【源頼朝上陸地の碑・竜島】
伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、
治承4年(1180年)に挙兵しましたが、
8月「相州石橋山の合戦」で平家との戦いに敗れ、
同国土肥郷真名鶴岬(現真鶴岬)から
小船で安房国へ逃れたのでした。
安房国へ逃れた時に源頼朝が
上陸した地点については、
伝承をもとに数か所の地名があげられてきました。
なかでも、安房郡鋸南町竜島(りゅうしま)と
館山市洲崎は、その代表的な地点として
有力視されてきました。
「吾妻鏡」の記述では
「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」
(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、
安房国猟ヶ島に着かしめ給う)
という記載があり、
現在の竜島付近が上陸地点として認定されています。
この時、上陸した房総半島の安房は、
現在の千葉県安房郡鋸南町竜島
(きょなんちょうりゅうしま)です。
竜島とは島の名ではなく、
その辺り一帯を指す地名であり
住所でもあります。
「吾妻鏡」には更に源頼朝上陸の場面は
このように描かれているとのことです。
「二十九日、武衛(頼朝)、
(土肥)実平を相具し、
扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かしめ給う。
北条殿以下人々これを拝迎す。」
この竜島に上陸した源頼朝は、
地元の平氏方豪族長狭常伴の襲撃を蹴散らし、
安西景益の館に入り、諸方に参陣を求める使者を出します。
別格の勢力を持つ
上総介広常(かずさのすけひろつね)、
千葉、三浦、北条、安西など
源氏恩顧の勢力がこれに応じ、
海路の敗走からわずか半月後には
先祖伝来の要害の地、鎌倉へと入っています。
<竜島七姓>
源頼朝はこの地に上陸し、
近くの神明神社において一夜を明かします。
その時、近隣の住民たちは衣食を持ち寄り、
手厚くもてなしました。
喜んだ源頼朝はこれに報いるため
姓を下しました。
そのうちの七つは竜島七姓といわれています。
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「左右加、馬賀、艫居(ともい)、間、渡」、
「菊間、柴本、中山、久保田、
鰭崎(ひれさき)、生貝(いかがい)、松山」
の各姓で、後者を竜島七姓といい、
現在も周辺にはこれらの姓が残っているそうです。
横須賀にも馬賀姓の方がいるそうです。
日本史上、
初の武家政権となる鎌倉時代が誕生するなかで、
房総の果たした役割は非常に大きなものでした。
海岸には、源頼朝上陸の碑と
説明板が建てられており、
この場所から眺める夕日は圧巻であるとのことです。
【所在地】
所在地: 〒299-2118 千葉県安房郡鋸南町竜島165−1
【交通アクセス】
JR内房線「安房勝山」駅から徒歩15分程度。
【駐車場】
海岸から少し高い処に
無料駐車場がありますが、
釣り客ですぐに満車状態になります。
【神明神社】
上陸後の源頼朝が滞在した場所と伝わっています。
現在は神明神社となり、
竜島区民会館が隣接しています。
小さな神社ですが彫刻が立派なもので、
本殿の欄間には、鯛もいます。
宮彫りは後藤義光の孫、
3代目義光の実弟の義孝の作品とのことです。
国会議事堂の参議院玉座などを手がけたそうです。
【所在地】
〒299-2118 千葉県安房郡鋸南町竜島130
【交通アクセス】
上記の源頼朝の上陸地より徒歩5分程度です。
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