鎌倉殿の13人

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

衣笠城



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三浦義澄

三浦 義澄(みうら よしずみ)は、
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将です。
鎌倉幕府の御家人。
桓武平氏の流れを汲む
三浦氏の一族で、三浦介義明の次男です。
十三人の合議制の一人です。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
大治2年(1127年)

【死没】
正治2年1月23日(1200年2月9日)

【別名】
荒次郎、新介(仮名)

【墓所】
横須賀市大矢部 薬王寺

【官位】
三浦介、相模守護

【主君】
源頼朝、頼家

【氏族】
桓武平氏良文流、三浦氏

【父】
三浦義明

【母】
秩父重綱の娘

【兄弟】
杉本義宗、
三浦義澄
大多和義久、
佐原義連、
多々良義春、
長井義季、
杜重行、
源義朝側室、
畠山重能室、
金田頼次室、
長江義景室

【正室】
伊東祐親の娘

【子】
友澄、義村、重澄、胤義、他

【三浦義澄の生涯】
相模国三浦郡矢部郷(現在の衣笠辺り)
の出身とされています。
具体的な時期は不明ですが、
上総常澄の加冠によって元服し
義澄と名乗ったとされています。

元服にあたっては、
それまでの童名(幼名)が廃されて、
加冠役を勤める烏帽子親から
仮名(通称名)と実名(諱)が与えられます。
その際にその実名の一字(偏諱)の
付与がなされることが多く、
常澄と義澄に共通する「澄」の字が
それにあたります。

平治元年(1159年)の平治の乱では
源義平に従いましたが、
平家方に敗れて京都から
郷里に落ち延びたのでした。
長寛2年(1164年)、
兄である杉本義宗が亡くなり、
それによって三浦氏の家督を
継ぐことになりました。

治承4年(1180年)、
源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した際には
悪天候のため参戦できず、
引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で
衣笠城合戦となり、
父である三浦義明を
討ち死にさせてしまったのでした。
その後房総半島へ渡ってきた
源頼朝軍と合流し、
のちに源頼朝に帰服した畠山重忠らと
共に鎌倉に入ったのでした。

この頃、平家側についていた
正室の父である伊東祐親が捕らえられ、
その身を預かる事となります。
三浦義澄は源頼朝に
伊東祐親の事を許させますが、
伊東祐親自身は自分の娘と
源頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて
自害してしまいます。
葉山町史に伝わる話では
鐙摺山で首をはねられたとのことです。

三浦義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に
源頼朝の宿老となり、
その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、
奥州合戦に参戦して武功を挙げていきます。
建久元年(1190年)に源頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参
院の供奉をしたとのことです。
他の6名は以下の通りです。
千葉胤正、
工藤祐経、
足立遠元、
後藤基清、
葛西清重、
八田知重。

さらに、これまでの勲功として
源頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、
その1人に入ったのですが、
子である三浦義村に賞を譲っています。




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正治元年(1199年)、
源頼朝が死去した後には
2代将軍となった源頼家を補佐する
十三人の合議制の一人となりました。
翌年、梶原景時の変で
梶原景時の鎌倉追放に加担し、
梶原一族が討たれた3日後に
病気で亡くなりました。
享年は74歳でした。

【三浦義澄公 廟所】
薬王寺跡。
三浦義澄の墓がある薬王寺は、
和田義盛が父である杉本義宗と
叔父の三浦義澄の菩提を弔うために建立した寺でした。

薬王寺跡

明治9年(1876年)に廃寺となり、
現在は三浦義澄の墓のみが残されています。
中央の変形五輪塔のような石塔が
三浦義澄の墓と伝えられており、
最下段の石には
胎蔵界の種子(梵字)が
刻まれているとのことです。

三浦義澄公 墳墓

【交通アクセス】
満昌寺前バス停
大矢部3丁目バス停下車徒歩5分程度。
※専用の駐車場はなく、道幅も大変狭いため、
車でお越しの方は、
徒歩圏のコインパーキングに駐車するかなど
して徒歩でお越しください。

三浦義澄公の墓

【所在地】
〒238-0024 神奈川県横須賀市大矢部1丁目13−5

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
佐藤B作(さとう ビーさく)さんが演じられます。

【三浦氏】

三浦氏(みうらし)は、坂東八平氏の一つで、
平安時代の相模国の「みうら」の地を
本拠地とする武家でした。
三浦党(みうらとう)とも呼ばれていました。
諸説ありますが、
三浦氏は平姓直系の氏族とされています。
源頼朝公によって建立された
横須賀市の義明山満昌寺には、
三浦氏の祖を平高望(高望王)の子である
良兼とする系図(「満昌寺差上系図」)が存在し、
「二中歴」に示される
良文流の血統と矛盾するため、
良文流か良兼流かを特定することは
現在は困難であるとのことです。
また「二中歴」を始めとする
諸資料による十分な検証も
行われておらず、
正確な史実は明らかに
なってはいないとのことです。

三浦氏は、
三浦為通・三浦為継・三浦義継・
三浦義明・三浦義澄・三浦義村の
6代に渡って一族を形成しました。

<満昌寺>
満昌寺 横須賀

【三浦為通(為通流)】
平良文の孫である平忠通の子
為通の代に初めて
「三浦」の苗字を名乗ったとされていまs。
地名に由来する苗字であるとのことです。
相模国のこの半島は
日本書紀で「御浦」(みうら)と記され、
万葉集では「御宇良崎」(みうらさき)
と記されていたとのことです。
いずれにせよこの地は「みうら」という音で
呼ばれていたので、
その地名を苗字として採用したということです。




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その三浦為通は前九年の役で武功を挙げ、
源頼義から相模国三浦の領地を
与えられたとあります。
ただし、三浦為通については
数種類現存する家系図の中には
記載されていないものもあり、
その他信頼性が低い史料にしか
見られないことから
実在を疑う説が強いそうです。

【安西氏・宮沢氏】
三浦為通の次男である三浦為俊の
息子の安西為景は安西氏を称しました。
また、三浦為俊の養子である公俊は
宮沢氏の祖となりました。

【三浦為継(為継流)】
三浦氏の動向が比較的明らかになるのは、
三浦為通の息子の三浦為継からです。
なお、三浦為通と三浦為継の間に
為直(為名)を置く系図も存在しているそうです。
三浦為継は後三年の役に従事して功を立て、
三浦氏発展の礎を築いたとされています。
この合戦中の鎌倉景正との
遣り取りは有名となっているそうです。
三浦為継以降の系図は
ほとんど差異は見られませんが、
三浦氏はどちからというと
三浦為継を初代と
みなしていたともいわれています。

三浦為継の逸話

【平子氏(周防三浦氏)】
三浦為継の三男である通継は平子氏を称して
周防三浦氏の祖となり、
四男である景継は安西氏の養子となりました。

【三浦義継(義継流)】
三浦為継の子である三浦義継
(1067年⇒1159年)は
相模国三浦郡を支配し、
三浦荘司また三浦介を称しました。
以降、三浦党は相模の有力在庁官人として
相模介となり、
相模東半分と安房に勢力を振るっていきます。

嫡男は三浦義明です。
次男の義行は津久井氏と称しました。
三男の為清は蘆名氏を称していますが、
孫の石田為久は木曾義仲を討ち取っています。
四男の義実は岡崎氏を称し、
その嫡子である佐奈田義忠は
石橋山の戦いで討ち死にし、
次男の義清は土屋氏の養子となっています。

【清雲寺】
清雲寺(せいうんじ)は、
神奈川県横須賀市にある
臨済宗円覚寺派の寺院です。
長治元年(1104年)、
三浦義継の開基です。
父である三浦為継の菩提を弔うために
創建したものです。
この寺の奥に三浦氏三代の墓があります。

清雲寺 横須賀

<清雲寺・境内図>
清雲寺・境内図

【三浦氏3代の墓】
三基の五輪塔が並んでおり、
中央が三浦為継、
右が三代目の三浦義継、
左が三浦氏の始祖である
三浦為通であるといわれています。
三浦為通の開基になる円通寺跡にあった、
三浦為継と三浦義継の墓は、
昭和14年(1939 年)に
海軍用地となったため清雲寺に移され、
三浦為継の墓と合わせて祀られました。

三浦氏3代の墓 清雲寺

<三浦氏3代の墓・説明>
三浦氏3代の墓・説明

【所在地】
〒238-0024 神奈川県横須賀市大矢部5丁目9−20

【交通アクセス】
満昌寺前バス停下車徒歩5分程度。
又は徒歩圏のコインパーキングに駐車して
【三浦義澄公墓】【満昌寺】【腹切り松公園 】
と併せて訪れるのも良いと思います。




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【三浦義明(義明流)】
三浦義継の嫡男である
三浦義明(1092年⇒1180年)は
三浦義澄とともに1156年の保元の乱と
1160年の平治の乱で源義朝に従っています。
平治の乱では源義朝が敗れ、
三浦一族は戦線離脱に成功し、
京都から落ち延び帰国しています。
その後、自領で雌伏していましたが、
大番役の行き帰りに
源頼朝の配所を訪ねるなど、
源氏との繋がりを保っていました。
三浦義明は父にならい三浦介と号し、
三浦荘(現神奈川県横須賀市)の
在庁官人を務めました。
治承4年(1180年)、
源頼朝の挙兵に応じて、
三浦一族は挙兵しました。
けれども石橋山の戦いで
源頼朝敗戦の報せを聞き、
三浦義明ら一族は引き返し、
籠城戦となり、
三浦義明は一族を安房国に逃したあと、
衣笠城合戦で戦死しています。
享年は89歳でした。

三浦義明の長男である義宗は
杉本氏を称しました。
時期は不明ですが、
老齢の父である三浦義明に代わって
家督を継ぎました。

衣笠城からより鎌倉に近い場所に
拠点を作ることを考え、
三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に居を構えて
杉本城を築城しました。
杉本城は、鎌倉にある杉本寺
裏山にあったとされています。
同地は三浦氏の勢力下で
六浦路・三浦路を抑える要衝でありました。

杉本寺 石塔群

杉本義宗は所領をめぐる争いから
長寛元年(1163年)秋、
安房国に水軍を率いて出陣して
長狭常伴と合戦に及び、
待ち構えていた長狭勢からの
矢傷が原因で杉本城内で亡くなりました。
享年は39歳でした。
その息子である義盛は和田氏を称しました。
次男となる義茂が入城し、
杉本城を護ったとの事です。
長男の義宗が亡くなった後、
三浦家の家督は次男の三浦義澄が継ぎました。
三男の義久は大多和氏を称しました。
四男の義春は多々良氏を称し、
その息子・家村は佐久間氏を称しました。
五男の義季は長井氏を称しました。
六男の義行は杜氏を称しました。
十男の義連は佐原氏を称しましたが、
宝治合戦で三浦宗家が滅んだ後は、
この家系が嫡流となりました。
また、猪苗代氏、北田氏、
藤倉氏、蘆名氏、新宮氏、
加納氏等、奥州で栄えた子孫もいます。

満昌寺 三浦義明公廟所 階段

【北条氏による滅亡】
三浦義村の子には
朝村、泰村、三浦長村、光村、
三浦重村、家村、三浦資村、
三浦胤村(のち親鸞の弟子)、
三浦重時、三浦良賢らがいます。

三浦義村の長男である
朝村の末裔が
今川氏の家臣である
駿河三浦氏であると言うことです。
次男は三浦泰村(1184年⇒1247年)。
四男は三浦光村です。
三浦泰村と三浦光村は権力を持ち、
北条氏を凌ぐほどになり、
宝治元年(1247年)の宝治合戦で
北条氏と安達景盛らに滅ぼされました。




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【相模三浦氏による再興】
その後、三浦氏は傍流となる
佐原氏の三浦盛時により再興されました。
三浦盛時は宝治合戦前には
既に北条時頼に懐柔されていたらしく、
以降の三浦氏は御内人となって
幕府内で活躍しました。
三浦盛時の子の三浦頼盛は
北条時輔の遺子を捕縛して
幕府に引き渡しています。
三浦盛時によって再興された
佐原流三浦氏はやがて
戦国大名の相模三浦氏となっていくのです。

また、相模三浦氏の支流として
正木氏が出ています。
正木氏は安房里見氏の家臣となった後、
徳川家康に仕えました。
紀州藩家老となった正木為春、
家康側室となった養珠院
(徳川頼宣及び徳川頼房の母)
を輩出しています。

【現在】
三浦氏の繁栄の名残は
現在も各地に残っているとのことです。
三浦氏の本拠があった
横須賀市衣笠の衣笠商店街では
「衣笠さくら祭り」の一環として
三浦氏に扮した市民による
パレードを通常であれば
毎年4月に見ることが
できるとのことです。

【東北の三浦氏の末裔】
北条氏により滅ぼされた後、
三浦氏の落人は各地に散っていきました。
現在でも東北地方には
地域の三浦姓の大本家として
続く家が残っているそうです。
中には、三浦氏の落人たちが
各地に散り散りになる時に約束したという、
「その地に三浦氏の者が住む目印として、
庭に三浦氏のシンボルである
かやの木を植える」
という伝承が残っている家があるとのことです。
また今も三浦氏の祭神である
三浦大明神を祀っている家もあるそうです。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

佐原義連と相模・佐原城、一ノ谷の合戦「鵯越の逆落とし」一番乗りの武勇で有名、会津・蘆名氏の祖です。

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

源頼朝公上陸地の碑と矢尻の井戸と洲崎神社~館山市洲崎、「義経記」に書かれています。

源頼朝上陸地の碑と神明神社~ 安房郡鋸南町竜島、吾妻鏡に記載されています。

一戦場古戦場 ~安房に逃れた源頼朝が奇襲にあい、合流した三浦義澄が討ち取った古戦場

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。

平作城~衣笠城の支城、三浦義明の弟の孫である平佐古(蘆名)為重の所領でした。

大田和城址~大多和氏は三浦義明の三男である大多和三郎義久が築城しました。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

怒田城・大矢部城・小矢部城~三浦一族の本拠地である衣笠城の支城です。

鐙摺山(鐙摺城址)とは?小坪合戦(畠山VS三浦)・伊東祐親終焉の地・亀の前居住・源実朝が一句・三浦道寸が物見

新井城址・相模三浦氏とは?伊勢盛時から3年間持ちこたえた断崖の要害

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。

会津新宮城跡~三浦一族の佐原盛蓮の六男である新宮氏が築城、国の史跡です。

藤倉舘~三浦一族の佐原盛蓮の三男・藤倉盛義の居館と伝えられています。

会津・北田城跡~三浦一族・佐原盛蓮の次男の佐原広盛が築城し、北田氏を名乗り7代続きました。

浦賀城~東叶神社境内、安房里見軍に備えて小田原北条氏が水軍を配置、浦賀水道から房総半島が一望できる。

ペリー上陸記念碑の建設とペリー一行が久里浜に上陸した経緯について~ペリー公園。

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コメント

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  • コメント (2)

    • 高橋和之
    • 2022年 11月 07日

    「三浦氏の落人たちが
    各地に散り散りになる時に約束したという、
    「その地に三浦氏の者が住む目印として、
    庭に三浦氏のシンボルである
    かやの木を植える」
    という伝承が残っている家があるとのことです。」に興味を持ちました。
    日野の土方歳三の生家跡に巨大なカヤノキが残っているのと、土方家の菩提寺石田寺にも樹齢400年以上のカヤノキがあるので一挙にロマンが広がり古道研究家・鎌倉郷土研究家に直接訪ねましたが聴いたことがないとの回答でした。どの地域?出展など教えた頂けないでしょうか。

    • さば
    • 2022年 11月 07日

    ご高覧のほど賜りまして誠にありがとうございます。
    宝治合戦のあと三浦氏の生き残りは各地に散ったようで「かやの木」の風習は宮城県本吉町付近にある伝承となっているようです。
    当方ではこのくらいしか分かりません。(^-^)

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