鎌倉殿の13人

丹後局(丹後内侍)、源頼朝の妻妾で比企一族ともされています。供養塔が横浜にあります。

丹後局 供養塔(横浜市戸塚)




丹後局(丹後内侍)】
丹後内侍(たんごのないし、生没年未詳)は、
平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。
源頼朝の乳母である比企尼の長女です。
のちに鎌倉幕府の御家人、安達盛長の妻となります。
子に安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼室、他。

「吉見系図」によりますと、
京の二条院に女房として仕えており、
「無双の歌人」であったということです。
惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生み、
離縁したのち関東へ下って
安達盛長に嫁いだとされています。
安達盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、
妻となった丹後内侍の縁で
源頼朝に仕えたと見られています。
二条院には源頼政の娘二条院讃岐が
女房として出仕していました。

【源頼家の着帯の儀式で給仕を務める】
「吾妻鏡」によりますと、
養和2年(1182年)3月9日、
源頼朝の妻の北条政子が嫡男である
源頼家を懐妊した際、
着帯の儀式で給仕を務めました。
2人の妹(次女・三女)は源頼家の乳母となっています。

文治2年(1186年)6月10日、
丹後内侍が病になると、
源頼朝は供2人だけを伴い、
安達盛長の屋敷を密かに訪れて
見舞ったとのことです。
源頼朝は彼女のために願掛けをし、
数日後に丹後内侍が回復すると
いくらか安堵したということです。

【源頼朝の妻妾説】
このように源頼朝に近しい女性であった事から、
後年になって子の安達景盛が
実は源頼朝の子であるとする説が出たり、
のちの島津氏が、
祖の島津忠久を丹後内侍と源頼朝の子であると
彼女を母とした二つの源頼朝落胤説が見られます。

鹿児島県鹿児島市花尾町4043にある
花尾神社には
ご祭神として
父の源頼朝、母の丹後局、
神社創始者である僧永金を主神として祀られています。
その神社の境内には
「丹後局の墓」
「丹後局の腰掛け石」等が残り、
島津氏ゆかりの地として
厚く保護されたということです。

けれども「吾妻鏡」をはじめとする
当時の史料に丹後内侍が
源頼朝の子を産んだとする記録は
現在のところは見つかってはいません。

ま、「吾妻鏡」は北条氏の為の記録なので
北条氏に不利益な事は・・除外でしょうからね。
まして北条氏の敵であった比企氏の血筋を引く子供など
もってのほかでしょうから。

【源頼朝の妻妾だった丹後局】
源頼朝の妻妾であった「丹後局」は
存在はしていたようです。

現在の横浜市戸塚区上矢部町に
その人物にまつわるものがいくつか点在しています。

【源頼朝の妻妾・丹後局】
丹後の局は源頼朝の妻妾で
寵愛を受けて身ごもりました。
けれども北条政子の怒りを受けて
鎌倉から追い出されてしまいます。

丹後の局は身重の身体で何とか
鎌倉から逃れてこの地にたどり着いたとされています。
やがて日は暮れて、
民家に一夜の宿を請いましたが、
叶わず、伊勢の宮、現在の丹後山神明社で
休むことにしました。
そのうちに急に産気づき、困ってしまうと
辺りに狐火がいくつもともり、
無事に男の子を出産することが出来たとの事です。

丹後山神明社 産んだ場所

夜が明け・・・
赤ちゃんの泣き声がするので
村人が駆けつけると、
昨日の夕暮れに訪ねてきた娘が
赤ちゃんを抱いていたので、
事情を聞き、
源頼朝の妻妾の丹後局であることが
わかったとのことです。
村人たちは哀れに思い、
見晴らしの良い場所を選んで、
家を建てて、
丹後局を住まわせたとの事です。
やがて、男の子は成長し、
島津三郎忠久と
名乗るようになったとのことです。
そして後に九州の大大名となる
島津藩の祖となったのでした。





畠山重忠の援助】
また、畠山重忠
丹後の局の母子の後ろ盾となり、
援助したとの事です。
畠山重忠は後に、
自分の娘(あるいは一族の娘)を
島津三郎忠久の正室に嫁がせました。
島津氏重書目録には
畠山重忠自筆とみられる
書状の記があるとのことです。

【丹後山】
丹後の局が住んだと言われる家があった丘陵。
島津三郎忠久の産湯の井戸があったと言われています。

【丹後山神明社】
丹後山の北西の山麓に位置する神社です。
この神社で丹後の局が
島津三郎忠久を産んだとされています。
またこのあたりは稲荷谷とも呼ばれており、
実際に狐が多く生息していたそうです。

丹後山神明社 鳥居

<お社>
丹後山神明社 お社

【丹後局 供養塔】
かつてその辺りには古墳がありました。
その古墳の一角に
丹後の局の墓の塚があったとのことです。
宅地開発で塚は削られてしまい、
現在の場所に移されたとの事です。

丹後局 供養塔

<所在地>
〒245-0053
神奈川県横浜市戸塚区上矢部町1919−1

現在は戸塚資源選別センター脇にあります。
県道401号線(瀬谷柏尾道路)から1本入った
ゴルフ練習場
「ウインズラジャゴルフステーション戸塚」の
駐車場向かいにあります。
近くにオーケー戸塚上矢部店があるので、
そのスーパーマーケットに車を停めました。
1000円分買うと駐車料金が1時間無料になるので
帰りはしっかりと買い物をしました。

【住吉大社に逃れた説】
北条政子に追い出された丹後局が
大阪の住吉大社に逃れていった説があります。
そしてこのお社でのちの
島津三郎忠久を産んだとのことです。
お産の時に大石を持っており、
この石が誕生石と言われているそうです。

【惟宗 広言との出会い】
その後、元旦参拝のために
住吉大社を訪れた摂政の
近衛基通(このえもとみち)に
救われます。
そして近衛基通の家臣である
惟宗広言に嫁ぎます。
住吉大社で生まれた島津三郎忠久は、
惟宗 広言の養子となり、
惟宗忠久と名乗る様になったとのことです。

【惟宗 広言】
惟宗 広言(これむね の ひろこと)は、
平安時代後期から
鎌倉時代初期にかけての貴族・歌人。
日向守・惟宗基言の子です。
官位は従五位下・筑後守。

文章生を経て大宰少監・式部丞を歴任し、
久寿2年(1155年)正六位上、
永暦元年(1160年)従五位下に叙されました。
文治2年(1186年)筑後守。

歌人として私撰集に「言葉集」、
家集に「惟宗広言集」があります。
「千載和歌集」に5首と
「玉葉和歌集」に1首が採録されています。
また、今様の名人として
後白河法皇に親しく仕えたとのことです。

子に島津氏の祖である惟宗忠久がいます。
島津氏に伝わる公式書類では
その祖とされています。
妻は比企能員の妹で丹後内侍
とされていますが、
島津氏の史料にしか出てきません。
実子説と養子説がありますが、
通字の問題などから
実子説については、
近年疑問視する説が
有力であるとのことです。





【懐嶋山の碑】
この他の丹後局の伝承として
茅ケ崎市西久保にある
「懐嶋山の碑」(えな塚)があります。
ここでは大庭景能(景義)に匿われ、
その後は西久保の桜屋敷に移って
男の子を産んだとされています。
男の子は後の島津三郎忠久。
その子の胎盤を埋めたとされています。
なお、別の説では大庭景能(大庭景義)の墓ともされています。
「新湘南バイパス」茅ケ崎JCT料金所そばにあります。

【小町神社】
<所在地>
〒243-0125 神奈川県厚木市小野2200
(小野緑地(小町緑地)の中、だそうです)
※近隣に複数の小野神社があります。

厚木市にも伝承があります。
住吉大社に逃れる途中、
厚木市小野で匿われていたそうです。
匿っていたのは愛甲季隆。

【北条政子がワルに描写されている】
丹後局の伝承では、北条政子が
悪者に描写されており、
丹後局は北条政子に
命を狙われていたとのことです。

亀の前のことでも、
北条政子は亀の前が住んでいた
お屋敷を取り壊しています。
ですが、命まで狙ったとは不明です。
いくつかある丹後局の逸話では
どれも北条政子に命を狙われています。
やはり、丹後局が比企一族だからでしょうか。
北条政子がより「脚色」されているのでは?
と思ってしまいます。

【東国での独自の文化・一夫一妻制】
東国で生まれ育った北条政子と
京で暮らしていた丹後局(丹後内侍)。

東国では独自の文化があり、
この時代で既に
一夫一妻制に近かったようです。

伊東祐親が逆上して
源頼朝を襲撃した逸話からも納得できます。

一方、京で生まれ育った源頼朝は
父親がそうであったように、
妻とはそれなりの手順を踏んで
関係を持った女性たち=多妻
であると考えていた節があります。

【後妻打ち(うわなりうち)】
後妻打ち(うわなりうち)とは、
日本の中世から江戸時代にかけて行われた風習です。
夫がそれまでの妻を離縁して
後妻と結婚するとき、
先妻が予告した上で
後妻の家を襲うというものです。

「うはなり」(うわなり)とは後妻のことで、
かつては妻がいる上に
さらに迎えた女性(妾など)を
「うはなり」といい、
のちに先妻と離婚して
新たにむかえた女性を
「うはなり」というようになったそうです。
この「うはなり」を先妻が打擲することを
古くは「うはなりうち」と云い、
「御堂関白記」(藤原道長が著した日記)
や「宝物集」(著者は平康頼(たいらのやすより))
などに「うはなりうち」のことが記されています。
どちらも平安時代に記された書物なので、
北条政子の生きた時代には
既に存在していた風習だと思われます。

後妻打ちの風習は、寛永(17世紀前半)を
過ぎた頃にはすでに絶えていたそうです。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

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