織田家

今江城~加賀一向一揆出陣の城~時を経て織田軍との対戦し、落城する

今江城 石碑




今江城(いまえじょう)】

今江城は別名「御幸塚城(御幸城)」とも言われていました。
築城の時期ははっきりとはしませんが、
富樫 泰高(とがし やすたか)
(生誕:応永25年(1418年)⇒死没不明)
の築城と伝わります。
場所は小松市立今江小学校の敷地内、
小高い丘にあります。

【小学校の所在地】
石川県小松市今江町6丁目167

【構造】
比高15mの丘が主郭だったと思われます。
そこから北東方面に7m程の櫓台あとがあり、
その部分に石碑が建っています。
そこから西の方面に下った処にも郭があります。
更に今江小学校も、
比高は6m程あるそうで、
この小学校付近も外郭だったと
推測されているそうです。

<今江城跡への道>
今江城跡 道

【今江城の歴史と富樫泰高】
加賀守護であった富樫泰高の
居館跡とも伝わっています。
富樫満春の三男として誕生したそうです。
兄である富樫教家と家督争いの末、
加賀を二分して
富樫教家の子供である富樫成春と、
富樫泰高とでそれぞれ半国の
守護を分け合いました。
やがて、富樫成春が病死し、
再び加賀一国の守護となりましたが、
寛正5年(1464年)に、
幕府に求めた隠居が許可され、
家督は富樫成春の子である
富樫政親が継ぎました。
ところが長享2年(1488年)、
富樫政親が加賀一向一揆によって自害します。
今度は富樫泰高が一向一揆により擁立されます。
実際の加賀支配権は蓮如の三人の子に握られ、
傀儡の当主とされていましたが、
国内の荘園を押領して
独自の権力の強化に努めた、とのことです。

【一向宗の拠点の一つの城】
このことから、
「加賀は一向宗の持ちたる匡」として、
今江城は一向宗の拠点の一つと
なったということです。
こうして、長享2年(1488年)頃から
天正8年(1580年)にかけて、
加賀の本願寺門徒らが
中心となった信徒による一揆、
加賀一向一揆(かがのいっこういっき)が、
続いていくことになりました。

【加賀一揆が起こるまで】
話が前後しますが、
加賀一揆が起こるまでの経緯を説明します。
浄土真宗の僧侶である蓮如(れんにょ)は、
文明6年(1474年)から
文明7年(1475年)までの間、
吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在していました。
蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、
北陸の浄土系諸門を次々と統合していきました。





【富樫家の内紛に介入】
文明5年(1473年)には、
富樫政親の要請を受けて
守護家の内紛に介入し、
翌年には富樫幸千代を倒しています。
蓮如はこれによって
守護の保護を受ける事を
期待していたのですが、
逆に富樫政親は本願寺門徒の勢いに
不安を感じていたといい、
文明7年に門徒の弾圧を開始します。
蓮如は吉崎御坊を退去し、
加賀の門徒は政親に追われて
越中に逃れていきました。

【門徒と共に決起】
ところが、今度は越中砺波郡の石黒光義が
富樫政親と結んで門徒弾圧に出たところ、
文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、
石黒光義が討ち取られました。
富樫政親は、加賀の一国支配の認知を目指して
9代将軍足利義尚による
六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍しましたが、
それに伴う戦費の拡大により、
国人層が反発して越中から帰還した
門徒とともに決起するに至ったとの事です。

【本願寺による加賀支配】
足利義尚は一向一揆の討伐を検討しましたが、
細川政元の反対と足利義尚の死去により、
一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止になりました。
以後、加賀に宗主代理の一門衆、
●松岡寺住持蓮綱
●光教寺住持蓮誓
●本泉寺住持蓮悟が在住し、
次第に国人層から本願寺による
加賀支配に移行していきました。

【各国の武将と対立】
天文15年(1546年)に、
尾山御坊(金沢御堂)が建設されました。
現在の金沢城跡です。
寺とはいうものの、
大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく
石垣を廻らした城ともよべる要塞でした。
そこを拠点として北陸全体に、
一向一揆を拡大させていきます。
弘治元年(1555年)及び
永禄7年(1564年)に朝倉氏と、
1570年代前半は上杉謙信と、
その後は織田信長と対立していきました。
元亀3年(1572年)は、
杉浦玄任を総大将とする
一揆勢が上杉軍と数ヶ月に渡って激突し、
各地で上杉軍を破るなど
猛威を振るったそうです。
けれども、上杉謙信率いる
上杉本隊が到着するに至り戦況が悪化し、
尻垂坂の戦いで大敗を喫し、
一揆の勢いに陰りが見え始めたのでした。





【天正4年の出陣】
天正4年(1576年)、
一向一揆衆は、織田軍を迎え撃つために、
この城から出陣したと伝わります。
内田四郎左衛門、林七介らが出陣して、
大聖寺城にいる織田信長の家臣である
簗田 広正(やなだ ひろまさ)を
攻撃したと伝わります。
簗田広正は織田信長に援軍を求めました。
そこで織田信長は、簗田広正に変えて、
佐久間盛政を、大聖寺城に入れます。
佐久間盛政は、当時の配下であった
徳山則秀を遣わし、調略させて、
内応者を出して攻め落としたとされています。

<今江城跡・主郭付近>
今江城 主郭付近

なお、徳山則秀(とくやまのりひで)は、
美濃国出身です。
徳山氏は途中で土岐氏からの養子が入り、
清和源氏土岐氏庶流となりました。
本来は東漢姓坂上氏の庶流で、
美濃国大野郡徳山の土豪でした。

前田利長が布陣した場所】
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、
東軍の前田利長が、
加賀国内の西軍の勢力抑制のために、
この今江上城に、配下の山崎長徳、
奥村栄明、太田長知らを布陣させたと伝わっています。

越中国守館跡~越中国~大伴家持が赴任し暮らした館、万葉集を中心に良く歌に詠まれた国 

津幡城~平維盛が砦を築き、富樫氏が戦い、上杉謙信が布陣、前田利家が末森城の合戦の軍議を開いた城。

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周辺の歴史的史跡⇓
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小松城

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