城跡

真壁城~大掾氏の一族である真壁氏が支配、江戸時代に浅野長政が真壁藩5万石を与えられます。

真壁城址(常陸国)



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真壁城

真壁城(まかべじょう)は、常陸国真壁郡、
現在の茨城県桜川市真壁町古城にあった
戦国時代の日本の城(平城)でした。
大掾氏の一族である真壁氏
代々支配しました。
国の史跡です。
真壁城跡 本丸
説明板

【城郭構造】
平城

【築城主】
真壁長幹

【築城年】
承安2年

【主な城主】
真壁氏、浅野氏

【廃城年】
江戸時代前期

【遺構】
土塁、掘割、土居

【指定文化財】
国の史跡

【概要】
真壁駅跡の東に位置し、
加波山系の足尾山西麓にある
台地上に築かれた連郭式の平城でした。
また、古代の真壁郡家が
存在したとも言われ、
真壁郡の中心地に位置していました。

【地理地形】
城は東西に延びる尾根状の微高地に立地し、
中央の本丸を同心円状に囲む
二ノ丸があるほか、
二ノ丸の東側に三の郭(中城)・
四の郭(外郭)が続き、
外郭南東端には
鹿島神社が祀られています。
本丸西側にも郭が
連なっていましたが、
市街地化により消失しています。
城の南北は湿地や川が
防御となっていました。
真壁城跡

【築城と真壁氏の起こり】
築城は承安2年(1172年)と
伝えられています。
大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って
真壁氏を名乗り、
郡家の場所に築城しました。
以来真壁氏の居城として続きました。

【文献の中の真壁城】
文献上で真壁城が初出するのは
興国2年(1341年)12月で、
北畠親房の「御方城々」として、
真壁城がみえ、南朝方の城でした。
のち北朝方に立場を変え、
真壁氏は地頭職を有しています。
応永30年(14233年)、
真壁慶幹のとき小栗満重の乱に
小栗方で参加したため
足利持氏軍によって
落城となりましたが、
その後の混乱の中で
真壁慶幹の従兄弟・朝幹が
真壁に復権しました。




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【廃城へ】
17代久幹のときに次男義幹が
岡城に分家します。
18代氏幹に至って
甥の柿岡城主房幹(義幹の子)に
家督を譲ったため、
真壁城は真壁本家の城ではなくなりました。
その後、慶長7年(1602年)、
佐竹氏の秋田転封の際、
佐竹氏の家臣団化していた真壁氏も
出羽角館へ移住し、
真壁城は空城となりました。
そののち慶長11年(1606年)、
浅野長政が隠居料として
真壁藩5万石を与えられます。
同16年(1611年)に
浅野長政の跡を継いで真壁城に
浅野長重が入城しました。
元和8年(1622年)、
浅野長重は加増され、
真壁は領有し続けるものの
常陸笠間城へ移動となり、
真壁城は廃城となりました。

【遺構など】
城門のうち薬医門が各々一棟、
楽法寺黒門(旧大和村、伝大手門)・
個人宅表門(旧協和町)として
移築され現存しています。
縄張りは本丸以東は良好に残っていますが、
二の丸の西側以西は市街地化し
ほぼ消滅してしまっています。
本来は真壁町古城地区全域が
城域に当たるとのことです。
古城地区の西に大手前の地名が残っており、
同地近辺が大手だったと伝わっています。
本丸跡には旧真壁町立体育館があります。
二の丸跡には体育館建設での残土が
盛られているなど中枢部の
保存状態は良くありません。
また二の丸には櫓台のような高所が
ありますが、残土の山で
遺構ではないとのことです。
建物遺構も検出されるのは
痕跡のみが多く、廃城となった際に
撤去されたためと考えられています。
真壁城跡

【国の史跡】
昭和9年(1934年)以来、
本丸の一部が
茨城県指定史跡となっていましたが、
1994年10月28日に
国の史跡に指定されました。

【発掘調査より】
1997年以降発掘調査が
続けられております。
成果に基づき外曲輪の土塁や
壕が復元されています。
また中城(三の郭)の発掘調査では、
水路や池を伴う大規模な
庭園の遺構と共に、茶室や
能舞台と思われる建物群の
痕跡が検出され、
その規模は茨城県内でも
最大級と見られています。

【トイレ】
真壁体育館内のトイレを
ご利用ください。

【駐車場】
真壁体育館駐車場を
ご利用ください。
ただし、真壁体育館利用者の
優先となりますので、
スポーツ大会開催時などは
利用できない場合があります。
真壁体育館(0296-54-0753)まで
お問い合わせください。
(特にバスや複数台で来訪される場合)




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【交通アクセス】
(電車・バス)
JR水戸線「岩瀬」駅より
タクシー約20分(10km)

JR「岩瀬」駅より桜川市バス乗車⇒
「真壁城跡」下車(20~40分)⇒徒歩約5分

バス停「筑波山口」より
桜川市バス乗車⇒「真壁城跡」下車(25分)
⇒徒歩約5分

(車)
桜川筑西ICより約20分(11km)

真壁高上町駐車場より徒歩約20分(1.3km)

【真壁氏】

真壁氏(まかべし)は、
常陸国真壁郡に栄えた武家です。
本姓・家系は桓武平氏の一門である
平繁盛の流れをくむ大掾氏(多気氏)の
流れを汲み、多気直幹の四男・長幹を
祖とします。
通字は「幹」(もと)。

【歴史】
真壁氏はもともと
常陸平氏の宗族であり
常陸国府の有力在庁官人であった
大掾氏を祖とする一族です。
祖とされる真壁長幹が
多気氏の四男であり、
分家するにあたり真壁郡に領地を得、
真壁城を築城し、
次第に真壁郡を中心として
真壁氏の勢力基盤が
形成されるようになりました。
ただし、常陸平氏以外の
真壁氏も存在しており、
「吾妻鏡」正治2年2月6日条に
登場する「真壁紀内」は
紀姓真壁氏で内舎人を務めた
人物と比定されています。

鎌倉時代】
源頼朝が東国において自立した際、
当初は積極的な関与をしていませんでした。
が、後にこれに臣従します。
真壁郡の大半を占める
真壁荘地頭に任じられ、
御家人として活動するようになりました。
ただし、真壁荘自体は
平家没官領から関東御領に
組み入れられた後に北半分は
鹿島神宮に寄進されたと
考えられています。
預所には幕府官人の
三善康清が任じられるなど、
真壁氏の支配には大きな制約が
加えられたのでした。
また、南半分は国衙領に編入されて
真壁氏が地頭を務め、少なくても
鎌倉時代末期まで真壁荘は
関東御領であった北部「庄領」と
国衙領であった南部「公領」から
成り立っていたとのことです。

【美濃真壁氏】
長幹の後を継いだ真壁友幹は
後妻に加藤景廉の娘を迎え、
彼女所生の子は
生母から美濃国小木曾荘の
地頭職を継いで美濃真壁氏を
起こしました。
その後、安達氏を介して
北条得宗家や三善氏に代わって
預所となった二階堂氏との
関係を強める方向を取ったと
推定されますが、
霜月騒動で裏目に出て
得宗家に真壁荘の一部を奪われています。
さらに元弘の乱では幕府側にあり、
中先代の乱でも北条時行に
呼応したためにさらなる所領の
没収を受けた形で
南北朝時代を迎えることになります。
真壁城跡
【南北朝時代】
当初、真壁氏は南朝方にくみし、
北朝方の佐竹氏と対抗関係にありました。
けれども後に北朝方に転じて、
足利尊氏より真壁郡9郷の
地頭職を本領安堵されたということです。
しかしながら、真壁氏の庶流の中には
長岡氏の当主・長岡宣政率いる
南朝方もおり、真壁宗家は
近隣の南朝方や一族との
骨肉の争いを余儀なくされました。
これら南北朝をめぐる騒乱においては、
真壁氏も甚大な犠牲を払い、
真壁行幹の嫡男であった真壁智幹・
満幹親子とその弟である
真壁親幹が自刃し、
行幹の次男の真壁幹重が家督を
継いでいます。
ただ、この時期の真壁氏の系図は
混乱しています。
最終的に宗家を継いだ真壁広幹は
実は前述の美濃真壁氏の
末裔である真壁政幹の孫で、
室町幕府の動員によって
東国に下った後に
幕府の力を背景に鎌倉以来の
惣領家を排除して
宗家の地位を奪ったとされています。




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【足利将軍家と鎌倉公方の対立】
その後、南北朝時代が終焉を迎えると
しばしの平穏が訪れました。
が、足利将軍家と鎌倉公方の対立が起こると、
幕府は東国における親幕府勢力として
佐竹氏一門の山入氏、小栗氏、結城氏、
宇都宮氏、大掾氏、真壁氏を
京都扶持衆と位置付け、
真壁氏は幕府方の武将としての
立場をとったのでした。
その関係で真壁氏も都鄙の騒乱に巻き込まれ、
真壁秀幹(広幹の孫)は
上杉禅秀の乱および続く小栗氏の乱に
与力した咎で鎌倉公方足利持氏から
所領没収の処分を受けたのでした。

【永享の乱・享徳の乱】
秀幹および後を継いだ慶幹が
鎌倉府の追討を受けて没落したことで、
真壁氏再興を目指す2つの動きが生じました。
1つは秀幹の甥である
真壁朝幹によるもの、
もう1つは秀幹の庶子である
真壁氏幹です。
朝幹は鎌倉公方である
足利持氏に出仕して
その奉公衆になることで
赦免を受けて真壁荘一帯を
与えられています。
これに対して、氏幹はともに
所領を没収されていた長岡氏や
白井氏とともに足利持氏および
朝幹に抵抗しています。
その後、永享の乱で鎌倉公方が
いったん滅亡したことを機に、
氏幹らは京都の室町幕府に
朝幹を訴えました。
ところが、足利成氏
鎌倉公方として再起すると、
足利成氏の意向を受けて
朝幹の勝訴に終わったのでした。
けれども今度は
享徳の乱が起きて足利成氏が
下総国古河城に逃れて
古河公方と称すると、
朝幹は成氏方に氏幹は幕府方に加わります。
ところが、朝幹は途中で幕府側に寝返り、
一方の氏幹は信太荘の戦いで
息子と共に戦死します。
競合相手がいなくなった朝幹は
将軍足利義政から真壁氏の当主として
認められますが、
その後も状況に応じて
幕府方と成氏方との間で支持を
転々としていたのでした。




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【永正の乱】
真壁尚幹(久幹)は
父・朝幹の方針を引き継いで
享徳の乱を生き残りましたが、
古河公方・足利政氏と
嫡男・足利高基が
骨肉の争いを起こす(永正の乱)と、
真壁氏は足利高基方に
くみしたとされています。
その後、真壁氏は結城氏と
小田氏の争いにも巻き込まれ、
結城方の武将としてくみして
小田方の江戸氏と戦い、
結城方勝利に貢献するなどの
武功を挙げています。

【佐竹氏の家臣へ】
その後戦国時代中期に入ると、
真壁氏は真壁久幹の次男が
佐竹義昭から偏諱を受けて
真壁義幹と名乗り、
一方で久幹の嫡男は北条氏政
もしくは足利義氏の偏諱を受けて
真壁氏幹と名乗るなど、
佐竹氏や南関東を
制圧した後、北条氏との間を
うまく渡り歩き、
最終的には佐竹氏の家臣となって
活躍しました。

【秋田へ】
特に、真壁氏幹は武勇に秀で、
佐竹家中において
鬼真壁の異名をとるなどの
活躍を見せたと言われています。
その後、戦国時代も終焉を迎えた
17世紀初頭には、主君である
佐竹義宣関ヶ原の戦い
西軍方となった咎で
出羽国秋田に転封となると、
真壁氏はこれに随行したのでした。

浅野長政~豊臣秀吉の姻戚で五奉行筆頭、政治面で手腕を発揮、関ヶ原では徳川家康を支持します。

伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城) ~平良兼は平将門の叔父にあたりこの地は「弓袋山の対陣」の舞台です。

大国玉神社 (桜川市)~平将門の妻「君の御前」の父である平真樹の館がありました。

小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。

古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。

結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。

藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。

鹿島城(常陸国)~平安時代末期に鹿島氏によって築城されました。築城者の平姓鹿島氏とは?

塚原城~大掾氏一族で鹿島氏分流の塚原氏が居城し、剣聖として有名な塚原卜伝も城主となりました。

島崎城~常陸大掾氏の一族である島崎氏の居城、よく整備され遺構もわかりやすく登城しやすい城です。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。

山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。

大国玉神社 (桜川市)~平将門の妻「君の御前」の父である平真樹の館がありました。

后神社(桜川市)~平将門の妻で平真樹の娘とされる「君の御前」を祀っています。

御門御墓(平将門居館?)~平将門の供養塔とされる五輪塔があり付近には妻を祀る后神社があります。

岩瀬城~茨城県桜川市にある城で詳細や歴史は不明、益子氏或いは笠間氏の支城の可能性あり。

常陸・富岡城~坂戸城主小宅氏の家臣である稲川土佐氏が城主とされています。

坂戸城(常陸国)~宇都宮氏家臣の小宅氏の居城、この城を巡り宇都宮氏と小田氏で激戦が繰り広げられました。

飛山城~宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城で築城は鎌倉時代、国指定の史跡です。

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