織田家

長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物

長井道利






長井道利

長井道利(ながい みちとし)は、戦国時代の武将。
斎藤氏家臣。初め美濃竹ヶ鼻城主とされていたようですが、
のちに美濃金山城主となりました。
通称は隼人佐。
斎藤道三・義龍・龍興の斎藤家3代に仕えた重臣で、
中濃、北濃方面を担っていました。

【生い立ちと生涯】
【斎藤道三との父子相克】
長井道利は、稲葉山城主の斎藤道三の若いころの子で、
斎藤義龍が生まれてからは
斎藤道三の庶子または弟としたという説があります。
また、斎藤道三の年の離れた弟の説もあります。
更には、長井利隆の孫とする説や、
長井長弘の子などの説もあり、
これは長井家の名跡を
継いだためと考えられています。
年齢的には斎藤義龍とそれ程離れていない、
とも伝わっているそうです。

【義龍と共に異母弟を暗殺す】
初めは斎藤道三に仕えていましたが、
次第に斎藤道三とその嫡男である
斎藤義龍が不仲になると、
弘治元年(1555年)11月、
斎藤義龍に接近して、
斎藤道三の寵愛する義龍の異母弟孫四郎、
喜平次らの暗殺を提言し、
斎藤義龍と共に2人を謀殺したと伝わります。
直後の12月には、
斎藤義龍の知行充行の使者となっています。
(備藩国臣古証文)

【道三を討ち、明智庄の代官へ】
弘治2年(1556年)4月の長良川の戦いでは、
弟あるいは子の長井道勝と共に斎藤義龍側に付き、
斎藤道三を討ち果たします。
このとき、長井道勝は、当初は
斎藤道三を生け捕りにする予定でしたが、
小牧源太(道家)の横槍が入り、
この小牧源太が斎藤道三の脛を薙ぎ、
押し伏せて首を切ってしまったそうです。
これに激怒し、最初に組み付いたせめてもの証拠として
斎藤道三の鼻を削いで
懐に収めその場を退いた、と伝わります。

其の後、同年、斎藤道三方に組した
明智光安明智城
弟あるいは子供とされる長井道勝と共に攻めて、
可児郡の明智氏を滅ぼすと、
明智庄の代官となったそうです。
(永禄8年4月13日付顔戸八幡神社棟札)





【中濃・北濃の支配】
永禄4年(1561年)5月に斎藤義龍が急死すると、
斎藤道三の娘婿である尾張国の織田信長
美濃に侵入し在陣を続けたため、
長井道利と斎藤義龍の子である斎藤龍興
和睦した事を瑞龍寺の書状が伝えており、
(年不詳6月6日付関善寺(信濃)宛瑞龍寺(美濃)文書
「別伝座元悪行記」所収文書)
同年の墨俣における合戦中の出来事と考えられています。
そして、長井道利は斎藤義龍または
斎藤龍興の重臣とそれまで不和だったことも推測できます。

武田信玄との仲】
また、6月16日付で信濃国を領国化し、
東濃・苗木城の遠山直廉と連携していた武田信玄から、
長井道利は助勢の書状を受け取っていたとも伝わっています。
その内容は、
「井の口(岐阜)より出陣の知らせがあり、
信州の兵に出陣の準備をさせている。
10日以上の長陣であれば自ら出陣するが、
敵が退散し安心した。今後も加勢…」とあり、
永禄4年(1561年)6月の墨俣において
織田信長が長陣した場合、
斎藤龍興・長井道利に加勢するとの内容と推測されます。
なお、永禄3年(1560年)6月に
斎藤義龍と長井道利が不和となり、
対峙した内容とも推測できます。

遠藤慶隆の後見となる】
永禄5年(1561年)に
郡上郡八幡城主の遠藤盛数が死去し、
子の遠藤慶隆が13歳で後を継ぐと、
危機を憂慮した慶隆の老臣たちの決定で、
道利は盛数の未亡人(慶隆の母)と結婚し、
遠藤慶隆の後見人となりました。

永禄7年(1564年)2月の
竹中重治(竹中半兵衛)の
稲葉山城奪取に乗じて郡上木越城主である
遠藤胤俊が八幡城を攻め取り、
遠藤慶隆は苅安城に逃れました。
斎藤龍興が稲葉山城を取り返すと、
翌永禄8年(15655年)に長井道利は
苅安城の遠藤慶隆へ援軍を送り、
遠藤胤俊に八幡城を返却させています。

長井道利と武田信玄との
友好関係はその後も続いており、
永禄7年10月には
快川紹喜恵林寺住職)の
甲斐への道中の安全を頼まれています。
この関係は、永禄8年に武田信玄が斎藤氏と
敵対する織田信長と婚姻関係を結ぶまで
続いたと考えられています。

【本拠地は金山城?】
顔戸八幡神社(現御嵩町)の棟札によれば、
長井道利は永禄8年4月時点で、
少なくとも可児・加茂地方を
斎藤龍興の代官として支配しており、
金山城も支配下にありました。
また、関城は中世城館としての
遺構はほとんど見られないため、
関城主というより金山城を本拠として
斎藤政権の東部方面軍を指揮していたとも推測できます。

【織田信長の美濃侵攻とその後】
尾張の織田信長の美濃攻略を始め、
永禄8年夏に木下秀吉が鵜沼城へ攻め寄せると、
長井道利は兵300で秀吉を攻撃しましたが、
木下秀長に側面を突かれて木下秀吉を逃しています。
同年9月には、斎藤方の堂洞城主岸信周と共に、
織田側に寝返った佐藤忠能の居城である
加治田城奪取に乗り出しますが、
堂洞合戦で岸信周が討ち死にしたため、
居城の一つとされていた関城に籠城するも、
織田方の斎藤利治(長龍)によって
攻め落とされました。

その後も継子の遠藤慶隆らと
共に織田信長に抵抗しますが、
永禄10年(1567年)、
稲葉山城が陥落したため、
斎藤龍興と共に長良川を降り
伊勢国に逃れていきました。

元亀元年(1570年)には、
長島一向一揆に加勢して敵対を続けています。
その後、織田信長と不和となっていた
15代将軍の足利義昭に仕えています。





【最期について】
長井道利の最期については諸説あります。
その中で最も有力であるとされているのが、
元亀2年(1571年)8月28日に、
摂津白井河原の戦いで討死したとされる説です。
次に、最後まで斎藤龍興と共に行動したことから、
天正元年(1573年)に起きた刀根坂の戦い
越前刀根山で主君である
斎藤龍興と共に討死したという説です。
朝倉方が大敗し、3000人もの死者を出したという
壮絶な戦でした。
他、織田信長の稲葉山城攻めの時点で、
逃げたまたは死去したともいわれています。

その後、子あるいは兄弟とされる長井道勝、
頼次、時利らは姓を井上と改め、
織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えたとのことです。
なお、長井道勝改め井上道勝は、
98歳まで長生きしたと伝わっています。
嫡男である長井新太郎は、本能寺の変で死去しており
其の後、外孫の三十郎が長井の名字を継いだそうです。

【長井道利は何をしたかったのか?】

長井道利は出目も諸説あって、ナゾとされていますが、
最期もまた、諸説ありで、結局は、
謎めいた人物ということになります。
もしかして・・どこかの間者であり、
(有力候補としては甲斐の武田家ですが。
或いはそこで背乗りされてしまったとか・・・)
それゆえ、出目も最期も謎に包まれていた・・
とはスパイ小説の読みすぎかもしれません。

そして、長井道利の生涯を追っていくと、
この人は一体何がしたかったのだろう?と疑問に思います。
同じ中濃衆である佐藤氏や岸氏が明確であるので、
道利の行動は、余計疑問に思ってしまうのです。
結果的には、斎藤家を潰し、
長井家も傾かせたことになりますが、
道利にとっては、どちらも良くない印象だったのでしょうか?
或いは、誰かに対して「見て欲しい」「構ってほしい」旨の
アピールだったのでしょうか?
それとも、とにかく「憎かった」のでしょうか?

歴史的な考察においては、
現在の研究において、斎藤道三の国盗りは、
父である松波庄五郎と二代にわたって成したもの、
という説が有力となっています。
そうなると、長井道利は斎藤道三の弟、
とする見方が優勢であり、年齢や年代的にも
自然な流れなんだそうです。

ただ、、私としては、斎藤道三は実の父親であり、
その父親に対して複雑な思いを抱き、
そうした思いがまた道利自身の原動力にも
なっていたのではないかと思えてなりません。

或いは弟、であっても
斎藤道三とは父親が異なる弟で、
正当な「長井」さん。
そうであると、
道利の一連の行動も理解しやすいかもしれません。





長井氏と斎藤氏】
長井氏と斎藤氏は系図を辿ると、元は
どちらとも「長井」だったようです。
けれども出目は異なっていたようです。

【長井氏】

【大江朝臣長井氏】
⇒武蔵長井氏系
⇒美濃長井氏系

【藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏】
⇒武蔵斎藤氏系
⇒美濃斎藤氏系

【大江姓長井氏】
鎌倉幕府別当大江広元の次男である時広を祖に持ちます。
所領である出羽国置賜郡北西の
長井荘(山形県長井市)から、
長井氏(永井氏)を称したと伝わります。

【武蔵長井氏】
武蔵国多摩郡横山荘(東京都八王子市)に拠った横山党
建暦3年(1213年)の和田合戦で滅び、
横山荘は大江広元に与えられました。
後に長井氏の一族が土着し、片倉城を拠点とします。
広園寺梵鐘銘文には、応仁2年(1468年)に
大江(長井)広房の寄進とあると確認できるそうです。
長井広房は上杉朝昌女子を正室としていました。
戦国時代は扇谷上杉氏に仕えていましたが、
大石氏の勢力に押され、
永正元年(1504年)の立河原の戦いでは
初沢城守将の長井広直が一族郎党の多くと戦死し、
以後は衰微し、その一部は
他の地へ流れていったとも考えられています。
なお、斎藤氏族長井氏とは、
同じ武蔵国内でありますが、本拠を別としています。

【美濃長井氏】
鎌倉時代、大江広元の次男である長井時広は
美濃国茜部荘(旧厚見荘)の地頭でもあり、
代々これを相続してましたが、
南北朝時代に入ると後醍醐天皇が茜部荘を没収し
東大寺に寄進されていました。
その後、美濃長井氏には
長井秀弘が美濃斎藤氏の斎藤妙純の重臣として現れ、
明応4年4月(1495年)の
船田合戦において厚見郡の加納城の守将として活躍していました。

【美濃長井氏の別の説】
なお、美濃長井氏は、
守護代の斎藤利永の子である斎藤利隆を初代とする史料もあります。
美濃長井氏である当主長井長弘は宗家の斎藤家の没落に乗じて、
その配下の西村勘九郎長利(斎藤道三の父)が
「長井新左衛門尉」と称して、主命で美濃の権力を握りました。
けれども、その後1530~1533年のわずかな期間に、
長井氏(長井利安・長井長弘・長井利隆)らの謎の急死が相次ぎ、
新左衛門尉も死去したため、
長井家は新左衛門尉の子が継ぐ事になります。
その子は「長井規秀」を名乗ったそうです。
その後、規秀は「斎藤利政」(のちに道三)へと改称して、
守護代斎藤家を継いだ、とされます。





【藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏】
武蔵斎藤氏と呼ばれる斎藤実盛(さいとうさねもり)の系統。
本拠とした武蔵国幡羅郡長井荘
(現・埼玉県熊谷市)から長井氏を称し、
斎藤実盛は長井別当と呼ばれていました。
なお、斎藤実盛は河合斎藤氏の子孫です。
河合斎藤氏は、藤原則光の孫である斎藤助宗を祖とします。

【美濃斎藤氏】
美濃の斎藤氏は、
越前斎藤氏の庶流である河合系斎藤の赤塚氏が
美濃目代として越前から移り住んだことから
始まると伝えられています。

室町時代に美濃守護土岐氏に仕え、
文安元年(1444年)閏6月に、
斎藤宗円が京都の土岐屋形で富島氏を誅殺し
守護代となって勢力を揮ったとあります。
斎藤宗円の子・斎藤妙椿は兄・利永の死後、
甥の守護代利藤を後見し、
後に室町幕府奉公衆となって足利氏に直接仕え、
守護・土岐成頼の官位をも上回り、
応仁元年(1467年)の応仁の乱では
西軍の主力として各地を転戦しました。
けれども、妙椿の跡(持是院家)を
継いだ斎藤妙純(利国)は、
土岐成頼を巻き込んで斎藤利藤と守護代の座を争い、
内紛をおこしました。
斎藤妙純は、
明応4年(1495年)からの
船田合戦に勝利しましたが、
翌年近江に出兵し戦死してしまいました。
このため、同族争いが再燃し、
斎藤家の勢力は徐々に衰えを見せ、
庶流の長井氏が台頭してきました。
なお、斎藤妙純の娘は越前の朝倉貞景に嫁ぎ、
姻戚関係となっています。
また、斎藤利藤の末子である日運は、
京都の妙覚寺に入り、後に美濃常在寺4世となったそうです。

【斎藤道三】
天文8年(1539年)頃、
長井長弘の家臣である長井規秀が頭角を現し、
斎藤氏を名乗ったとされており、
これが後の斎藤道三ともいわれています。
斎藤道三の父である松波庄五郎は畿内の出身であり、
妙覚寺にて日運の兄弟子であったと伝わっています。

斎藤道三は稲葉山城主となり、さらに守護土岐頼芸を追い、
下克上によって美濃を押領しましたが、
弘治2年(1556年)、斎藤義龍によって死去します。
斎藤義龍は早世し、その子である斎藤龍興が家督を継ぎますが
永禄10年(1567年)、織田信長に攻略され、
美濃を追放されて越前の朝倉義景を頼りにしていきました。
斎藤龍興は天正10年(1573年)に
朝倉義景が織田信長に滅ぼされた時に運命を共にして討死。
(刀根坂の戦い)
戦国大名斎藤家はここに滅亡しました。





斎藤利三
明智光秀の重臣で春日局の父として知られる
旧奉公衆であった斎藤利三は、
斎藤道三以前の美濃斎藤氏の一族であり、
斎藤利光の三男である斎藤利宗は、
後に5000石を知行する旗本となったそうです。

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

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安藤守就~西美濃三人衆~娘婿は竹中半兵衛、最期は稲葉一鉄に滅ぼされる

不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~

坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~

光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

濃姫(帰蝶)~織田信長のナゾ多き正室で明智光秀の従兄妹~

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

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