史跡・城跡

久々利城跡~土岐久々利氏・遺構がわかりやすい土の城~斎藤正義を暗殺するもその孫に謀殺された久々利頼興

久々利城・登城口



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久々利城跡】

久々利城(くくりじょう)とは
現在の岐阜県可児市に存在した日本の城(山城)です。

久々利城・看板

美濃国守護の土岐頼康の弟である
土岐康貞が築城しました。
城の麓には、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての
武将及び旗本であった
千村良重が建てた千村陣屋があります。

【歴史】
延元・正平年間(1336年⇒1370年)、
土岐康貞が築城しました。
戦国時代には土岐康貞の末裔である
久々利頼興が居城し、
東濃に勢威を誇りましたが、
天正11年(1583年)に
金山城主であった森長可に攻められ陥落し、
以後は森家家臣の
戸田勘左衛門が城代となりました。
慶長5年(1600年)に森家が
信濃に転封となると
それに伴い廃城となりました。

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2019年11月9日・10日開催!
全国山城サミット・森乱丸

【所在地】
〒509-0224 岐阜県可児市久々利1133

【形態】
山城

【築城主】
土岐康貞(三河守悪五郎)

【築城年】
延元、正平年間(1336年⇒1370年)

【主な城主】
土岐氏久々利氏
【廃城年】
慶長5年(1600年)

【遺構】
土塁、堀、曲輪、井戸、石碑

【交通アクセス】
【電車】
名鉄「明智」駅から南東方向へ
徒歩1時間程度。
【車】
東海環状自動車道
「可児御嵩IC」から南へ10分程度。

【駐車場】
道路を挟んでやや向かいにある
「可児郷土歴史館」に駐車できます。

【トイレ】
「可児郷土歴史館」内のトイレ利用が出来ます。
※※駐車場から登城口までの
県道横断にはくれぐれもご注意ください!!

久々利城址の前の県道




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【構造】
発達した虎口と大規模な切岸という
戦国城郭の典型的なモデル。
築城当初の単調な造りと
戦国時代後半に導入された横矢や
桝形虎口、横堀があり、複合的な構造となっています。
久々利城総合案内

【登城の様子や時期】
小学生くらいのお子様でも
比較的登城しやすいそうです。
但し、夏場はうっそうと草木が生い茂るため、
草木が少なく、土城を堪能できる
落ち葉の時期が最も適しているそうです。
土の城としての遺構が
よくわかり、家族でも楽しめる気軽なお城として
なかなかの人気なんだそうです。

【土岐久々利氏】

久々利城の築城者は土岐康貞でした。
初代美濃守護となった土岐頼貞の孫にあたります。
「久々利」氏を名乗ったのは、
土岐康貞の子である久々利行春からであるそうです。
土岐康貞以来、名は「悪五郎」、
受領名は「三河守」を代々称していました。

土岐久々利氏

<系図>
土岐頼清⇒土岐康貞(五男)⇒久々利康頼(別名:三河行春
⇒久々利春頼⇒久々利頼忠ーーー(略)---久々利頼興

【久々利頼興】
久々利 頼興(くくりよりおき)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将でした。
美濃国久々利城の最後の久々利氏の城主でした。

斎藤正義暗殺!】
久々利頼興の時代、
斎藤道三の猶子である
美濃烏峰城主・斎藤正義の配下でした。
けれども天文17年(1548年)2月、
久々利頼興は斎藤正義を館で開催される
宴に招きその席で斎藤正義を謀殺しました。
これは本来ならば罪に問われる所業でしたが、
齋藤正義は斎藤道三と意見を違える事も多く、
この一件で罰せられる事はなく、
久々利頼興は東美濃における実力者として
影響力を強めていきました。

【森家の家臣として】
その後の斎藤道三と
その子・斎藤義龍の家督争いでは
齋藤義龍を支持します。
齋藤義龍死後は
引き続き斎藤龍興に仕えましたが、
織田信長の美濃侵攻軍の前に
徐々に追い込まれ、
永禄8年(1565年)には
織田信長に降伏しその軍門に下りました。
以後、烏峰城改め金山城に入った
森可成の配下へと組み込まれ、
森可成が志賀の陣で戦死した後は
跡を継いだ森長可の家臣として
織田家に仕えました。
天正10年(1582年)に、
森長可が信濃国川中島に領替えとなった後は、
森成利(森乱丸(蘭丸))の
家臣扱いであったと推測されます。

本能寺の変後は森氏に反旗】
本能寺の変で
織田信長や森成利らが横死すると、
信濃から旧領である金山に復帰した
森長可を亡き者にして排除しようと、
遠山友忠
東美濃の諸氏と共に反旗を翻します。
けれども、
東美濃の城は次々と森軍に制圧され、
久々利城も危うい情勢に陥ります。
一方、森長可の軍も
度重なる戦いで疲弊しており、
和睦を持ちかけられると
久々利頼興もこれを了承。
この時、森長可は警戒を解くために
自身の弟である仙千代(後の森忠政)を
人質として久々利へと遣わせていました。
なお、本能寺の変で、
織田信長に殉じた小姓に
一族と思われる久々利亀がいたそうです。




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【因果は廻る、暗殺】
翌、天正11年(1583年)1月、
久々利頼興は飛騨国出兵の打ち合わせを兼ねた
新年の祝いの行事の為に、
仙千代と共に森長可の居城の金山城に訪れ
夕刻まで接待を受けた後、帰路に着きます。
すると、
金山城の杉が洞口で、
森家の家臣の加木屋正則に
「斎藤大納言の仇である」
と襲われその場で誅殺されました。
この加木屋正則は、
かつて久々利頼興が謀殺した
斎藤正義の遺児・加木屋正次の子で、
齋藤正義の孫にあたる人物であったそうです。

【200年の久々利氏滅ぶ】
この事件は私怨に駆られた加木屋の狼藉では無く、
全て久々利頼興を排除しようとした
森長可の策謀であったそうです。
久々利頼興に預けられた
仙千代そのものが影武者でした。
そして同日深夜に森長可は
久々利城に夜襲を仕掛け、
久々利城は為す術なく、
一晩で陥落させらました。
久々利頼興には子が2人おり、
落城前に何とか脱出したそうですが、
その後どうなったかは知れず、
久々利において200年以上に渡って
勢力を誇った久々利氏は滅びました。

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