鎌倉殿の13人

七尾城跡~国史跡の日本五大山城~能登畠山氏の本拠地。上杉謙信、前田利家も登場する能登の歴史攻防の城。

七尾城址



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七尾城跡】

七尾城(ななおじょう)は、
能登国鹿島郡七尾(現・石川県七尾市古城町)
にあった日本の城(中世の山城跡)で、
国の史跡に指定されています。

【別名】
松尾城、末尾城

【城郭構造】
連郭式山城

【天守構造】
なし

【築城主】
畠山満慶

【築城年】
1428年⇒1429年(正長年間)

【主な改修者】
畠山義綱、上杉謙信

【主な城主】
畠山氏、鰺坂長実(上杉氏)、前田氏

【廃城年】
天正17年(1589年)

【遺構】
郭、石垣、土塁、堀切、虎口、

【指定文化財】
国の史跡

【七尾城について】
七尾湾が一望できる、
石動山系の北端の標高300mほどの
尾根上(通称「城山」)に本丸がありました。
その尾根から枝分かれする
行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した
大規模な山城です。
周辺には
二の丸跡、三の丸跡、遊佐屋敷跡、
温井屋敷跡などの屋敷跡や、
武器を保管した調度丸跡、
乗馬の訓練をした桜の馬場跡、
寺屋敷跡、安寧寺跡など、
平坦な場所が数多く残されています。

<七尾城跡案内図>
七尾城跡 案内図

【七尾という名前】
「七尾」という名は
「七つの尾根」
松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾から
由来されるということです。
別名として「松尾城」あるいは
「末尾城」と記した資料も残っているそうです。
これは城が七つの尾根のうち
松尾に築かれたためであるからです。

また、麓(古屋敷町)から
本丸跡への旧道(大手道)沿いには、
時鐘跡、番所跡、沓掛場などの地名が残り、
麓にも屋敷跡や町屋跡が拡がっています。

<七尾城跡中心部 復元図>
七尾城跡中心部 復元図

【城の歴史】
【室町時代・安土桃山時代】
室町三管領家の七尾畠山氏の初代当主で
能登国守護の畠山満慶が
正長年間(1428年~1429年)頃に
この地に築いたと思われます。




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当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、
行政府である守護所も
府中(現七尾市府中)に置かれていたそうです。

畠山満慶が能登畠山家を創設したのは
応永15年(1408年)で、
本格的な築城は
能登に入国(初代、第2代は京都在京)した
第3代畠山義統(よしむね)の
文明9年(1477年)以降で、
永正年間(1504年~1521年)
とも考えられています。

やがて次第に拡張、増強され、
以後約150年間にわたって
領国支配の本拠となり、
5代当主である畠山慶致の頃には
守護所も府中(七尾城山の麓)から
七尾城へと移されたということです。
その後、畠山義続・畠山義綱の頃には、
能登では戦乱が続いたために増築され、
最大の縄張りとなったと言われています。
山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、
山頂にそびえる七尾城の威容は
「天宮」とまで称されたと
記録に残っているそうです。
日本五大山城のひとつに数えられるほど
強固な城だったのです。
昭和14年(1939年)に
国史跡に指定されています。

第11代の畠山義隆(よしたか)が没する
天正4年(1576年)まで
能登畠山家は168年間続きました。

七尾城の戦い
天正4年(1576年)に
能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されます。
上杉謙信は、かつて人質(養子扱い)として
差し出されていた上条政繁(畠山義春)を
新たな畠山氏の当主として擁立し、
かねてから乱れている能登の治安を回復するという
大義名分の基に能登攻めを開始します。
七尾城は一年にわたって持ちこたえました。
けれども、重臣同士の対立の末に
擁立されていた若年の当主であった
畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの
対立を収めることができず、結果七尾城は孤立。
最終的には遊佐続光の内応によって
徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害されました。

そして同年9月13日に
開城されたのでした。

越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、
のちに織田氏によって領され、
城代として菅屋長頼が入って政務にあたった後に
天正9年(1581年)に
前田利家織田信長より
能登一国を与えられて入城しましたが、
七尾城は中世の山城であったため、
防御上は利点があったのですが、
港から離れていて治世・経済上の利便性に不便でした。
そこで前田利家は七尾港に近い
所口村の小丸山に平山城を築くことを決定し、
天正10年(1582年)には
七尾城から小丸山城に移り住んだのでした。
そして更に、金沢城に移っていきました。




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<小丸山城跡>
小丸山城跡

<小丸山城跡・案内図>
小丸山城跡 案内図

そのため小丸山城には、
兄の前田安勝が城代として入りました。
更に、前田利家の次男である
前田利政が小丸山城に入り、
前田安勝の子である前田利好が七尾城に詰めました。

のち天正17年(1589年)に廃城となりました。
なお、七尾市の「七尾」は、
七尾城という日本の戦国時代の山城の名前に由来しています。

【現代】
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(34番)に選定されました。

スタンプ設置場所⇒七尾城史資料館
(12月11日~3月10日は
七尾市教育委員会文化財課(七尾市役所内))

【遺構】
前田利家が能登に在国したおり、
小丸山城に移ったため、
現在の七尾市街地も小丸山付近にあります。
従って開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、
遺構が数多く残っています。
低石垣を五段に積み重ねた本丸の石垣を中心に、
各曲輪の石垣のほとんどが現存しています。
そのため、山城の歴史上重要な遺跡として、
1934年(昭和9年)に、
国の史跡に指定されています。
このような遺跡は他には
若狭の後瀬山城しかないそうです。

若狭武田氏の本拠地であった後瀬山城~若狭武田氏の始まりと滅亡~

2005年(平成17年)には
地中レーダー探査による七尾城の遺構調査が行われ、
そこで柱跡などの遺構が確認されています。
城門は、市内の西光寺に移築されたとされています。

【曲輪】
<本丸>
戦国期の山城に多い「野面積み」石垣が残る。
七尾城 本丸

<本丸へ続く道>
本丸への階段

<本丸の石垣>
本丸 石垣

<本丸からの七尾湾、能登島>
七尾城跡 本丸からの眺め

<二の丸>
本丸にある案内板。
本丸にある二の丸案内板

<三の丸>
<西の丸>

<調度丸>
多数の出土品が発見。
七尾城跡 調度丸跡

<長屋敷>
撮影場所は「本丸駐車場」です。
向かって左側の上あたりが長屋敷です。
長屋敷、本丸駐車場

<遊佐屋敷>
最も本丸に近い重臣屋敷。
遊佐屋敷跡

<遊佐屋敷跡の説明>
遊佐屋敷跡の説明

<温井屋敷>

<寺屋敷>
この下が寺屋敷。
工事中で通行が憚られたので行きませんでした。
寺屋敷(の上)

<桜馬場石垣>
石垣が五段に組まれ、七尾城でも最大規模。
桜馬場石垣

<桜馬場跡>
七尾城跡 桜馬場跡

<復元建造物・周辺施設など>
本丸跡から能登半島と日本海が
よく展望できるそうです。
畠山氏と上杉氏家紋の
「七尾城まつり」幟が建つ時があるそうです。

<本丸跡からの七尾湾と市街地>
本丸からの七尾湾と七尾市街

<謙信歌碑>
本丸「国指定史跡 七尾城跡」にある
上杉謙信の「九月十三夜」石碑が有名ですが、
二の丸跡にも畠山義忠の
「野も山も みなうつもるゝ 雪の中 しるしはかりの 杉の村立」
など複数の歌碑が城址内に建っています。

<畠山義忠公の歌碑>
畠山義忠公の歌碑

<樋の水(とよのみず)>
袴腰から調度丸への道沿いにある城内の水源。
涸れた事がないと伝わっていますが、
2007年の能登沖地震では水量が激減しました。
けれども2019年に
水量が回復したことが確認されています。

<城山神社>
七尾城跡 城山神社

【支城】
能登守護の畠山氏は、
鹿島郡(以前は能登郡)府中(現・七尾市府中)の守護館から
七尾に拠点を移したため、
付近のみならず郡外にも複数の支城を持っていました。

熊木城(鹿島郡中島町谷内)
黒滝城(珠洲市正院町川尻)
富来城(羽咋郡富来町)
城ヶ根山城(同上)
粟生城(羽咋市柳田町)
米山城(鳳至郡柳田村国光)




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【交通アクセス】
【鉄道・タクシー】
JR西日本・七尾線「七尾駅」から
「七尾城史資料館」まで徒歩60分、タクシー約15分。

【市内循環バス】
まりん号東回り「七尾駅」バス停から
「城史資料館前」バス停まで約13分。

【徒歩】
七尾城史資料館から
旧道(大手道)を経由して本丸まで徒歩約60分

<麓の看板>
七尾城 麓の看板

<七尾城 戦国のみち 案内図>
七尾城 戦国のみち 案内図

【車】
能越自動車道七尾城山ICより
本丸駐車場まで約10分。
本丸駐車場へは国道159号
「城山登山口交差点」から
石川県道177号城山線経由。
※本丸駐車場には一応トイレはあります・・。

<七尾城 登城口>
七尾城 登城口

<本丸駐車場から調度丸への道>
本丸駐車場から調度丸への道

散策所要時間:40分~3時間30分程度

【観光施設】
<七尾城史資料館>
※日本100名城スタンプ設置場所
(12月11日~3月10日は
七尾市教育委員会文化財課(七尾市役所内))

【所在地】
〒926-0024 石川県七尾市古屋敷町 シカマ藪8番地2

【電話】
0767-53-4215
七尾城169年間の守護大名畠山氏の歴史がわかります。

こちらの資料館にきてから、
七尾城跡に行きますと
七尾城跡の見どころがよりわかり、
更に楽しく見ることができるのではないかと思います。

<調度丸から桜馬場の石垣>
調度丸から桜馬場の石垣

<資料館展示物>
◆畠山氏に関した写真や七尾城跡から発掘されたもの
◆七尾城のCG

<七尾城の御城印>  
七尾城の御城印の販売を
令和元年9月15日よりはじめたそうです。

◆国指定史跡・七尾城跡⇒300円
◆探訪記念・七尾城⇒300円
◆国指定史跡・日本100名城
七尾城跡・日本五大山城(大きいサイズ)⇒400円

販売場所:七尾城史資料館

<入館料>
大人:200円
高校生・大学生:160円

団体は20人以上:160円(大人)・120円(小人)

<営業時間>
 毎週月曜日、月曜日が祝日の場合は翌日

<営業時間>
午前9時から午後5時まで
 (入館は4時30分まで)

<懐古館>
<開館時間>
午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
<所在地> 
七尾市古屋敷町タ部8-6
<電話>
0767-53-6674
<家の間取り>
間口9間、奥行き6間で
能登旧家の典型的なもので、
ケヤキ、杉、あすなろ、松、栗などをつかっています。

<欄間>
軒下の欄間には近江八景、座敷の翁(おきな)、
媼(おうな)の欄間は石動山の寺院、
五十八坊の中心にあった東林院のものであった
古雅な趣きを秘めています。

<庭園> 
広い庭園の石は七尾城武家屋敷の基礎石であり、
当時の古井戸なども残されています。
庭の苔は40種類以上もあり、
石川県低地の代表的な苔植物園と言われています。

<入館料>
大人:200円
高校生・大学生:160円
団体は20人以上:160円(大人)・120円(小人)

<七尾城山展望台>
本丸駐車場から車で5分、
徒歩で15分。
七尾城跡、和倉温泉など七尾市全域を一望できる展望台。
12月にはイルミネーションが点灯します。

【七尾城の戦い】

七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)は、
天正4年(1576年)11月から
天正5年(1577年)9月にかけて、
越後の上杉謙信軍と
能登畠山家の重臣・長続連率いる
畠山軍の能登七尾城での戦いです。
この戦いで上杉軍が勝利し、
能登は上杉家の支配下に入りました。

【織田家と上杉家の関係】
元亀3年(1572年)、
足利義昭が黒幕として蠢動していた信長包囲網により、
反織田勢力に苦しめられていた織田信長は、
西上作戦で東から圧力をかけていた
甲斐の武田信玄に対抗するため、
同じく武田信玄と敵対していた
越後の上杉謙信と同盟を締結しました。
織田信長と上杉謙信は伊勢、
越中で一向一揆とも敵対しており、
その上でも利害は一致していたのでした。

【状況の一変】
しかし元亀4年(1573年)4月12日、
武田信玄が西上作戦の途上で死去すると状況は一変。
この2年前には北条氏康も死去しており、
2人の強敵が死去した事で
関東方面に目を向ける必要性が縮小し、
むしろ越中・加賀で一揆を続ける一向宗こそが
大敵となりつつあったのでした。
そのため、天正2年(1574年)に
関東に出陣して北条氏政と戦った後、
上杉謙信は上野厩橋城を中心とした
関東を北条高広・景広父子に任せて、
以後は北陸方面へ勢力拡大を図っていったのでした。




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【織田との同盟破棄】
織田家では、天正3年(1575年)5月、
織田信長が武田勝頼長篠の戦いで破り、
さらに8月には柴田勝家に越前侵攻を命じ、
当時越前を支配していた石山本願寺
下間頼照ら1万2000人の宗徒を処刑。
このため石山本願寺は危機感を強め、
天正3年(1575年)6月に
上杉謙信に救援を求めたのでした。
9月には越前一向一揆の残党が
越中富山城の河田長親に救援を要請。
これらの要請に加え、
織田信長の北陸方面への勢力拡大という
現実的危機と利害の衝突から、
天正4年(1576年)2月に
上杉謙信は織田信長との同盟を破棄し、
5月に足利義昭の仲介を受けて
顕如と和睦して同盟を締結し、
反織田勢力の一員となったのでした。

【能登守護・畠山家の内紛】
天正4年(1576年)9月、
上杉謙信は2万と号する大軍を率いて
まず越中に侵攻します。
越中は、もともと
河内能登畠山家が守護でしたが、
戦国時代に入ると
守護代の神保氏、椎名氏らが力をつけて
互いに覇権を争っていたのでした。
能登畠山家では畠山義綱が
永禄9年(1566年)に
家臣団によって追放され、
その後釜として擁立された畠山義慶も
天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げました。
これは家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも
一説では言われているそうです。
そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も
天正4年(1576年)に死去し、
遂にはその畠山義隆の子で
まだ幼児の畠山春王丸が擁立されるなど、
著しく不安定であったのでした。
大義名分は、かつて畠山氏から
人質として差し出されていた上条政繁を
新たな畠山氏の当主として擁立し、
かねてから乱れている能登の治安を
回復するというものでした。

本丸石垣を臨む

【第1次七尾城の戦い】
これに対して、
能登畠山家中は上杉謙信の介入を嫌い、
対決する姿勢を鮮明にしたのでした。
七尾城内では老臣筆頭の長続連以下
兵2000での籠城戦と決定。
長続連が七尾城の大手口、
温井景隆が古府谷、
遊佐続光が蹴落口を
それぞれ守備することになりました。
さらに長続連は上杉謙信の背後を撹乱するために、
笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して
一揆を起こすように扇動したのでした。
ところが、上杉謙信もかつて
一向一揆に悩まされた経験から
一揆に関する情報網があり、
これらを全て鎮圧した上で
七尾城を囲んだのでした。
けれども七尾城は難攻不落で縄張りも広く、
春日山城にも匹敵する堅城だったため、
さすがの上杉謙信も容易に攻めることが出来ません。
そこで七尾城を孤立させるために
その支城群に矛先を転じたのでした。
熊木城、黒滝城をはじめ、富来城、城ヶ根山城、
粟生城、米山城などが、あっという間に落城し、
七尾城は孤立してしまいました。
それでも、堅城を頼む七尾城の長続連らは降伏しませんでした。




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越年して天正5年(1577年)。
3月に北条氏政が北関東方面に出兵したため、
上杉謙信は本国の仕置を兼ねて
いったん越後に帰国しました。
このとき、上杉謙信は熊木城に
三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、
黒滝城に長景連を、
穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、
甲山城に轡田肥後と平子和泉を、
富来城に藍浦長門を、
石動山に上条織部と
畠山将監をそれぞれ配置しました。

【畠山軍の反撃】
上杉謙信が越後に帰国すると、
七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始。
熊木城は畠山の家臣・甲斐庄親家の謀略で
誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こし落城、
七杉小伝次は自害し、
三宝寺平四郎と内藤久弥は討ち死にしました。
富来城にも
畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、
藍浦長門は捕らえられて処刑されました。
また、長続連自身も自らの居城であった
穴水城を奪還すべく出陣するなど、
畠山軍は上杉留守部隊に攻勢をかけたのでした。

穴水城跡~畠山七人衆で、加賀八家である長一族の元々の本拠地~ご先祖は長谷部信連

【第2次七尾城の戦い】
閏7月、北条軍の侵攻は大規模なものではなく、
領国の仕置を済ませた上杉謙信は再び能登に出陣。
驚いた長続連は、
慌てて奪い返した各地の城を放棄して
全兵力を以って七尾城に籠もりました。
さらにこの時、長続連は領民に対して
徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に
領民を七尾城に籠もらせたのでした。
このため、城内は兵士と領民合わせて
1万5000人近くの大人数となったとのことです。
ちなみに、このように七尾城で慌てて
再び籠城戦の準備がなされていたとき、
穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が
七尾に攻め寄せましたが、逆に敗退しました。

長続連は上杉謙信の再出兵に危機感を強め、
僧籍にあった息子の長連龍を
安土城の織田信長の許に使者として派遣し、
援軍を要請しました。
織田信長は要請を了承し、
8月8日に柴田勝家を総大将とした
織田軍を能登に派遣したのでした。

上杉謙信は8月9日に織田軍の越前出兵を知り、
加賀の一向宗の総領である
七里頼周に対して救援を求める書状を送って
織田軍の進軍妨害を求め、
また石動山に本陣を置いて七尾城攻略を急ぎます。

七尾城は堅城でしたが、籠城戦が続く中、
城内で疫病が起こり、
畠山軍の兵士たちは戦いではなく、
疫病で死ぬ者が相次ぎました。
幼君の畠山春王丸も籠城中に
疫病で死去してしまいました。
窮した長続連は小伊勢村の八郎右衛門に
上杉軍に対して一揆を起こすように扇動しました。
ところが一揆はまたもや上杉謙信によって
事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となりました。

こうした状況下で、
かねてから親上杉謙信派であった遊佐続光は、
かねてからの上杉謙信の呼びかけに応じ、
仲間の温井景隆や三宅長盛兄弟らと結託して
内応しようとしていたのでした。
もともと彼らは、親織田信長派として
実権を自分たちから奪った
長続連を快く思ってはいませんでした。
しかもこのまま抗戦しても
勝ち目が無いとも思いました。
遊佐続光や温井景隆らは9月13日付で
上杉謙信に対して内応了承の書状を送りました。
この日は中秋の名月の日で、
本陣で月見の宴を催していた上杉謙信は

「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。
数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。
越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。
遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」
という七言絶句、
いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっています。




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遊佐続光や温井景隆・三宅長盛らは
十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、
城門を開けて上杉軍を招き入れました。
この反乱によって長続連とその子・長綱連、
さらに長綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら
長一族100余人はことごとく討たれました。
長一族で唯一生き残ったのは、
織田信長のもとに援軍を要請に行った長連龍と、
長綱連の末子である菊末丸のみでした。
こうして七尾城は上杉謙信の手に落ち、
能登も完全に上杉謙信の支配下に入ったのでした。

【畠山氏】

畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、
武蔵国を本貫地とする武家の一族。
主に桓武平氏系と
清和源氏系の2家系がありますが、
両者は間接的な血縁関係です。
室町時代には、畠山金吾家が
大和宇智郡・河内・紀伊(管領就任時には山城も)
などの畿内およびその周辺国に該当する
重要な地域を守護として治めていました。
また幕府の管領として国の政務も執っていました。
けれども家督争いにより、
総州家と尾州家に分かれて、
応仁の乱勃発の一因となり、
その後も激しく争い続けました。

また、北陸の越中の守護も兼ね、
分家は能登の守護を代々世襲していました。

【畠山氏のおこり(平姓畠山家)】
坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である
秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷
(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に
所領を得て畠山姓を称したことに始まります。
治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、
はじめは平家方についていましたが、
後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍。

畠山重忠の乱】
しかしながら畠山重忠はのちに北条時政と対立し、
元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で
北条義時の軍との戦闘で敗死しました。

その後畠山重忠の旧領と畠山の名跡は、
足利義兼の庶長子・足利義純が
畠山重忠の未亡人である
北条時政の娘と婚姻し、継承されました。
ただし、畠山重忠の所領は後家(一説に岳母)から
直接息子である泰国に継承され、
さらにその一部は新田義兼の娘の子孫である
岩松氏に流れた可能性もあり、
足利義純の畠山氏継承には不明点も多いそうです。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

【源姓畠山家】
足利義純はもともと新田義兼
(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し
子も儲けていましたが、
その妻子を義絶した上での継承であったそうです。
これによって桓武平氏のひとつである
秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏は消滅し、
清和源氏のひとつ河内源氏の一系である
足利家の一門として存続することとなりました。

【つぶやき・・・】
藤姓足利氏の件と言い、
源氏の足利家、なんか怖い・・。
後の世の諸々の争いも妙に納得・・。

【高待遇の源姓畠山家】
義純の家系(源姓畠山家)は、
名門である畠山家の名跡を継承したことから、
後に足利一門の中で
別家扱いの足利尾張家
(武衛家、いわゆる斯波家)に次いで
高い序列に列せられ、
細川家など他の家臣筋分家とは異なる
待遇を足利宗家から受けることになるのでした。

紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、
分家は能登守護を務めました。

【能登畠山家(匠作家)】
【出自】
七尾畠山家ともいわれています。
歴代の当主が修理大夫に任じられたため、
その唐名より畠山匠作家とも称されていました。
修理大夫は畠山国清が称した官位であることから、
没落した畠山国清系統の再興を
意図したのではないかとの指摘があるそうです。

能登国は、当初は吉見家が守護を務めていました。
しかしながら、康暦の政変において
細川頼之派であった吉見氏興が失脚し、
代わって守護となった
本庄宗成
足利義満の寵臣の一人で元々日野家の家人)も
また統治に失敗があったため、
足利一門にして足利義満の信頼の厚かった
畠山基国が守護となり、
以降は畠山家の分国となったのでした。

【室町時代】
能登畠山氏の創設】
初代当主である畠山満慶は、
父である畠山基国の没後、
当時足利義満の逆鱗に触れて蟄居していた
兄である畠山満家に代わって
畠山家本家の家督を継いでいました。
が、足利義満の没後に畠山満家が赦免されたため、
畠山満慶は家督を兄満家に返還しました。
当時は「天下の美挙」と言われたとのことです。
兄の畠山満家は感謝の意から分国のうち
能登一国を畠山満慶に与え、
応永15年(1408年)に、
畠山満慶を初代とする能登畠山家が創設されました。

【第3代目で能登へ】
畠山満慶と第2代当主である畠山義忠は、
在京守護であり、
所領の支配は守護代の遊佐家に委ねられていました。
しかし応仁の乱後、
第2代当主である畠山義統が
能登に下向したことで在国大名となり、
強力な領国支配体制を築き、
定着していったことで、
他国の守護大名分国で起こったような下剋上が
能登では起こらなかったのでした。

【4代当主時に起きた兄弟争い】
けれども、第4代当主である畠山義元の時、
弟の畠山慶致との間で兄弟争いが起こり、
明応9年(1500年)には
畠山慶致派の守護代の遊佐統秀によって
畠山義元は追放され、第5代当主に
弟の畠山慶致が擁立されました。
しかしながら、一向一揆など戦国の状況が
能登でも差し迫ってくると、
永正3年(1506年)、
両者は和解して
畠山義元は復帰して再び当主となりました。
ただし、その代わりの条件として、
畠山慶致の子である畠山義総
畠山義元の後継者と設定されました。

【戦国時代】
【7代当主は名君】
第7代当主である畠山義総は
名君であったそうです。
畠山氏のお膝元である七尾は、
都から貴族も転居してくるなど、
小京都と呼ばれるほどに栄え、
能登畠山家もまた大いに繁栄しました。

七尾城 調度丸から桜馬場石垣(望遠)

【名君の時代は長く続かず】
しかし畠山義総が死去し、
第8代当主として畠山義続が家督を継ぐと
統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる
重臣の権力者グループに実権を握られてしまい、
大名は傀儡化されてしまうのでした。
第9代当主であった畠山義綱のときに一時、
内乱を鎮圧し大名権力を奪回し、
大名専制支配を行いましたが、
重臣たちの反発を招き、
当主の追放というクーデターに発展しました。
その後はまた重臣たちに権力を握られ、
内部紛争が続き、衰退の道をたどった能登畠山家は、
天正5年(1577年)に
越後の上杉謙信の侵攻を受けて滅亡しました。
畠山義綱の弟である畠山義春(上杉義春)は
上杉景勝に仕え、その姉を正室に迎えて
上条上杉家の名跡を継ぎました。




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【桃山時代】
上杉義春(入庵)は豊臣秀吉の直臣となり、
天正15年(1587年)、
河内国高安郡のうち500石を与えられました。
天正18年(1590年)摂津国豊嶋郡に
300石を加増され、
文禄・慶長の役では
肥前国の名護屋城に在陣しています。
翌年、河内国交野郡に700石を加増され、
父の遺領を合わせて1500石を知行しました。
関ヶ原の戦いで上杉義春は東軍に属し、
1601、自領とは別に次男の上杉長員に
下総国印旛郡ほか1490石を加増。
上杉長員は高家旗本の上杉家の祖となったのでした。

【江戸時代】
【畠山氏の復活】
上杉義春の長男・畠山景広は
上杉景勝に仕え続けて
米沢藩の一門衆・重臣となりました。
三男である畠山義真が父の実家である
能登畠山氏の名跡を継承し、
江戸幕府高家肝煎畠山家の初代となりました。
江戸時代中期、
当主は江戸猿楽町や木挽町に居住していました。

上杉綱勝が僅か8歳で米沢藩3代藩主となると、
畠山義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、
後見的な役割を果たしました。
万治2年(1659年)に隠居し、
家督を次男である上杉義里に譲りました。
延宝2年(1674年)、
90歳を超える長寿で死去しました。

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