織田家

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

金山城址・石碑




美濃金山城

金山城(かねやまじょう)は
美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市兼山)
に存在した日本の城(山城)です。
城跡は「美濃金山城跡」
(みのかねやまじょうあと)として、
2013年に国の史跡に指定されています。
2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城(143番)に選定されています。
スタンプ設置場所は可児市観光交流館。

【所在地】
〒505-0130 岐阜県可児市兼山

【金山だけど兼山の理由】
現在は「兼山」という地名ですが、
元々は「金山」でした。
けれども同じ名前や漢字表記の場所が
あったので、今から350年ほど前に
「兼山」という表記に変えたそうです。

【兼山のまち】
街の北側を木曽川が流れています。
南には中山道が通っていて、
多くの人や物が行きかう場所でした。
木曽川には古くから多くの湊があるそうです。
近くの山々からは木材が、
海からは塩や魚が運ばれてきました。
現在でも、城下町や商人町として
賑わっていた往古の姿を見ることができる町です。

【別名】
兼山城、鳥峰城、鳥ヶ峰城

【形態】
梯郭式山城

【天守構造】
複合式層塔型2重2階・非現存

【築城主】
斎藤正義

【築城年】
天文6年(15377年)

【主な改修者】
斎藤正義

【主な城主】
斉藤氏、森氏、石川氏

【廃城年】
慶長5年(1600年)

【遺構】
移築門、石垣、土塁、堀、井戸跡、石碑
【指定文化財】
国の史跡

【地理的場所】
標高約277mの古城山の山頂に築かれ、
天守台を山頂に配置し、
本丸を中心に二の丸、三の丸、
南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、
天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭があります。

【城の歴史】
天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため、
斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て
猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられました。
けれども斎藤正義は天文17年(1548年)に、
近隣の久々利城主である久々利頼興(土岐悪五郎)に、
久々利城へ招待された際に討たれ、
城主が一時不在となりました。

その後、永禄8年(1565年)、
織田信長が美濃国を領地としたことにともない、
に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称しました。
元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで
森可成が戦死します。
その直前には長男の森可隆も
天筒山城で討ち死にしたため、
次男である森長可が跡を継ぎ城主となりました。





天正10年(1582年)、
森長可が信濃国川中島に転封されると
弟の森成利(森乱丸)が入城しますが、
森成利は同年中に本能寺の変により討死します。
森長可が情勢不安の川中島を捨てて
戻って来たため、再び森長可の領地となります。
天正12年(1584年)に
森長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、
森可成の六男である森忠政が城主となりました。

慶長5年(1600年)、
森氏が川中島藩に転封されると
城は石川貞清の所有となり、
建物は解体され石川氏の居城である
犬山城の改修に使われたということです。

兼山城の天守が犬山城の天守として
移築されたという伝承がありましたが、
昭和36年(1961年)の
犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、
移築の痕跡がまったく発見されなかったため、
移築説は現在は否定されています。

2006年(平成18年)、
可児市が約5年かけて
金山城の発掘調査を行いました。
当時の茶碗や瓦等の
多くの遺物が出土したそうです。

<美濃金山城・城下町復元図>
美濃金山城・城下町復元図

【遺構】
遺構には曲輪、土塁、井戸、堀、石垣などの一部が残り、
本丸には石碑が建てられています。
城の建造物は慶長5年(1600年)に解体され、
麓の兼山湊から木曽川を通じて
犬山まで運び犬山城の改修工事に利用されましたが、
犬山市の瑞泉寺に二の門が、
可児市兼山に裏城戸門が移築現存しているそうです。

<石垣>
金山城・石垣

【構造】
金山城・略図

【本丸(天守台)】
古城山の山頂部に位置し、
兼山城の中枢となっていました。
周囲は土塀に囲まれ、北側に天守を設け、
隣接して南東側に小天守、
さらに小天守の南西側に
袖櫓が隣接していたそうです。
中央部に本丸御殿、
南西側に西南隅櫓を設けていました。
天守と本丸御殿の間に
建物の礎石が見つかっていますが、
詳細は不明です。
現在は鳥竜神社となり、
本丸の北西側には石碑が建てられています。

金山城・本丸

【天守】
本丸の北隅に存在した2重2階層塔型の櫓。
天守と小天守の複合式で、
南東側で小天守と隣接していました。
安土城の天守とほぼ同時期に造られたそうです。
かつては金山城の天守が
犬山城に移築されたとの説がありましたが、
そのような痕跡はないことが
近年の調査で判明しています。

【小天守】
本丸の東隅に存在した天守の附櫓。
北側で天守と、西側で柚櫓と隣接していました。
小天守の床下に深さ約1.9mの穴蔵がありました。
小天守の東側の袖櫓の石垣に沿って
穴蔵の出口の石段(3段)を設け、
さらに、西側の穴蔵の仕切石垣に沿って
穴蔵出口を設けていました。
この穴蔵の南側に東西2か所に出口を設けたことは
全く他に類例のない独特な構造です。
未だに2か所の出口を設けた理由は解明されていません。
周囲の石垣と礎石が現存しています。

【袖櫓(そでやぐら)】
本丸の南側に存在した建物。
小天守と東側で隣接して、
建物の北西側に出入り口が
設けられていました。
現在は礎石が残るのみです。





【本丸御殿】
本丸の中央部に存在した建物で
城主の居館として使用されていました。
本丸御殿跡からは茶碗などの食器が出土しています。
規模は東西約11m、南北約12.7mで
面積約138.6㎡。
2棟の建物があり、
南棟の南側には廊下が存在していました。
礎石の一部が現存しています。
昭和28年(1953年)に
鳥竜神社再建の際に整地のために
礎石を石材として転用して
一部の原型を崩されてしまい、
詳しい構図はよく分かっていません。

金山城・本丸礎石

【西南隅櫓(坤櫓)】
本丸の南西隅に存在した二層の隅櫓。
規模は南北約9m、東西約8m。
6個の礎石が現存するのみです。
隅櫓跡から古瓦片などが出土しています。

【仕切門】
本丸の中央部に存在した門で
礎石だけが現存しています。

【大手枡形】
二の丸から本丸へ登る途中にある
門や土塀に囲まれた空間。
南側正面に大手門、大手門を過ぎて
右手の石段「3段」の上に
二の門が設けられていました。
規模は南北約9m、東西約12m。
普段は武士達への威厳を示す場所であり、
ここまで来た武士は呼吸を整えながら、
本丸へ登るために
衣紋の乱れなどを直していたそうです。

金山城・大手枡形

【大手門】
大手枡形の南側に存在した門。
通称:追手門、一の門、表門。
門の両脇に潜り門とし、
更に両脇に袖塀をつけていました。
慶長5年(1600年)に
犬山城へ移築されて内田御門に使用されました。
その後、同市にある瑞泉寺に移築されました。
江戸時代後期に老朽化のため
新造されて現在に至っています。
その門の土台の間隔は
金山城大手門の礎石の寸法と
一致したということです。

【二の門】
大手枡形の東側に存在した門。
通称:裏門、出口門。
慶長5年(1600年)に
大手門と同様に犬山城へ移築されて高麗門に使用。
その後、同市にある瑞泉寺に移築されました。
二の門は現存していますが老朽化が激しいそうです。

【二の丸】
南腰曲輪の南側に位置する郭。
家臣団の屋敷(侍屋敷)が設けられ、
南側に見張櫓、北側に二の丸門が設けられていました。

【二の丸見張櫓】
二の丸の南側に存在した二層の櫓。
2棟の建物から形成されています。
天守台に匹敵する広さで、
櫓からは城の東側周囲を見渡すことができ、
金山城の敵勢監視をするために重要な櫓でした。

【二の丸門】
二の丸の北側に存在した門。
両側とも土塀と隣接していました。
現在は礎石が残るのみです。

金山城・二ノ丸跡

【三の丸】
西腰曲輪の南側に位置している郭。
厩などが設けられていたと考えられており、
中央部に見張櫓、南側に三の丸門が設けられていました。

【三の丸見張櫓】
三の丸の中央部に存在した二層の櫓。
ここは三の丸、二の丸、西腰曲輪、
北方物見櫓へ通ずる要所で金山城の最重要箇所でした。
東西約6.5m、南北約5.5mの台地上に建てられました。
昭和29年(1954年)に
古城山払下記念碑の建設などが相次いで行われ、
原型は崩されて礎石や石垣などの残石が
そのままの状態で西腰曲輪などに散乱しています。

古城払下げ記念碑

【三の丸門】
三の丸の南側に存在した門。
両側とも土塀と隣接し、
正面から見て左側に門番がいたと考えられています。
礎石が他の門よりも大きいことから
大きい規模の門であったことが推察されています。
礎石だけが現存しています。





【出丸】
兼山城の第一防衛線のため
大手口に築かれた曲輪。
城内で唯一独立している郭で、
規模は東西約50m、南北約43mで
城内で最も広い曲輪です。
北側は高さ約3mの土塁で築かれ、
南側は高さは約3.4mの石垣で築造されています。
出丸の石垣は城内で現存する
石垣の中で最も古いといわれています。
現在は近くに駐車場があるため
他の郭と比べて比較的整備されています。

【出丸櫓】
出丸の南東隅に存在した二重の櫓。
櫓の東側に山麓と通じる大手道があります。
礎石だけが現存しています。

【出丸表門】
出丸の東側に存在した門。
礎石だけが現存しています。

金山城・出丸看板

【南腰曲輪】
本丸の南側に位置している郭。
規模は320㎡で中央部に
武器櫓が設けられていました。
南側に共同アンテナが建てられています。

【武器櫓】
南腰曲輪の中央部に存在した一重の櫓。
3棟の建物から形成され、
北側の中央部に出入り口が存在しました。
櫓跡から平瓦の破片が出土したことから、
建物は瓦葺であったことが確認できます。
礎石が現存しています。

【西腰曲輪】
三の丸の北東側に位置している郭。
規模は約265㎡で
三の丸見張櫓の石垣の残石などが散乱しています。
三の丸見張櫓との間に水手門が存在していました。

【水手門】
水手門は西腰曲輪と
三の丸見張櫓の間に存在した門。
通称:水の手門。
水の手へ向かう入口の役割を果たしていました。

【東腰曲輪】
本丸の東隣に位置している郭。
北側には東西約10m、高さ約3mの石垣を構築し、
石積手法は野面積で
出丸の石垣とともに
城内で最も古いといわれています。
面積は東西約21mの330㎡で
天守台の石垣の隣に
天水井戸が設けられていました。

【天水井戸】
東腰曲輪の西側に存在した井戸。
山頂にあることから
雨水を貯めていた井戸と考えられています。
終戦前まで完全に現存していましたが、
戦後に何者かによって破壊されてしまいました。
規模は深さ約1.4m、
幅1.5m、長さ約2.5mありました。

【搦手門跡】
本丸の南側に位置している郭。
南東隅に搦手門が設けられていました。
規模は長さ約20m、幅約5.6m。

【搦手門】
東腰曲輪の南東隅に存在した門。
本丸から左近屋敷へ向かう途中に
置かれていました。
現在は礎石が残るだけである。

【北方物見櫓】
兼山城の北端にある
北方物見台に存在した二重の櫓。
北方物見櫓は質素で簡単な造りでした。
北方物見台は二段に分かれており、
上段に櫓を設け
下段に敵を遮断するための
高塀を廻らせていました。
規模は上段と下段を合わせて
東西約14m、南北約10m。
本丸のすぐ北側の下にあり、
かつては本丸と
大手枡形への連絡通路が存在しました。
現在は西腰曲輪からの
連絡通路しか残っていません。





【左近屋敷】
古城山の中腹に存在した居館。
森氏の家老であった細野左近の館でした。
南東側で物見台と隣接しています。
屋敷は削平にした東西約14m、
南北約15mの台地上の東端に存在していました。
屋敷の門の礎石と、
建物の礎石が現存しています。

【南東方物見櫓】
左近屋敷の南側にある物見台に存在した櫓。
約6m四方の台地上に置かれていました。

【水の手】
水の手は兼山城の北西側に存在した湧水。
水手門の先にある水の手道とよばれる
道を通って城兵はここまで
飲料水を汲みに来たそうです。
東腰曲輪にも天水井戸がありましたが、
飲料用ではないので、
城中生活の飲料水は
ここに依存していたそうです。

【交通アクセス】
名鉄広見線明智駅から
YAOバスで元兼山町役場前バス停下車、徒歩15分

【鉄道】
名古屋鉄道
広見線明智駅より北へ徒歩約55分
広見線顔戸駅より北へ徒歩約1時間
JR東海
高山線古井駅より東へ徒歩約1時間

【駐車場】
出丸の処にあります。

【トイレ】
出丸の駐車場にあります。

<スタンプ設置場所>
可児市観光交流館。
児童館と記載されている辺り。
駐車スペース有り。

【森可成(もりよしなり)】

永禄8年(1565年)、織田信長の重臣である
森可成が城主となり金山城と名前を変えました。
本姓は源氏で家系は清和源氏の一家系、
河内源氏の棟梁・鎮守府将軍八幡太郎義家の7男・
陸奥七郎義隆の子孫にあたります。
森氏は義隆の3男・若槻頼隆の次男・森頼定に始まります。
可成の家系は森頼定の次男である森定氏の子孫が
美濃に住んで代々土岐氏に仕えていました。
斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の
天文23年(1554年)には尾張国で
織田信長に仕えました。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力し
元亀元年(1570年)9月、
浅井長政朝倉義景の連合軍との
宇佐山城での戦いで討死しました。
異名は攻めの三佐。

【森長可】

森長可(もりながよし)は森可成の次男です。
元亀元年(1570年)に父である可成が戦死し、
長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、
僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕えました。
元亀3年(1572年)12月には
羽柴秀吉丹羽長秀塙直政らとともに
発給文書に連署しており
15歳にして既に他の重臣らと同じように
活動している様子が窺えます。
元亀4年(1573年)3月、
第二次長島一向一揆攻めに
織田信忠の部隊に参加して初陣となります。
以降、織田信忠の与力武将として
数多くの合戦に参加し武功を挙げています。

【兼山の町を発展させる】
天正5年(1577年)頃から内政にも参加。
兼山城(金山城)発展の為に
木曾川を活かしての商業を重視し
河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、
六斎市の開催などを行っていました。
また内陸部で入手の難しい海魚・塩の
販売需要を見込んで専売制を敷き、
地元商人に専売特権を
与える見返りとして税収を得ました。
この専売制は森家が美濃を去った後も、
商人たちが尾張藩の美濃代官に
森長可の書状を持って制度の存続を求めると、
尾張藩では専売ではなかった
魚と塩の専売を特例として認めさせ、
明治時代に到るまでこの制度は存続したそうです。





【川中島へ】
天正10年(1582年)の甲州征伐において
織田信長から恩賞として
信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と
海津城20万石を与えられました。
また森長可の旧領である金山は
弟の森成利(蘭丸)に与えられています。

本能寺の変】
同年6月2日に本能寺の変で
織田信長が討たれました。
森長可配下の信濃国衆たちは
出浦盛清を除いてほぼ全員が
森長可を裏切り、
森軍を殲滅する為の一揆を煽動していました。
そこで、森長可は合戦を仕掛け勝利します。
更に
「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」
という密告を受け、暗殺の企みを封じます。
東美濃入りした後も、
苗木遠山氏の遠山友忠などが
暗殺を企てていたとの情報を入手し、
対策を講じて、
森軍は無事に旧領の金山へと辿りつきました。

【東美濃統一】
天正10年(1582年)6月24日、
無事に旧領への帰還を果たします。
元与力の肥田忠政・久々利頼興らが離反し、
更に小里光明妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも
森長可の排斥を企むなど、
周囲は敵に囲まれた状態でした。
森長可は敵に一致団結される前に
各個撃破する事を決め、実行していきます。
天正11年(1583年)、
久々利頼興を金山城に呼び寄せて
加木屋正則により仇討させ、
同日夜間に久々利城を攻めたて落城させました。

5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始し、
5月20日に陥落させました。
織田信孝の重臣であった
斎藤利堯も加治田城を手放したため
加治田衆を含めてこれを接収します。
明知城明知遠山氏遠山利景遠山一行等)と、
信孝方の小里城主・小里光明を
美濃国から追放しました。
旧領復帰から11ヶ月ほどでこうして
美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、
東美濃全域並びに
中濃の一部にまで版図を拡大しました。
統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、
加治田城を始めとする
いくつかの城を廃城処分としています。
また、この頃より書状の上で
武蔵守を自称しています。

【早すぎる死と戦場を駆け抜けた人生】
天正12年(1584年)4月9日、
小牧・長久手の戦い井伊直政の軍と激突して
奮戦しましたが、
水野勝成の家臣・水野太郎作清久配下の
鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で
眉間を撃ち抜かれ即死しました。
その場所には現在武蔵塚が建てられています。
享年は27歳で、
正に戦場を駆け抜け、
あっという間に去った人生でした。





【人となり】
【鬼武蔵】
父の森可成と同様に槍術に優れ、
その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称されました。

【気性が激しい】
非常に気性の激しい人物で、
他の織田家臣団の奉公人を
些細なことで怒りに任せて
槍で突き殺したり、
同僚に暴言を吐くなどして
諍いを起こすことも少なくなかったそうです。

【妻と対等】
妻の池田氏に宛てた遺言が
丁重な言いまわしであることから、
森夫婦の間柄が役割分担の明確な
対等の関係にあったことと推察されます。

【子供・娘】
小牧・長久手の戦いに出陣する前に、
「娘のおこうは侍ではなく、
京都の町人で医師のような
人物に嫁がせるように」
という遺言を妻の池田氏に対して
残しているそうです。

【子供・息子】
森長可の嫡男である森玄蕃を、
根本城城主若尾元昌が保護したとされ、
森玄蕃は元和五年(1619年)に、
42歳で亡くなっています。

森蘭丸(森乱丸)】

森 成利(もりなりとし)は、安土桃山時代の武将。
森 蘭丸(もりらんまる)という名で知られる
織田信長の近習です。
本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死しました。
名前については幼名を乱(らん)とするものや、
諱を長定(ながさだ)や
長康(ながやす)とするものなど幾つかあります。
文書では「乱」あるいは
「乱法師」という名が用いられています。

森乱丸・山城サミット

永禄8年(1565年)、
織田信長の家臣・森可成の三男として
尾張葉栗郡蓮台に生まれました。
天正5年(1577年)5月、
織田信長に小姓として
弟らと共に召し抱えられます。
以後、織田信長の側近として活動します。
天正9年(1581年)4月20日には
近江国に500石の知行を与えられています。

【金山城主となる】
天正10年(1582年)、
甲斐武田氏滅亡後は
甲州征伐に貢献したとして
信濃川中島に領地替えとなった
兄の森長可に替わって
美濃兼山及び米田島を与えられました。
ただし森乱丸は在城せず、
森長可の家老である各務元正が
森乱丸に付けられ、
城代を務めたとされています。

【本能寺の変】
同年、本能寺の変において
本能寺で明智光秀の軍1万に囲まれて健闘するも、
織田信長に槍で傷を負わせた
明智配下の安田国継(天野源右衛門)
によって討ち取られました。
享年は18歳でした。

【森忠政】

森 忠政(もりただまさ)は、
安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。
信濃川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。

元亀元年(1570年)、
美濃金山城で織田信長の家臣・森可成の
六男(末子)として生まれました。
幼名は仙千代でした。
誕生と同年中に父が戦死、
長兄の可隆は父に先立って戦死したために
次兄の森長可が家督を継いでいました。

【森家の家督を継ぐ】
天正10年(1582年)の春頃、「長重」を名乗ります。
天正12年(1584年)4月9日、
兄の森長可が小牧・長久手の戦いで戦死します。
森長可は遺言書で長重への家督相続について
末の弟の長重の家督相続にかなり否定的でした。
けれども豊臣秀吉も自分に味方した
武将の領地を没収する訳にはいかず、
遺言のこの一節は無視して、
長重を金山7万石の跡継ぎとして指名し、
各務元正と林為忠の両家老を
後見役に任命しました。
森家も金山に
そのままとどめ置かれました。
長重は家督を継いでまず、
かつて恩の有る伴惟安や
息子の伴惟利ら森長可の代まで
協力者の立場であった甲賀衆に
森家への仕官を打診し、正式に召抱えています。

天正13年(1585年)になると
「一重」と改名します。
同年の富山の役に1500の兵を率いて
16歳で初陣を果たします。
10月6日に従五位下右近丞に叙任。
天正14年(1586年)になると
「忠重」と改名し
秀吉の関白拝賀のため参内しています。
天正15年(1587年)2月6日、
「羽柴右近大夫忠政」と称します。

関ヶ原から江戸時代へ】
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、
慶長8年(1603年)、
美作国一国18万6500石(津山藩)
への加増転封が決定します。
入封後、美作国人一揆を終息させましたが、
今度は家臣の不祥事や争いが勃発します。
新たな家中の抑えとなる人物を探し、
江戸幕府旗本となっていた
数少ない森一族である
叔父の森可政の津山藩入りを幕府に希望します。
幕府もこれを認め、
森忠政は森可政に5000石の所領と執政職の権限、
更には従弟で可政の四男である森可春にも
3000石の所領を与えました。
森可政らの津山入りの際には、
森忠政が自ら国境付近まで出迎えに赴くなど
厚くもてなしたそうです。
以後、家中での不祥事と
言えるような出来事は収束しました。

寛永11年(1634年)7月7日、
食中毒で死去しました。
享年は65歳でした。





【森長可と森可政】
叔父の森可政と父親の森可成は
37歳も年齢が離れており、
兄の森長可より年下でした。
家督を継いだ森長可の
補佐に回るようになり行動を共にしていましたが、
本能寺の変後、
森長可配下の甲賀衆の伴惟安は、安土城にいた
森長可の弟の仙千代(後の森忠政)と母の妙向尼、
森可政の娘・於鍋を秘密裏に救出に向かうも、
於鍋だけを政情不安な安土に置き去りにしています。
この一件以降、
森可政は森長可と不仲となり
森家を出奔したのでした。
なお、於鍋は後に森可政が独力で救出しています。

【森一族の墓】
【1・奥の白い壁を入っていきます】
森家廟所入り口

【2・階段を上がります】
森一族の墓まで

【森家廟所案内】
森家廟所案内

【森可成と森長可】
森可成・森長可

森坊丸・森蘭丸・森力丸】
森乱丸・力丸・坊丸

【森一族の墓がある可成寺
可成寺

【斎藤正義】

斎藤 正義(さいとう まさよし)は、
戦国時代の武将、美濃烏峰城(兼山城)主。
関白近衛稙家の庶子に生まれ、13歳の時、
比叡山横川恵心院に出家させられました。
武事を好み、家臣の瀬田左京の姉が
斎藤道三の愛妾となっていた縁で、
齋藤道三を頼ってその養子となります。
天文元年(1532年)に16歳で元服すると
齋藤道三と敵対する
土岐頼純方との合戦で活躍します。
天文6年(1537年)、
近辺の14諸将の協力を得て烏峰城を築城しますが、
これは斎藤道三の背景あってのものと推定されています。
翌年の天文7年(1538年)に
齋藤正義はこの新城に入城すると、
大納言を自称します。





天文17年(1548年)2月、
配下の久々利城主である久々利頼興に
館へ酒宴に招かれて謀殺されました。
享年33歳でした。
遺骸は浄音寺に葬られました。
烏峰城は頼興の手勢500余人により落城し、
久々利頼興の一族の
土岐十郎左衛門が留守代とされました。
これに対し斎藤道三が報復せず、
久々利頼興も久々利城に優る
烏峰城に自ら入城して
齋藤正義に取って代わろうとしなかったのは、
齋藤正義の勢力が拡大し、
意に沿わなくなったため、
齋藤道三が配下の久々利頼興を使って
謀殺したからではないかという考察もあります。

【墓所がある浄音寺】
浄音寺

【斎藤正義の墓所】
斎藤正義の墓

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