しました。

【容貌美好、口弁分明】
建久6年(1195年)、
源頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、
衆徒の間で乱闘が勃発してしまいました。
この時、結城朝光は見事な調停を行い、
乱闘を鎮め、名声をあげたとされています。
衆徒達から「容貌美好、口弁分明」
と称賛されたとのことです。

東大寺 大仏殿

梶原景時の変】
頼朝没後間もない正治元年(1199年)10月、
梶原景時の讒訴により
窮地に立たされた結城朝光は、
三浦義村ら有力御家人66人を結集して
連名で作成した「景時糾弾訴状」を
2代将軍である源頼家に提出し、
(目の上のたんこぶだった)梶原景時失脚と
その討滅に大きな役割を果たしたのでした。





比企能員の変】
建仁3年(1203年)9月2日、
比企能員が北条時政の謀略によって誅殺され、
比企一族は源頼家の子である
一幡の邸である小御所に立て籠もります。
その小御所へ北条義時を大将として
軍勢が押し寄せますが、
その中に結城朝光がいました。

妙本寺 二天門

【畠山重忠の乱】
元久2年6月22日(1205年7月10日)の
畠山重忠の乱の時には
鎌倉へ向かっている畠山重忠を
道中で誅殺するべく大軍が派遣され、
その大軍の一員として北条義時に従っています。

和田合戦
建暦3年(1213年)5月に
鎌倉幕府内で起こった
和田合戦では
大倉卿に陣を張って和田軍に備えました。

【承久の乱】
承久3年(1221年)の承久の乱の際、
東山道軍の将の一人として参戦しました。
承久の乱後の北条泰時及び北条時房による
「複数執権制」時代にあって、
寛喜元年(1229年)上野介に叙任しています。
更に嘉禎元年(1235年)、
幕府の評定衆の一員となり
幕政に重きを成していきます。

【念願の出家】
若き日から念仏に傾倒していた
結城朝光は、法然、
次いで時領常陸国下妻に滞在していた
親鸞に深く帰依し、
その晩年は念願の出家を果たします。
結城上野入道日阿と号し、
結城称名寺を建立しました。
信仰に生きる日々を送り、
北条時氏から北条時頼へ続く
鎌倉幕府の内紛に関与する事は
ありませんでした。

【三浦泰村を偲ぶ】
宝治元年(1247年)の宝治合戦で
知己の仲であった三浦義村の子である
三浦泰村の一族が滅亡した際には、
老齢の身を押して下総から鎌倉に上り、
5代執権である北条時頼に面会して
「自分がいれば泰村を誅罰の恥に
会わせなかったものを」と涙し、
北条時頼は古老の涙を愛しんだということです。

三浦泰村とその一族の墓(鎌倉)

【穏やかな最期】
建長6年(1254年)、
穏やかなうちに生涯を終えました。
享年は87歳で当時では長寿となります。

【結城朝光の人となり】
源頼朝の側近として幕政に参与し、
弓の達人で和歌にも通じた
文武両道の人物として
知られた結城朝光でした。
しかし尊敬していた
畠山重忠の死に遭遇してからは
より慎ましい生活態度を
取るようになり、
自ら率先して政治の表舞台に出る事は
無かったと言われています。
こうした姿勢が梶原景時の変における
御家人の動向や晩年の北条氏からの
厚遇につながったとされています。





【プライド高く気骨ある気性】
一方で結城朝光の性格は非常に誇り高く、
将軍家の御門葉であり、
北条氏とも縁戚である
足利氏と対立したことも
あるなど気骨のある武将
であったとのことです。
宝治2年(1248年)、
足利義氏より結城家に遣わされた
書簡の末尾に
「結城上野入道殿 足利政所
と記してあったのでした。
通常、対等の関係であるならば、
「結城政所殿 足利左馬頭入道」
と記すべきところであるそうなのですが、
足利氏は将軍家の門葉として
源姓を称することを許されており、
このような書式を用いることを許されていました。
それに対して結城朝光は
自らを足利氏より格下とされたことに激怒し、
「結城政所 足利左馬頭入道殿」
と記して返書したとのことです。
これに対して、足利氏より幕府に訴えがあり、
このような書式は源氏の門葉たる
足利氏に許されたものであり、
御家人に過ぎない結城氏は
遠慮すべきである旨を主張しました。
これに対して結城朝光は、
生前源頼朝より、
「足利氏と同等たるべし」
との許しを得ていたと主張。
時の執権であった
北条北条時頼の裁定により
結城朝光の勝訴となったのでした。

【勝長寿院建立供養の儀式】
なお「吾妻鏡」文治元年(1185年)
10月24日条にある源義朝の菩提寺となる
勝長寿院建立供養の儀式において、
足利義兼は御後、
結城朝光は随兵として参列しています。
10年後の建久6年(1195年)5月20日条の
天王寺参詣でも同様だったとのことです。
なお、足利義兼はこの年に出家しています。

勝長寿院跡

【「吾妻鏡」では足利義兼の下】
また足利義兼が建久5年(1194年)、
建久6年(1195年)に
元旦の歳首椀飯を務めているのに対して、
結城朝光が歳首椀飯を務めるのは
源頼朝死後の正治2年(1200年)で
それも8日目でした。
「吾妻鏡」を見る限り結城朝光は
常に足利義兼の下位に位置しており、
源頼朝在世中に
足利氏と結城氏が
対等だったとする
結城朝光の主張が
妥当であるかは疑問とのことです。

【落胤説】
なお、結城朝光には
源頼朝の庶子であるという
説があるそうです。
「朝光公記」によりますと、
伊豆配流中の源頼朝の世話をしていた
寒河尼の娘との間に生まれ、
寒河尼の実家である
八田家へ預けられた後、
小山政光と寒河尼の四男
(三男説もある)として
育てられたということです。
けれども幕府の公式記録となっている
「吾妻鏡」をはじめとする
当時の一級資料には、
一切、このことには
触れられてはおらず、
信憑性はないと見られています。

ひとつ確実にわかることは
源頼朝が乳母子の関係にある
結城朝光を可愛がっていたことです。

【乳母の存在は大きい】
比企尼もそうですが、
この時代の「乳母」の存在と権力は
改めて大きいですね。
乳母子であるだけで、その地位は
確立されたようなもの。
乳母様様です。
最も結城朝光は、乳母子だと主張と権力を
ふりかざすだけではなく、
実力もあり、きちんを結果を出しているので
源氏門葉と同等だと主張する気持ちは
わかりますし、それくらい強気でないと、
有力御家人の筆頭にはなれませんからね。

【方向転換する賢さ】
けれども、途中で方向転換しました。
そうです、「鎌倉幕府御家人あるある」で
何かしら「一番」になると潰されてしまうのです。
御家人たちの欲望渦巻くどす黒い
嫉妬をかわすためにも、
結城朝光は気づいたのでした。
皮肉にも、対等の立場を望んでいた
足利義兼が一足先に身を引きました。

結城朝光も慎ましく一歩身を引き、
けれども自分の地盤は
確実に固めていったのでした。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。

勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。

寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

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