【神岡城跡】
神岡城(かみおかじょう)
または東町城(ひがしまちじょう)は、
飛騨国吉城郡神岡(現・岐阜県飛騨市神岡町城ヶ丘1)
に所在した日本の城(平山城)です。
「東町城跡」として飛騨市指定史跡。
なお歴史上の名称は「東町城」で、
「神岡城」は通称となるとのことです。
【別名】
東町城
【城郭構造】
平山城
【天守構造】
なし
独立式望楼型2重3階
1970年(昭和45年)木造模擬
【築城主】
江馬時盛
【築城年】
永禄7年(1564年)
【主な改修者】
金森長近
【主な城主】
江馬時盛、金森氏
【廃城年】
慶長20年(元和元年)(1615年)
【遺構】
石垣、堀
【指定文化財】
市指定史跡「東町城跡」
【再建造物】
模擬天守
【神岡城と江馬氏について】
越中国への侵攻拠点とすることを目的に、
永禄7年(1564年)に
武田信玄の命令で江馬時盛(飛騨国の国人)が築城し、
江馬氏の館群がある高原諏訪城の支城となりました。
【上杉方につく】
けれども江馬時盛の子である江馬輝盛は
上杉方に内通し、
武田信玄が死去すると、
父である江馬時盛を暗殺し、
江馬氏の実権を握ります。
【織田信長に臣従する】
天正10年(1582年)3月、
甲州征伐により武田氏が滅亡すると、
織田信長に臣従します。
その織田信長が
天正10年(1582年)6月、
本能寺の変により横死すると、
10月に三木自綱と
飛騨の覇権をめぐって争いますが、
八日町の戦いで敗れて討死し、
高原諏訪城も陥落したのでした。
没年は48歳と伝わっています。
【江馬輝盛の死と家臣13名の自害】
残った江馬氏の家臣13名は
主君である江馬輝盛の後を追って
大坂峠で自害、地元民に葬られたとのことです。
現在はこの大坂峠を地元では
「十三墓峠」と呼び、
「十三士の碑」が建てられています。
スポンサーリンク
【江馬時政は金森長近を頼る】
なお、後継者とみられる子である
江馬時政は、越中国時政は越中国に逃れました。
或いは越前大野を領した
金森長近を頼ったともされています。
【戦功を挙げたのに旧領復帰ならず】
天正13年(1585年)に、
金森長近率いる飛騨侵攻軍に加わり
戦功を挙げます。
この戦いで父の仇である姉小路氏が滅び、
江馬氏の旧領も金森長近軍の手に落ちましたが、
旧領復帰には到りませんでした。
【江馬時政の自害で金森氏の所有に】
これに不満を持った江馬時政は、
後に鍋山右近大夫や広瀬宗直と共に
兵を挙げましたが鎮圧され自害したとのことです。
そして神岡城は、金森長近の飛田攻略の結果、
金森長近の家臣である山田小十郎が城代となりました。
元和元年(1615年)に
江戸幕府の命令で破却され、
地表上の遺構は曲輪と石垣、
堀のみが残りました。
1958年(昭和33年)12月1日に
飛騨市の史跡となりました。
1970年(昭和45年)に
神岡鉱山を所有する
三井金属鉱業神岡鉱業所の
創業100周年記念として、
模擬天守と模擬城門が建築されています。
現在は高原郷土館、
鉱山資料館などがあります。
2018年(平成30年)夏、
史跡外地域で発掘調査が行われ、
柱穴や堀跡が見つかっています。
【交通アクセス】
JR東海高山本線「飛騨古川」駅から車で30分
【所在地】
〒506-1123 岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘1−1
この記事へのコメントはありません。