史跡・城跡

長久手古戦場公園~徳川家康VS羽柴秀吉の小牧・長久手の戦いのうち主戦場となった長久手の戦いの場所。

長久手古戦場公園



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長久手古戦場公園

 
天正12年(1584年)に
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と
徳川家康が激烈な戦いを
繰り広げた主戦場跡地で、
国の史跡に指定されています。
現在、この場所は
「古戦場公園」として整備されており、
園内には武将の塚や
郷土資料室があります。
長久手古戦場公園案内図

その中には「小牧・長久手の戦い」に
関するジオラマや資料などがあります。
また、ここから1キロ北にある
「色金山歴史公園」には、
徳川家康が合戦時に腰掛けて
軍議を開いたとされる
石が残されています。
色金山

古戦場公園内には、
小牧・長久手の戦いで戦死した
池田恒興、元助親子の塚があります。
<勝入塚(池田恒興)>
勝入塚(長久手古戦場公園) 池田恒興

<庄九郎塚(池田元助)>
庄九郎塚(池田元助)

この公園は、「日本の歴史公園100選」
にも選ばれており、
例年ですと毎年4月上旬には
「長久手古戦場桜まつり」
が開催され、大勢の人でにぎわうとのことです。

【古戦場公園所在地】
〒480-1121 愛知県長久手市武蔵塚204
堀秀政・森長可・池田恒興・羽柴秀吉

【交通アクセス】
(電車・徒歩)
地下鉄「名古屋」駅から「藤が丘」駅で下車。
東部丘陵線リニモに乗換え
「長久手古戦場」駅下車。徒歩5分程度。
リニモ(東部丘陵線)
「長久手古戦場」駅下車。徒歩5分程度。
(車)
東名高速「名古屋」ICから約7~10分程度。

池田恒興・羽柴秀吉・井伊直政・織田信雄・徳川家康
※池田恒興の家紋のうち「揚羽紋」

【駐車場】
無料で40台

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い
(こまき・ながくてのたたかい)は、
天正12年(1584年)3月から
11月にかけて、
羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と
織田信雄・徳川家康陣営の間で
行われた戦いです。
尾張北部の小牧山城・
犬山城・楽田城を中心に、
尾張南部・美濃西部・美濃東部・
伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で
合戦が行なわれました。




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また、この合戦に連動した戦いが
北陸・四国・関東でも起きており、
全国規模の戦役でありました。
名称に関しては、
江戸時代の合戦記では「小牧」や
「長久手」を冠したものが多く、
明治時代の参謀本部は「小牧役」
と称していました。
ほかに「小牧・長久手の役」・
「天正十二年の東海戦役」
という名も提唱されています。
長久手史跡案内図

犬山城の占拠】
天正12年(1584年)3月13日、
徳川家康が清洲城に到着した日、
織田氏譜代の家臣で
織田軍に与すると見られていた
池田恒興が突如、
羽柴軍に寝返り犬山城を占拠しました。
徳川家康はこれに対抗するため、
すぐに翌々日の15日には
小牧山城に駆けつけました。
犬山城 天守(模型)

【前哨戦となる羽黒の戦い
3月15日、池田恒興と
協同せんとする森長可は兼山(金山)城を出て、
16日羽黒(犬山市)に
池田勢より突出したかたちで着陣。
が、この動きはすぐに
徳川軍に知られ、同日夜半、
松平家忠・酒井忠次ら5000人の兵が
羽黒へ向けてひそかに出陣します。
翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。
酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1000に対抗し、
押し返していた森勢でしたが、
側面から入ってきた
松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、
さらに酒井勢2000が
左側より背後に回ろうとするのを見て
敗走しました。
森勢の死者300余人ということでした。
羽黒城跡(犬山市)

【小牧における対陣】
徳川家康は3月18日、
小牧山城を占拠し、
周囲に砦や土塁を築かせ
羽柴軍に備えました。
一方の羽柴秀吉は
3月21日に大坂城を出発、
3月27日に犬山に着陣。
双方共に戦況は膠着状態に陥ります。

【羽柴秀次の出陣】
4月4日、池田恒興は
羽柴秀吉のもとを訪れて献策。
5日朝、池田恒興は羽柴秀吉のもとを再訪し、
森長可とともに羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べ、
羽柴秀吉は許可し、森長可らを主として
支隊を編成し、4月6日夜半出発。




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岩崎城の戦い】
羽柴秀次勢は徳川家康が
小幡城に入った8日に行軍を再開。
岩作の香流川を渡った三河奇襲部隊は、
第1隊池田恒興・之助父子7千と、
第3隊戦付目堀秀政5千でした。
これらの隊は、
生牛ヶ原と金荻原を進んでいました。
第2隊森長可3千のうち別動隊は、
一色城と長鍬城を焼き討ちしました。

長久手城と加藤景常供養塔>
長久手城と
加藤景常供養塔

この火の手を見た岩崎城
留守番を預かる丹羽氏重と、
長鍬城の城主である加藤景常は
偵察を出し、松明を持たず
行軍する敵軍の部隊を確認して
城兵を招集し、戦闘のため
女や子供を北西の空濠から
妙仙寺へ逃すとともに、
先制攻撃を仕掛けます。
これに対し池田軍も反撃し、
岩崎城守備隊は引き上げました。
この攻撃を受けて
岩崎城攻囲作戦指示が出され、
4月9日未明に池田恒興勢が
丹羽氏重(氏次の弟、16歳)が守備する
岩崎城(日進市)の攻城戦を開始。
岩崎城主である丹羽氏次
徳川家康に従い小牧に出陣しており、
城は丹羽氏次の弟である
丹羽氏重(当時16歳)が
守っていたのでした。
池田恒興勢に、
丹羽氏重らは善戦しましたが、
岐阜根より南下して来た
森長可隊の一部によって、
竹の山より火縄銃で
威嚇をされたため怯み、
この隙に討ち取られました。
更に丹羽氏重の弟等、
伝七郎や四郎右衛門も
討ち死にしました。
こうして約三時間で
岩崎城は落城し玉砕しました。
この戦いでの池田恒興勢の
消耗が激しく、
徳川勢の先遣隊に追撃の
機会を与えてしまっています。

この間、羽柴秀次、森長可、
堀秀政の各部隊は、
現在の尾張旭市、長久手市、
日進市にまたがる地域で休息し、
進軍を待っていました。
けれどもその頃すでに
徳川軍は背後に迫っていたのでした。




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【白山林の戦い】
岩崎城で攻城戦が行われているころ、
白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)で
休息していた羽柴秀次勢はに9日、
後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、
側面から榊原康政勢に襲撃されます。
この奇襲によって羽柴秀次勢は潰滅。
羽柴秀次は自身の馬を失い、
供回りの馬で逃げました。
また、目付の木下祐久やその弟の
木下利匡(木下勘解由)を初めとして
多くの木下氏一族が、
羽柴秀次の退路を確保するために
討ち死にしました。
<木下勘解由塚>
木下勘解由塚

【桧ヶ根の戦い】
堀秀政勢に、羽柴秀次勢の敗報が
2時間後に届きました。
堀勢は直ちに引き返し、
羽柴秀次勢の敗残兵を組み込んで
桧ケ根に陣を敷き、川軍を待ち構えます。
羽柴秀次勢を撃破して
勢いに乗った徳川軍は、
檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで
堀勢を攻撃、返り討ちにされて
逆に追撃されました。
徳川軍支隊の死者280余とも
500人ともいうことでした。
<堀秀政本陣地跡>
堀久太郎秀政本陣地跡

織田徳川本隊は、9日に
小幡城を出発して東へおおきく迂回し、
権堂山付近を過ぎて色金山に着陣。
そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、
岩作をとおり富士ヶ根へ前進して
堀秀政勢と池田恒興・森長可勢
との間を分断しました。
この時、堀秀政は
徳川家康の馬印である
金扇を望見し、
戦況が有利ではないことを判断し、
池田と森の援軍要請を
無視して後退しました。

【長久手の戦い】
岩崎城を占領した池田恒興、
森長可に徳川軍出現の報が伝わり、
両将は引き返しはじめました。
そのころ、徳川家康は富士ヶ根より
前山に陣を構えていました。
右翼に徳川家康3300人、
左翼には井伊直政勢3000人、
これに織田信雄勢3000人。
一方、引き返して対峙した
池田恒興・森勢は右翼に
池田恒興の嫡男・池田元助(之助)、
次男・池田輝政勢4000人、
左翼に森勢3000人、
後方に池田恒興勢
2000人が陣取りました。
長久手古戦場公園

4月9日午前10時ごろ、両軍が激突。
戦闘は2時間余り続いたということです。
戦況は一進一退の攻防が続きましたが、
前線に出て戦っていた
森長可が狙撃されて討死して
池田・森軍左翼が崩れ始めると、
徳川軍優勢となりました。

<武蔵塚>
武蔵塚(長久手市)

<武蔵塚・説明>
武蔵塚・説明(長久手市)

池田恒興も自勢の立て直しを
図ろうとしましたが、
永井直勝の槍を受けて討死。
池田元助も安藤直次
討ち取られとのことです。
<勝入塚・説明>
勝入塚・説明(長久手古戦場)

<庄九郎塚・説明>
庄九郎塚・説明(長久手古戦場)
池田輝政は家臣に父・兄は
既に戦場を離脱したと説得され、
戦場を離脱しました。
やがて池田恒興・森勢は潰滅し、
合戦は徳川軍の勝利に終わり、
追撃したのち小幡城に引きあげました。
この日の長久手の戦いにおける
羽柴軍の死者2500余人、
織田徳川軍の死者590余人という結末でした。

<血の池公園>
小牧・長久手の戦いのとき、
徳川家康方の家臣である
渡辺守綱らが血のついた
槍や刀を洗った池がありました。
この池には
「毎年、合戦のあった4月9日に
池の水が赤くなる。」という伝説が残り、
「血の池」と呼ばれていました。
現在、池はありません。
血の池公園(長久手市)

【羽柴秀吉と本多忠勝の戦闘】
羽柴秀吉は9日に陽動として
小牧山へ攻撃をしかけています。
午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、
羽柴秀吉は3万人の軍勢を率いて
戦場近くの龍泉寺に向けて急行しました。
けれども500人の本多忠勝勢に
行軍を妨害されました。
夕刻、「家康は小幡城にいる」
との報を受け翌朝の攻撃を決めます。
徳川家康と織田信雄は夜間に
小幡城を出て小牧山城に帰還。
羽柴秀吉は翌日この報を聞き、
楽田に退きました。
ただし、本多忠勝が
羽柴秀吉と戦闘に及んだ日は
羽柴秀吉の書状写や本多忠勝の書状写から
五月朔日であることが窺えるので、
長久手合戦での徳川家康本隊の戦闘に
不安を感じたからではなく、
進軍する羽柴秀吉本隊に対する
危機感からではないかと思われているとのことです。




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【長久手の戦い参加武将】
<羽柴軍>
池田恒興
森長可
池田元助
関成政

<徳川軍>
徳川家康
織田信雄
井伊直政
榊原康政
水野忠重
大須賀康高
永井直勝
安藤直次

末森城(尾張国)~織田信秀が東方防御の為に築城、小牧長久手の戦いで織田信雄が整備。

羽黒城~梶原景時の孫である梶原景親が築城し尾張梶原氏として存続するも「本能寺の変」にて殉じ、滅亡しました。

小牧山城(小牧城)~織田信長が初築城し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康が本陣を置きました。

池田恒興~織田信長とは乳兄弟で育ち幼馴染、最古参の家臣となり、長久手にて戦死します。

犬山城 ~現存天守12城・日本100名城・国の史跡で国宝、木曽川沿いの丘上にある美しい城です。

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。

名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

池田輝政~徳川家康の婿殿で寡黙ながら大活躍し、姫路城を現在ある姿にしました。

末森城跡~末森城攻防戦の地~前田利家VS佐々成政、前田利家の加賀・能登統治の基礎構築の場。

浜田城(伊勢国)~田原忠秀が築城し四日市の地名も誕生、後に滝川一益に攻略され落城、子は小牧・長久手の戦いで討死

伊勢・千種城~後醍醐天皇に仕えた千種氏の子が築城、中世の典型的な山城の形状が残っています。

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